平成二十八年東京都議会会議録第三号

○議長(川井しげお君) 六十二番谷村孝彦君。
   〔六十二番谷村孝彦君登壇〕
   〔議長退席、副議長着席〕

○六十二番(谷村孝彦君) 初めに、多磨全生園と人権の森構想に関連して質問いたします。
 ハンセン病はかつて、らい病、業病、天刑病、レプラ等とも呼ばれ、世界には二十二万人の患者の方がおられますが、そもそも微弱な感染症であり、我が国においては、現在十人前後、新規患者は年に一人か二人、通院して薬を飲めば、半年もしないうちに後遺症もなく、治る状況にあります。
 我が国は、日清、日露戦争後の明治四十二年、対外的体裁を整えるために、全国に五つの府県立のハンセン病療養所をつくり、その一つである多磨全生園は、当時の東京府と関東などの十一県の府県立として開設されました。
 昭和六年に、癩予防法が制定され、徹底的に患者の強制隔離が始まりました。我が国におけるハンセン病患者の方に対する偏見や差別の根源は、この癩予防法にあるといわれております。
 この法律では、患者をらい病と診断すると、医者はすぐに警察に通報し、強制収容が行われました。
 多磨全生園の七十年史の編さん委員を務められ、現在も講演活動をされている入所者自治会の佐川修会長は、この癩予防法によって起きたさまざまな悲劇を記し、語られております。
 畑で仕事をしている人を野良着のままトラックに乗せて、こもをかぶせて療養所に連れていく。十七歳の少年が、せめて親が帰るまで待ってくださいと泣いて頼んでも、警察官は面倒だといって、手錠をはめて療養所に連れていく。家族から発病者が出ると、家に警察官が頻繁に出入りし、家が真っ白になるまで消毒されるので、その家族は、もうこの村には住めないと夜逃げをしたり、自殺をしたり、子供が学校に行けなくなったり、嫁いだ娘が返されたりといったことが全国で起こりました。
 終戦から六年が経過し、基本的人権の尊重がうたわれた日本国憲法下の昭和二十六年でも、山梨県で長男が発病し、あす、お前の家を消毒に行くと県から連絡を受けた一家九人全員が、その夜のうちに心中するという大変に痛ましい事件も起きております。
 癩予防法により、全国の療養所に収容された患者の数は一万数千人に及び、療養所とは名ばかりの終身強制収容所で、所長には、みずからの一存で、規則に背いた患者に対し、処罰、監禁を行うことができる懲戒検束権が与えられ、刑務所で囚人を入れる監房よりも劣悪な部屋までありました。
 当時は、入所者の方の平均年齢も若く、結婚すれば落ちつき、逃げ出すこともなくなるだろうと、望む人には結婚を認めましたが、絶対に子供ができないようにと、男性には断種手術をした場合のみ結婚を認め、万が一、女性に子供ができると、すぐに中絶させました。その数は全国で三千百七十三人。六つの療養所には、何と百十六体の胎児のホルマリン漬けの標本が残っていた事実が判明、多磨全生園にも三十六体の標本が残っておりました。
 昭和十八年に、アメリカでプロミンという特効薬が開発されていたにもかかわらず、我が国では昭和二十八年に、らい予防法が改正されはしたものの、患者の隔離、療養所からの外出禁止といった法の本質は全く変わることはありませんでした。
 制定から六十五年後の平成八年四月に、らい予防法が廃止され、療養所という名の強制収容所が建てられてから九十年、現在の憲法下で半世紀も続いた強制隔離、強制収容にようやく終止符が打たれたのであります。
 らい予防法廃止直後に、当時の菅直人厚生大臣が多磨全生園に来て入所者の方々に謝罪しましたが、一部の人たちは、大臣は法律の廃止がおくれたことをわびただけで、長く人権を抑圧したらい予防法で、どれだけ多くの患者や家族が自殺をしたり家庭崩壊を起こしたか知れないのに、そのことについて一言の反省の言葉もおわびの言葉もない、これでは死んでも死に切れないと、平成十年、熊本、鹿児島を皮切りに、国を相手にらい予防法違憲国家賠償訴訟が提起され、平成十三年五月、熊本地裁は、国の憲法違反、人権無視の誤った政策を全面的に認めると同時に、国会議員の立法不作為の責任まで認めるという、我が国の裁判史上類例のない断罪が下されました。
 このとき、多くの厚生労働省の幹部官僚は控訴することを強く主張したものの、当時の公明党の坂口力厚生労働大臣が、辞表を胸に首相官邸に乗り込んだ結果、小泉首相が控訴しない決断をしたことは有名な史実であります。
 この判決が確定し、療養所の様子は百八十度変わり、入所者の方の中には、取材に応じて、テレビや新聞に出たりする方もおられました。ところが、テレビを見た家族から電話がかかり、お前は何でテレビに出てハンセン病だということを話したんだ、二度と家へ帰ってくるなといわれ、その人は、兄さん、そんな時代じゃないんだよ、ハンセン病は普通の感染症だから心配要らないんだよといっても、だめだ、もう絶対帰ってくるなとどなられ、二年に一回は実家に帰っていた人が帰れなくなってしまうなど、偏見や差別などというものは簡単に変わることではありませんでした。
 さて、この多磨全生園は、私の地元東村山にあります。現在は国立の療養所でも、開設当初は府県立で、開設時には、当時の阿部浩東京府知事や府会議員も出席しております。昨年十二月三日、私の要請を快く受けてくださり、前田信弘副知事が、多磨全生園入所者自治会の佐川会長を初めとした役員の方々にお会いしてくださり、要望書を受け取ってくださいました。
 今や入所者自治会の皆様からのご要望はただ一つ、国の誤った政策により、いわれなき偏見や差別を受け隔離され続けてきた歴史を後世に伝えるために、入所者の方が一人もいなくなった後は、この多磨全生園を人権の森として永遠に残してほしい。せめてもの生きたあかしとして、五十年以上も前から入所者の方が植えてこられた三万本の樹木を、お世話になった東村山市民や広く都民の方々に残したいというものであります。
 東村山市では、細渕一男元市長、澤田泉初代副市長がそれぞれ理事長、副理事長を務めておられるNPO法人東村山活き生きまちづくりを中心にさまざまな活動が展開され、多磨全生園は、東村山の地域社会に次第に溶け込み、今では、多くの市民の方々が多磨全生園の豊かな緑やさまざまな催しを楽しみに集う場となっております。
 国会のハンセン病対策議員懇談会の会長を長く務められ、ハンセン病問題解決促進法の公布時に厚生労働大臣を務められた舛添要一知事が、そして、最もハンセン病問題にご理解があり、心血を注がれた政治家が、今、都政の先頭に立たれております。
 本日は、長き人権闘争を勝ち抜かれた佐川修会長を初めとする自治会役員の方々と、そして、いつも寄り添っておられる東村山市初代副市長の澤田泉先生をこの議場にお招きしております。
 ことしは、らい予防法が廃止されてから二十年、熊本地裁の判決確定より十五年という節目の年でもあり、ぜひとも舛添知事には、人権の闘士佐川修会長とお会いいただき、また、多磨全生園にもお越しいただき、入所者の方々を励ましていただければと思います。そして、まだまだハンセン病に対する偏見や差別をなくしていく取り組みを進めていかなくてはなりません。あわせて知事の見解を求めます。
 次に、水道施設について質問します。
 このたび、村山上貯水池堤体の耐震強化を進めるに当たり、私どもの強い要請を受け、堤体道路に歩道設置をし、車道幅も一・五倍に拡幅する決定をしてくださいました。増子敦水道局長の時代までさかのぼってご尽力をいただいた水道局の皆様に心から御礼申し上げます。
 この村山貯水池、通称多摩湖は、新東京百景、東やまと二十景とされ、隣接した狭山自然公園は東村山三十景とされるなど、地元のシンボルとなっております。多摩湖周辺は、緑豊かな環境や貴重な生態系が存在するなど、多くの都民の皆様から大変に親しまれております。その一画に水道局の旧狭山研修所がありますが、これは使われなくなってかなりの期間が経過しております。
 かつての教育庁所管の旧狭山青年の家跡地は、私どもの要望を受け、狭山自然公園来場者用の駐車場となり、大変に喜ばれております。この際、水道局の旧狭山研修所も、周辺環境と一体化した都民の憩いの場として整備すべきであります。現在の使用状況と将来計画について、あわせて答弁を求めます。
 最後に、西武線東村山駅付近の連続立体交差事業について質問します。
 ことしは、石原都政下で掲げた「十年後の東京」の達成年次に当たります。
 平成二十年の予算特別委員会で、この「十年後の東京」について、私と当時の道家孝行建設局長との質疑を受け、都は、翌平成二十一年、全国でたった三カ所しかなかった新規着工準備採択の一つを、東村山の連続立体交差事業でかち取ってくださいました。平成二十五年十二月に事業着手、平成二十七年一月に着工となり、沿線では用地の確保が進んでいる様子がうかがえ、東村山駅構内では工事も開始され、多くの都民の皆様が大変に喜んでおられます。
 現在の取り組み状況について答弁を求め、私の質問を終わります。
 ありがとうございました。(拍手)
   〔知事舛添要一君登壇〕

○知事(舛添要一君) ハンセン病に対するご質問がございました。
 私は、国会議員として、ハンセン病問題の解決の促進に関する法律の制定など、この問題に正面から取り組んでまいりました。また、厚生労働大臣時代の二〇〇八年八月十三日、国立療養所沖縄愛楽園を訪問いたしました。そのときに、実は私の小学校一年と幼稚園の子供を連れて行ったんですけれども、なぜか子供の声が聞こえないんですよ。先ほどおっしゃったように、堕胎していますから。本当に皆さん、喜ばれました。
 当時の厚生労働大臣といたしまして、この一世紀にも及びます国の誤った政策がこのような差別と偏見を生んで、ハンセン病患者、回復者並びにその家族の皆様に筆舌に尽くしがたい苦しみを与えてきたということに深い反省の念を述べて、二十一世紀、こういうことのないすばらしい人権の時代にならないといけないということを表明した次第でございます。都知事となりました今も、このハンセン病問題の解決にかける思いに相違はございません。
 東京にも国立療養所多磨全生園がありまして、百九十五名の入所者の皆様が生活をされておられます。機会を捉えまして、入所者の皆様とお会いして、長年の労苦をねぎらわせていただきたいと思っております。
 また都は、引き続きハンセン病患者、回復者、その家族の皆様が差別や偏見で苦しむことがないよう、ハンセン病に対する理解を深めて、差別や偏見をなくすための啓発を行っていく決意でございます。
 そのほかの質問につきましては、関係の局長が答弁をいたします。
   〔水道局長醍醐勇司君登壇〕

○水道局長(醍醐勇司君) 旧狭山研修所の現在の使用状況と将来計画についてでありますが、旧狭山研修所は、宿泊研修を行うため、昭和五十一年度に村山貯水池用地内に建設をしましたが、通所研修の充実などによりまして、平成十五年度にその役割を終え、現在は、その一部を公文書等の保管場所として暫定的に使用をしております。
 この研修所用地でありますが、地下に導水管が埋設をされているため、今後とも、当局が継続して保有していく必要がございますが、一方で、建物等の施設は、公有財産の適正管理の観点や耐用年数等を踏まえまして、用途廃止をした後、撤去する予定でございます。
 施設撤去後の用地のあり方につきましては、隣接する村山貯水池用地と一体的に管理をしていく中で、地元住民に一層親しまれる場となるよう配慮してまいります。
   〔建設局長佐野克彦君登壇〕

○建設局長(佐野克彦君) 西武新宿線東村山駅付近の連続立体交差事業についてでございますが、本事業は、鉄道を高架化することにより、府中街道など五カ所の踏切を除却することで、道路ネットワークの形成を促進し、交通渋滞や地域分断を解消するとともに、地域の活性化に資する極めて効果の高い事業でございます。
 現在、鉄道や側道の用地取得を行い、取得率は約四割となっております。また、高架化する新しい駅舎のくい基礎工事等を進めております。
 これらに加え、ホーム上空にある通路や改札が高架化工事の支障となることから、今年度内にその代替施設となる仮設地下通路等の工事に着手いたします。
 今後とも、地元市や鉄道事業者と連携し、地域の理解と協力を得ながら、本事業を着実に推進してまいります。

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