平成十三年東京都議会会議録第三号

   午後一時開議

○議長(渋谷守生君) これより本日の会議を開きます。

○議長(渋谷守生君) この際、あらかじめ会議時間の延長をいたしておきます。

○議長(渋谷守生君) 昨日に引き続き質問を行います。
 四十一番高島なおき君。
   〔四十一番高島なおき君登壇〕

○四十一番(高島なおき君) 私は、東京都議会自民党の一員として、石原知事の都政に対する姿勢について、私なりの政治、行政に対する考え方を述べながら、知事就任後から現在までの都政の運営についての知事の考え方や感想について、何点か質問をいたします。
 一般質問は、いわば一方通行でありますので、予算特別委員会のように、相互のやりとりの中で議論を深めるわけにはまいりませんが、頭脳明晰で想像力豊かな知事におかれましては、私の質問の意図を酌み取っていただき、知事自身の言葉で答弁をいただきますよう、お願いを申し上げます。
 まず、政治を志す者の一人として、私の座右の銘を紹介させていただきます。
 いにしえの中国の言葉に、「爾(なんじ)の俸(ほう)、爾(なんじ)の禄(ろく)は 民(たみ)の膏(こう)、民(たみ)の脂(し)なり 下(か)民(みん)は虐(しいた)げやすきも、上(じょう)天(てん)は欺(あざむ)き難(がた)し」というのがございます。
 ご存じかと思いますが、この意味は、おまえがお上からいただく給料は、人民の汗とあぶらの結晶である、下々の人民は虐げやすいが、神を欺くことはできないということでありまして、心あるその時々の為政者が好んで使ったものであります。
 日本では、福島県二本松の五代藩主の丹羽高寛公が、藩士の綱紀粛正の指針として、城の藩庁の通用門の石に刻んだものと聞いております。
 私自身は、この言葉を範として、これまで全身全霊を傾けて議員活動をしてきたつもりでありますが、知事はこの言葉にどのような感想をお持ちか、中央政界の状況を含め、自身の政治信条とあわせて伺いたい。
 さて、私は、足立区の区議会議員を三期務め、平成九年、都議会議員に初当選し、現在に至っております。
 この間、議員として、それなりの歳月を、区政、都政にかかわってきたわけですが、その地域地域で暮らしている人々の生活に何が必要なのかをいち早く察知し、政治はそれをどのように実現していくかを常に考えながら、足立区内をくまなく歩き、区民とともに区政を考え、また、現在は都政を考えて行動しております。
 そして、その地域に根差した視点で政策を提言し、行政の事業に反映させるべく努力をしてまいりました。
 住民のために汗をかくこと、それも政治家の仕事であり、そのことは、先ほど申し上げた言葉と通ずるものがあると確信をしております。
 一方、知事は、常々、東京の危機は日本の危機であり、これを克服して東京を再生させることが日本を変えることであり、そのためのメッセージを国政に対して発信し続けると述べ、国を射程に置いた施策展開を中心に考えているように感じられます。
 確かに、地方においても、国においても、現在の政治には、そうした大所高所から物を見、考えるという視点が不足していることは、私も十分認識しており、その結果が現在の混迷をもたらしたのかもしれないと考えております。
 しかし、住民に最大公約数的な満足を与えるためには、大所高所に立ちつつも、もう一つの視点として、住民の身近な要望にしっかりとこたえていくという視点も重要だと考えるものであります。
 まちづくりに関しては、福祉や道路など、さまざまな日常生活上の相談事にこたえることは、住民に身近な地方自治体の基本的な仕事であり、そうした仕事が行政の仕事の大部分を占めているのが現実であります。
 私が感銘を受けた映画の一つに、市役所を舞台とした黒澤明監督の作品「生きる」があります。余りにも有名な映画でありますので、くどくどストーリーを申し上げるつもりはありませんが、映画の中で主人公が最後に見せた、住民のため献身的に働く姿こそが、我々議員を含め、地方自治体に携わる者として、学ぶべき姿勢であると考えております。それは、市役所全体の中では小さな歯車でしかないかもしれませんが、その積み重ねこそが、地方自治体の仕事であります。
 主人公を例えにとれば、担当したのは、小さな公園の建設にすぎませんが、地元の住民にとっては非常に切実な願いであり、そうした仕事をしっかりこなせなければ、自治体の役割を果たしたとはいえません。誤解のないようにつけ加えれば、その仕事をただ惰性でやっていればよいと申し上げているのでは決してありません。
 「生きる」にも出てくる一般的なお役人、すなわち、仕事をたらい回しにして、責任を何とかかぶらないように逃げ回るお役人には、知事の言葉をかりれば、即刻やめてもらうしかないと思います。
 しかして、ここで行われている住民に密着した日常的業務にも、しっかりと目を向ける必要があると思います。今後の福祉改革のように、時代、時代に適宜、適切に見直しを行っていくことは重要でありますが、こうした日常的な仕事もそれなりに評価をしなければ、住民に十分な安心を与えることはできないし、その職務を担う職員もやる気を失いかねないと危惧するものであります。
 知事は、就任以来、次々と斬新な施策を打ち出し、都民、国民に強烈なメッセージを発信し続けておりますが、一方で、都政を支えているのは、地方自治体が行う地域に根差した業務であり、地方自治体の職員の大多数が担っている日常業務の確実な遂行であります。こうした日常的に行われている地域に根差した業務について、どのような評価をなさっているのか伺いたい。
 そういった仕事が就任前から見えていたのかどうか知る由もありませんが、知事は、就任直後は、都政にスピードと危機意識がなく、ぬるま湯につかり切っていると、事あるごとに批判をしておりました。時には、かなり辛らつな批判であったなというのが、私が当時受けた率直な感想であります。
 それが、最近の発言を聞いていると、大分変わってきたように感じられます。職員への新年のあいさつで、とってもいいチームになってきたと発言をしております。
 私は、行政のリーダーである知事と職員が一体感を高めることは、さらに力を発揮する上で、非常に大切なことであると考えております。執行機関と議会とが、車の両輪として都民の期待にこたえていくためにも、その一方の車輪である執行機関がまとまったチームになることは、都政のまとまりにつながるものと思います。
 矢継ぎ早に行動を起こす中で、感性豊かな知事は、さまざまな発見、経験があったと思われます。就任直後には見えなかった、わからなかったことも、就任後二年を経ようとしている現在、見えるようになったもの、わかってきたことがあると思います。
 そして、それが、最近の発言の変化となってあらわれているのだろうと私は受けとめているのですが、都政や職員に対する知事の認識は、就任直後と比べ、この二年間でどのように変わったのか、素直な感想を伺いたい。
 東京は、二十三区を初め、多くの区市町村から構成されております。その基礎的な自治体である区市町村と東京都の関係について伺いたい。
 知事は、以前、記者会見などで、都の職員は現在の三分の一で足りる、そのくらいは削減できると発言をしておりましたが、私は、仕事そのものは、そんなになくなるとは思っておりません。恐らく知事がいいたかったことは、これまで都がやってきたさまざまな仕事を、民間なり区市町村なりにアウトソーシングしていくことで減らせるのだということではないのかと理解をしております。
 例えば、清掃や保健・福祉の分野などの仕事が、基礎的自治体である区市町村に移譲されることで減っていくのだと理解をしております。そうした権限、仕事の移譲が進む中で、これらの仕事の分野における都の役割というものは大きく変わってくるはずであります。
 もう少し具体的に説明しますと、例えば今般の福祉改革推進プランで打ち出されている保育所の待機児童の解消や、障害者施設の緊急整備などは、実際に行うのは区市町村であり、他の健康づくりやまちづくりなども同様であり、それらの仕事の成否は、いつも区市町村にかかっているのであります。
 こうした分野の仕事について、一義的には区市町村が責任を負うことを前提とした上で、都はどのようなスタンスでかかわっていくのか。すなわち、区市町村に全面的に任せてしまうのか、または、計画立案、広域調整、財政支援といったような広域自治体としての一般的な役割のみを果たすのか、あるいは、もっと積極的に指導するなり、誘導策を講じて、かなりな役割を果たすのかという都の姿勢が問われているのであります。地方分権が進む中で、区市町村もその対応に注目しているところであり、とりわけ、強い影響力を持つ石原知事のスタンスに注目が集まっております。
 私は、今回出された都政改革ビジョンからは、必ずしも明確なメッセージが伝わってはきていないと感じております。分野によっては異なる場合もあるでしょうが、基本的には対等の関係の中であっても、私は、一般的な広域自治体としての役割以上のものを都に期待するものであります。
 都と区市町村のそうした相互作用が、住民の生活の安定、向上につながっていくと考えておりますが、道州制や区市町村の合併の検討といったレベルの話ではなく、現状の体制の中で、基本的な住民サービスに対する広域自治体としての東京都の役割、いいかえれば、都の存在意義というものをどのように考えておられるのか、見解を伺いたい。
 次に、知事が就任時に語った内容について、強く印象に残っている言葉がありますので、その点について伺いたい。
 知事は、平成十一年の就任あいさつで、東京は今、危機的な状況にあり、これを乗り越えなければ、東京が破綻するだけではなく、日本そのものの衰退につながりかねない、こうした事態が生じたのは、個々の政策や施策に起因するだけではなく、もはやその効用を失った中央集権的な政治、行政システムの中で、時代にそぐわなくなった手法や仕組みに気づこうとしない保守性、本質的な課題に対する無関心が、文化遅滞ともいうべき状況を政治の中に生じさせていることに最大の原因があると指摘し、また、今回の施政方針演説でも、国の政治家の大半は、危機の本質に気づいていないように思われてならない、危機の中にあって、危機を自覚していないところに本当の危機が潜んでいると述べ、日本の政治に対する警鐘を鳴らしております。
 そこで改めてお伺いをいたします。知事がいう、その効用を失った中央集権的な政治、行政システムとは、具体的にどのようなものを指しているのか。これは、一昨年五月の知事の発言ですが、現在も十分意義を持つものと評価しておりますので、確認の意味で丁寧な説明を伺いたい。
 まことに残念ながら、今の国政を見ますと、知事が指摘するような危機的な状況はますます深まるばかりであります。我々自民党員としても、昨年来の自民党の混乱ぶりには、非常に心を痛めているところであり、また、国民、都民に対して大きな責任を感じているところであります。
 私は、我々都議会議員や区議会議員が町場で直接聞いてきた住民の危機意識、悲痛な叫びが、国政を動かす立場にある方々へ全く伝わっていないことに、大きな問題が潜んでいると考えております。
 国政に長年籍を置き、その中枢の近いところにいた知事から見て、今日の自民党を含め、国政の低迷はどこに原因があると考えておられるのか、忌憚のない見解を伺いたい。
 最後になりますが、知事が考えている政治スタイルについて伺いたい。
 今申し上げたように、国政が不透明な状況の中で、国民の石原知事に期待するものは非常に大きいものがあり、総理大臣にしたい政治家ナンバーワンというような世論調査の結果もあると聞いております。
 しかし、日本は、アメリカと違い、知事が総理大臣に就任した例は、これまでのところ見受けられません。これは、知事の資質以前の問題として、選挙制度に起因しております。都民が直接選ぶことのできる知事は、それまでの経歴や政党での地位に関係なく就任する可能性を持っているのに対し、総理大臣は、国会議員による間接選挙であり、しかも、現職の議員であることが必要であります。そのため、総理大臣と知事と、どちらが世論を反映して選ばれているかといえば、紛れもなく知事であります。
 私は、総理大臣も直接選挙で選ぶべきかどうか、真剣に検討し、実現していく時期を迎えていると考えております。ポピュリズムに陥る危険性などと、直接選挙に対する反対意見も耳にしますが、私は、知事を直接選挙で選ぶことができて、総理大臣を選べないはずはないと考えております。
 知事は、総理大臣の直接選挙制についてどのような考えをお持ちか、また、現実の問題として、我が国に導入可能かどうか、これまでにもいろいろなところで意見を述べていると思いますが、改めて知事の見解を伺いたい。
 我々自民党は、戦後一貫して都議会における中心勢力として、都政の発展と都民福祉の向上に大きな役割を果たしてきたと自負をしております。
 また、国政に対しても、その時々の状況を的確にとらえ、地方自治体を守り発展させる立場からさまざまな働きかけを行ってまいりました。しかしながら、現下の情勢は自民党に非常に厳しいものとなっております。
 私は、みずからの政治信条である、住民のために汗をかく政治家として、六月の都議会議員選挙を全力で戦い抜くことを表明して、私の質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)
   〔知事石原慎太郎君登壇〕

○知事(石原慎太郎君) 高島なおき議員の一般質問にお答えいたします。
 国政、都政超えた政治の本質に触れる問題ばかりでありました。忌憚ない私の心情も吐露させていただきたいと思いますが、最初の中国の言葉の引用でありますけれども、私たちがはんでいる禄、給料というものは、まさに国民、都民の差し出された税金でありまして、これをいかに使うかということを、私たちはよほど慎重に考えなくてはならないと思います。
 先般も質問がございましたときに答えましたが、どうも国も東京都も、なべて官僚というもの、お役人というものに欠けている発想法というのは、やっぱり金利というものの感覚がない、それから、税金というものを使って行う事業の効果というものに対するいろんなヘッジの方法があるでしょうけれども、例えば保険、保証という、そういう発想というものが非常に希薄であると思います。
 ですから、今日、民間の手法などを積極的に取り入れて、しかも、従来やってきた都の仕事についても外部監査を初めて入れまして、まさに私自身も、あるいは担当のそれぞれ局長、幹部さんたちも、その指摘を受けて、眼からうろこの落ちる思いをしていると思います。
 そういった外部からの発想というものを大いに参考にしながら、私たち、まさにご指摘の民の膏、民のあぶらというものを、いかに民のために行政を通じて有効に還元して使うかということに努力しなければならないと思っております。
 次いで、日常業務に対する評価でありますが、おっしゃるとおり、幾らヘッドクオーターで行政がきれいなことをいって、大きなことをいっても、それが多くの都民を対象とした末端の現場で効果を上げてこなければならないと思います。
 ですから、私、たびたび申しておりますが、行政というものの理想の形は、規模は小さかったかもしれませんが、松戸市が日本で初めて始めた、すぐやる課でありまして、あれこそ行政というものの基本姿勢であると思います。
 でありますから、私自身も、なるたけ現場に足を運んで、自分なりの理解を取りつけ、それを組織を通じて末端で反映できるような行政に心がけてきたつもりですし、また、これからもそういう姿勢を貫きたいと思っております。
 いずれにしろ、その最前線で働いている職員の仕事がきちっとしていなければ、都政全体の大きな建物というのはぐらついてくるわけでありまして、物の見方にはいろいろありますが、バーズビュー、インセクトビュー、つまり鳥が高いところから全体を眺める、その視点も大事でしょうし、同時にまた、地をはう虫が、その局所局所で虫の視線で小さな問題を的確にとらえるという、そういう二つの視点というものを的確に合わせていくことが行政の真髄だと思いますし、それを行っている部分もありますし、足りない部分もございますが、これからです。末端末端の行政というものも、そういう姿勢を徹底させていきたいと思っております。
 次いで、私たちが行い出しました新しい試みについて、それを地域に根差した日常業務で支えている職員は、かなり私たちの意向を理解し、業務に励んでくれていると思いますし、まだまだ足りない部分も部分的にございますが、いずれにしろ、先ほど申しましたように、大きな建物というのは、れんがづくりのようなものでありまして、その一つの局所のれんがが崩れたり穴があいたりすると、まさにアリの一穴から建物そのものが揺るぎますので、今まで申しましたように、最前線で頑張っている職員も、また、そこに行政の指針というものを立案しておろしていくヘッドクオーターも、そういう意識を常に持ちながら都民の負託にこたえる行政を行っていきたいと思っております。
 次いで、二年間やってきて、最初と違って、どうも都の職員に対する評価が少し変わってきたんじゃないかというけれども、余り変わりませんな。やらなくていい仕事をやって、やるべき仕事をやっていない節もありますけれども、少しずつ変化が見えてはきたと思いますし、やっぱり先ほど申しましたように、世間で通用する世間並みの金利感覚なり、保証、保険感覚なりをみんなが持たないと、都民の満足を得るような行政はできないんじゃないかと思います。
 いずれにしろ、意欲は出てきた。東京が変わらなければ、日本も変わらぬかもしれないという、そういう自分の抱えている業務を通じての国に対する視線というものがだんだんできてきたと思いますので、それは大いに評価できますし、また、国民全体が、大いに東京にこれから期待していただいても結構だと思います。
 次いで、都政や職員に対する認識の変化というのはそういうことでありますが、例えばディーゼル車対策、これは、環境問題、つまり大気汚染に対する対策でありますけれども、これに対して主税局が、これはまさに現地の抜き取り調査であるとか、それを構えての踏み込みなどとか、相手が相手でかなり危険な手合いもおりまして、まさに体を張って命がけでやっている節もございますが、いずれにしろ、それがさらに新しいタイプの告発をするということで、地方検察庁とすり合わせもし、そういう協力を得て、脱税だけではなしに、一種の行政の違反をしている行政犯としての摘発を行っているということも、いたずらにライン化していた節がないでもない都政というものが、ようやく横の連帯がとれて複合的に動き出したなという感じがいたしております。
 そういう点で、これからも都民の皆様に、都の行政について期待をしていただいて結構だと私は自負しております。
 それから、広域的な自治体として、都の役割をいかにということでありますが、これは同時に、当然、住民に身近なサービスは、第一義的には、各区市町村がみずからの判断と責任で提供していく必要があると思います。
 ただ、都は、広域的自治体として、そういう立場から区市町村への支援を行うとともに、また、区市町村で賄い切れない発想のようなものがありますし、そういったものを提供することで、都と各区市町村との複合的な行政が、都政として効果も上げ、また、地方自治体のそれぞれの行政として効果を上げていくものではないかと思っております。
 今後策定いたします都政改革ビジョンⅡにおいても、こうした問題の解決を目指しまして、自治制度そのものの抜本的な改革も視野に入れながら、新しい広域的自治体や大都市の行政のあり方について考えていきたいと思っております。
 例えば、秋葉原という非常にユニークなまちがありますが、あそこを非常に先鋭的なまちに組み立て直していこうと。これは、区の問題でもあると同時に、そういう発想は、やはり都が都自身として発想し、かつまた、通産なら通産という国とのかかわりで、東京のために、あるいはあそこの千代田区のために、同時に国のために成功させていかなければならない、そういうターゲットであると思っております。
 次いで、中央集権的従来の政治システムというものをどう評価するか、どう理解するかということでありますが、総じて今までの日本の国政というものは、知らしむべからず、よらしむべしで、情報というものが全然伝わってきませんし、国の役人が何を考えているか、さっぱりわかるようでわからない。変な話でありますが、国政を担当している政治家にもわからない。
 早い話が、橋本内閣のときに、私も議員をやめた後でありまして、用事があって官邸へ行きまして、橋本君や女房役の官房長官の梶山君が一緒に話しながら、とにかくぼやくことは、聞くたびに不良債権の額が違ってきて、いらいらさせられるということをぼやいていましたが、日本で一番高い位置にあるべき総理大臣と、しかも、その女房役の官房長官が大蔵省というものの抱えている問題というものの実態を把握できないということは、これは、あの時点で、私は中央集権というものの政治形態というものはもう既に破綻をしたと。金融が破綻しただけじゃない。それが、そういう従来の政治のシステムというものの破綻をまさに明示していたという気がいたしました。
 時代が変わってきまして、やはり社会の安定と発展に寄与し、我が国が短期間のうちに近代化するためにはある効果もあった従来の政治の手法、いってみると、日本は、ある意味で、一番よくできた社会主義国家じゃないかと思います。官僚統制国家でありまして、これはもう限界に来たわけでありまして、それをパラフレーズして、それぞれの生活様式や価値観というものが変わってきたわけでありますから、そういうものに対応できる、何といいましょうか、やはり幅の広い、間口の広い、しかも、情報というものが開示されながら、むしろ官庁よりもすぐれた発想力のある民間の知恵も力もかりながら、官民一体となった国家の形成、地方自治体の形成というものを、これからも考えていかなくちゃならないと思います。
 ちょうど、私、今の依然として続いている中央集権的な国政を眺めますと、かつて地上に存在したマンモスが結局死滅したのは、むしろその大きさのゆえにでありまして、足をかみつかれても、その痛みが伝わってくるまでに時間がかかるということで、マンモスは死滅していったようでありますが、そういうことにならないような心がけといいましょうか、自己認識というものを政治全体が持ち出すべき時期に来ていると思います。
 次いで、今日の国政の低迷についてでありますが、残念ながら、きのう申しましたけれども、官僚も国の政治家も、すべて場当たりの状況主義になりました。しかも、それを保身というものが支えていて、何というのでしょうか、もっと幅の広い、先を見通した発想というものがなくなってきました。
 国際化が進むこの時代に、例えば、東京といいますよりも、国家にとっての大事な玄関口であります空港一つ見ましても、統計の上では、四年後に国際線などはパンクする。繰り返して申しますが、料金がいたずらに高くなり、乗ろうと思った飛行機に乗れない。そこでオークションをすることで、料金を倍払ったら、やっと飛行機に乗れるというような、そういう状況が来るわけでありまして、それでいながら、つまり、対処し切れずに来た。
 東京が先鞭をつけて、ある提案をすることで、やっと調査費もつき、恐らく東京の提案が通ると思いますけれども、これは本来は国がすべき仕事でありまして、その例一つ見ても、どうも国政というものは非常に鈍感で、また怠慢なていたらくを示しているとしかいいようがない。
 また、外交面で眺めますと、通商も含めて、他国との、外国とのかかわり、特にアメリカや中国等のかかわりを見ますと、非常に一方的な外圧に屈して、持てる力というものを発揮しながら自分というものを表現していく、また、そのための方策というものを自分で決定するということができなくなった。これは、非常に国家にとって大きな危険な要因であると思っております。
 このままでいきますと、昨年の暮れ、CIAの下請機関でありますアメリカの国家情報会議、NICが、日本はあと十五年もたてば、アメリカやEUと並んで世界の中で三極を構成し得る存在にはなり得ない、そういう表現をしておりましたし、特に人口問題については、アメリカは、移民などを入れて次の世代のタックスペイヤーというものを確保したが、日本は、ただ少子化、少子化といってうろたえているだけで、そういう人口という問題の対処を一向に行っていない。これも非常に大きなマイナス要因になるだろうと。
 そしてまた、力がありながら、余り意思表示をしないだけに、アジアにおけるリーダーシップというものをとり直していこう、持ち直していこうという意思が日本から全然感じられないという非常に痛烈な批判をしておりました。
 どうも、いわれても仕方がない。今ある各政党に、そういった外国人が指摘する現状認識が果たしてあるかというと、新聞があげつらっている言葉を政治家が繰り返すだけでありまして、ただ嘆くだけならば、これは政治家の要件を満たしていないわけでありますから、そういった国政に対する国民の不安、不満、あるいは鋭い指摘というものは、決して的を外れていませんし、それを真摯に受けとめることで、国ももう少し国家が抱えているさまざまな問題について敏感になり、かつ迅速に対処してもらいたいものだと思っております。
 それから、総理大臣の直接選挙は、実は昔、中曽根さんが若いころからいわれていまして、私、まだ政治家になる前に、知己でありましたので、生まれて初めて政談演説なるものに駆り出されまして、あの人は、あちこちに非も立てて、首相は国民投票で選ぼうということをいっておられました。その前に自分は総理になられましたけれども。やはり、その中曽根さんの指摘というものは、そう間違っていなかったと思います。
 これは、憲法というものを直しませんと、なかなか実現できませんが、憲法総体について申し上げれば、私は、やっぱり歴史的に正当性のない今日の憲法というものを、どこを直す、あそこを直すということじゃなくて、歴史的に、これを国会が思い切って不信任する。そして、とにかく条件を決めて、今あるもののいいところは残しながら、二年なら二年、年限を区切って、つまり新しい憲法を自前でつくるという、それぐらいの決心をし、採決をすれば、これは党派の問題じゃないと思いますので、つまり、何党を問わず国会議員なる者の歴史的自覚の問題でありまして、都議会からも、そういう要請を強くしていきたいと思っております。
 いずれにしろ、国民投票で総理大臣が選ばれるということが実現するならば、国民の政治に対する参加感というのでしょうか、そういったものはもっと強くなりまして、選んでしまった後、選んだ自分の地元の先生によろしくお願いしますで済まない、そういう責任感というものが、国民にもう少し強く芽生えてくるんじゃないかと思っております。
 なお、他の問題については--これは、もうないんですな。私だけでありました。ありがとうございます。