委員長 | 小磯 善彦君 |
副委員長 | 田中たけし君 |
副委員長 | 伊藤まさき君 |
理事 | 大松あきら君 |
理事 | 山口 拓君 |
理事 | 吉田 信夫君 |
小林 健二君 | |
小山くにひこ君 | |
淺野 克彦君 | |
西崎 光子君 | |
神野 吉弘君 | |
鈴木 勝博君 | |
吉原 修君 | |
田島 和明君 | |
川井しげお君 |
欠席委員 なし
出席説明員青少年・治安対策本部 | 本部長 | 倉田 潤君 |
総合対策部長 | 小濱 哲二君 | |
治安対策担当部長 | 伊東みどり君 | |
参事 | 浅川 英夫君 |
(赤枝六本木診療所院長) | 赤枝 恒雄君 |
(首都大学東京教授) | 宮台 真司君 |
(弁護士) | 田中 隆君 |
(首都大学東京法科大学院教授) | 前田 雅英君 |
本日の会議に付した事件
青少年・治安対策本部関係
付託議案の審査(参考人からの意見聴取)
・第三十号議案 東京都青少年の健全な育成に関する条例の一部を改正する条例
○小磯委員長 ただいまから総務委員会を開会いたします。
初めに、傍聴人の数についてお諮りいたします。
本委員会室の定員は三十二名でありますが、傍聴希望者が定員以上でございますので、さらに二十名を追加したいと思いますが、これにご異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小磯委員長 異議なしと認め、そのように決定いたしました。
○小磯委員長 本日は、お手元配布の会議日程のとおり、青少年・治安対策本部関係の付託議案について、参考人からの意見聴取を行います。
これより青少年・治安対策本部関係に入ります。
付託議案の審査を行います。
第三十号議案、東京都青少年の健全な育成に関する条例の一部を改正する条例を議題といたします。
初めに、参考人招致の詳細について申し上げます。
過日の委員会で理事会にご一任いただきました参考人招致の詳細につきましては、お手元配布の実施要領のとおり行うことといたしました。ご了承願います。
これより赤枝恒雄参考人からの意見聴取を行います。
それでは赤枝参考人、発言席にご移動願います。
ご紹介いたします。赤枝六本木診療所院長の赤枝恒雄さんです。
本日はご多忙のところ委員会にご出席いただきまして、まことにありがとうございます。委員会を代表いたしまして御礼申し上げます。
初めに、赤枝参考人のご意見をお伺いします。
なお、赤枝参考人には、ご着席のままご発言していただきたいと思います。ご了承願います。
それではよろしくお願いいたします。
○赤枝参考人 赤枝でございます。
私は昭和五十二年から六本木で産婦人科を開業して、もう三十二年、開業しております。
十一年ぐらい前からは子どもたちの街角相談室という形で、夜のまちで子どもたちの相談に応じてきております。私はその中で、相談室の中で、子どもたちの性が余りにも危険であるということで、子どもたちを守るいろんな、ガールズガード運動というのを今、展開しているわけです。
しかし、性の問題に関しては、ほとんどの意見がかみ合わないのは、今後この委員会でもそうかもしれませんが、現場を見てくれていないということですね。現場を見てくれていない。
特に、夜の六本木で、木曜日、金曜日、土曜日の夜中の一時、二時、三時ぐらいを見てもらえば、いかに子どもたちが黒人とかいろんな人たちと危険な遊びをしているかということもわかるわけだし、街角相談室に置いていく子どもたちの雑誌、それを後で見てみると、これは見るにたえないような内容の雑誌を、家に持って帰れないから街角相談室の喫茶店に置いていくわけですけれども、それを見ても余りにもひどいと、こういう状況です。
それでドン・キホーテが横にありますから、ドン・キホーテにも私はちょっと時間があると行くんですが、三本千円で非常に過激なレイプものも売っているわけです。内容も、これはひどいものです。必ず結論は決まっているんですけれども、レイプされても最終的には女性が喜ぶよという結論になっています。
そういうものをだれでも買えるんです。ドン・キホーテの中でだれでも買えるので、私はその表現を、細かいところをチェックをしてくれというよりも、私の立場としては、やはり頭が真っ白な子どもたちの中に過激な情報を入れると、非常にいろんなところに、犯罪につながったりするわけなので、その辺のところを、この十分以内でちょっと簡単に、資料をお持ちし、皆さんのところにも手元にあると思うので、ご説明していきたいと思っております。
一枚目は、この議論は、現場を見てもらわないと話にならないよと。いつも、これ、かみ合わないんですね。
そんなこといったって、それはもう家庭でやることだろうとか、これは法律で決めるものじゃないよという議論が必ずあって、まず、今までの中でもかみ合わない。じゃあ、その評論家の先生方はこの現実を見ているんですかと。夜の六本木、来てください。夜中の二時に、木曜日の夜にでも来てください。金曜日の夜にでも来てください。この現実、何ですか。すごい現実になっているわけですよ、子どもたちが。
それはやはり、セックスはおもしろい、気持ちいい、楽しいという情報に操られて、わからないもので、性の危険というかリスクをだれも教えていないんですよ、これは。教えていないです、はっきりいって、これは。だからそのところに問題があって、セックスはおもしろい、気持ちいい、楽しいの情報だけだから、遊びに行くわけですね。
性行為はどういうものか、結果的にどういうことになるのか、怖いことも知らない。ですから、その現実を見てもらわないで、いい悪いというのは、議論がかみ合わないです、今まで。話にならないという程度に、話が合わないです。
アダルトビデオをまず見てくださいよ、皆さん。また、レディースコミックを見てくださいよ。特にレディースコミック、漫画なんかのひどさは、アダルトビデオは映像が流れていくんだからいいんですけれども、ああいうレディコミなんかは像が残るんですね。線が残って、性行為の像が残って、おまけに擬音が入ってペチャペチャとかズドンとか、そういう擬音がいっぱい入っていますから、効果が非常にオーバーに刺激として伝わるわけなんですね。だから、あんなものは、もうとんでもないと思っているわけですけれども。
次のページに行って、十代の人工妊娠中絶の全国のを見てみましても、僕が話をしているのは東京の一部の話ではないですよと。これは全国的に見て、東京は非常に状況のいいところなんです、東京は。中絶も少ない。人工妊娠中絶がこれだけ少ないですよ。中絶と性感染症はリンクしていますから性感染症も少ないですよ、東京は。何でかというと、健全な遊び場があるからこそ少ないんですね。そういうふうに、これはいわれています。
もっとも今、その次のページに性的自己決定権、これ、ありますが、日本は、自分がセックスをしてもいいかどうか、つまりセックスのリスクも全部わかった上でセックスを私はするんだという自己決定権が十三歳、つまり十三歳になるとセックスをしてもいいかどうかという判断ができるはずになっているわけですよ、日本では。
ところが、じゃあそれだったら小学校のときに教えましたか。小学校のときに何も教えていませんよね。
中学校でセックスをしていい。つまりテレビでも「十四才の母」があるわけです。十四歳になって、セックスをして、子どもができたら産むことができるというテレビがあるわけです。家庭に流れています。
それから、子どもの子どもというのは、小学生が公園で遊んでいてセックスしてお産をすることになるんですけれども、それも子どもたちが手伝ってお産が無事成功するという、こういう映画が渋谷とかでやっていますよね。そういう、十三歳以下がセックスをすることは、非常にこれはおかしなこと、世界の常識からしてもおかしいことが日本では普通になっているという、この法律の意味をよく考えてほしいと思うんですね。
十三歳で、芽生える、自己決定権が見られるなら、それまでの小学校のときにきちんと性教育をしておけと。これがまかり通っていて、こればっかりまかり通っているから、子どもの性の判断する力を、そういういろんなものを見せることによって--つまりリテラシーを育てるためにはこんな規制しちゃいけないんだという意見もあるけれども、とんでもないです。
僕は、ついこの間も学習院高校で、僕の性教育の話を、父兄にも了解を得ているので、比較的抑えながら話していますけれども、学習院でも一人倒れました、男の子が。僕の性教育の教室を聞いていて。倒れてあごを机で打って血を出したんですけれども、養護の先生はそういうのになれているので、うちの男の子は弱いよねといっていますけれども。
あと、この間、つい最近ではトキワ松高校にも行って性教育をして、そこでも一人倒れました。つまり、性の問題というのは個人的に知識の差が大きいんですよ。
知識の差が大きいから、まとめてやるとか、不特定多数にこの情報が流れるということになると、非常にその後の弊害が大きいと。やはり規制ということがなければ、または教えるんであれば個人個人、目と目を見てその人の性知識に合った段階でもって教えていくということがなければ、性教育は、全部まとめてこうだよということはいえない問題なんですね。
だから性の自己決定権を、早くこれは十六歳ぐらいにしてほしいんですけれども、いまだにこれは変わりません。
それから次、ほとんど性の情報は、子どもたちは友人から得ているわけですけれども、そのもとになるのはアダルトビデオなんですね。アダルトビデオというのはもうご存じのとおり、非常に、商業的に売らんがため、大人がしないようなセックスを、つまり正常のセックスをビデオに撮ったって売れるわけないので、大人がしないようなセックス、そこには、三人でしたりとか、とんでもないセックス、危険なセックスがいっぱい入っているんですけれども、それを見たらどうなるのということです。
次のページですね。見たらほとんどの六六%の子が、やっぱりまねしちゃったよという子がいるのと、まねしたくなったという子がいて、性の情報が過激であるために性犯罪が起こるということは検証されていないなんていういい方をする人--検証されていないどころか、子どもたちの意見を見たら、まねをしたとかまねをしたくなったといっているわけですよ。
いつかの朝日新聞の記事を見てください。今の高校生の女子高生の二〇%はレイプされています。レイプされているんですね、二〇%は。相手はみんな彼氏ですということになっています。うちに来る、街角相談室に五人の女性がいるとすると、三人まではレイプされています、間違いなく。何でですか、いわないんですかと。それは、いえないです。
つまり、うちの病院に来た子の話だと、カラオケで深夜歌っていた。オレンジジュースを飲んでいて、朝レイプされていた。それは中に睡眠薬を入れられていて、おまけに足のつけ根に汚いタトゥーを入れられていた。もうこれは麻布署に行こうよといったけれども、子どもたちは行きません。どうして行かないかというと、そういうことがもし親にばれたら、もう絶対外へ出してくれないからです。外へ出してくれないということが、レイプされた被害よりも、もっとそっちの方がつらいわけです。だから、日本ではレイプの被害をほとんど届けていません。だけれども、めちゃくちゃ日本はレイプ地獄です。これははっきりいえることです。日本はレイプが少ないなんていうのは大間違いです。すごいレイプがあります。
その結果として--日本ではこういうアダルトビデオの影響もあって、アダルトビデオをすべて見てもらえばわかるんですけれども、コンドームが出てきません。どこにもコンドームが出てきません。コンドームをつけているという、それは漫画でもそうですけれども、コンドームをつけようとか、僕はコンドームをつける派だとか、女性にしても、私コンドームつけないと、学校の先生にも親にもいわれているからコンドームつけてねという表現が全くありません。ですから、コンドームをつけないのが、もう今の子どもたちの間ではいけてることになっているし、コンドームをつけないのが当たり前になっているから、結果的にこの次にあるページに、ほとんど、六本木の歩いている女の子たちの八一%は、もう何かのこういうもの持っているよと。性感染症を持っているよと。
それでびっくりして、私は、都内の九高校の養護の先生たちにこれを渡して、おりもの検査をやっているわけですけれども、二百三十二人の中では、まち角で遊んでいるキャバクラとかフリーターの子たちと同じレベルの発見、感染率です。ですから、遊んでいる子もそう、一生懸命勉強している子もそう。
一番最後のページは、これは非常に、もう全く否定できない、つまり性感染症の知識も何もないレベルにある全国の十三の高校の男女を調べたわけです、おしっこを。症状がない子どもたちを調べて、現在、これだけ持っている。クラミジアを持っていたらどういうことになるか。これは不妊症になるわけですね。それからエイズにかかりやすい。知らないで妊娠すると、ほとんどこれは赤ちゃんが失明する。こんな怖いクラミジアを、症状が出ないから皆さんは知らないわけですね。
何でこういうことになるのと。それはやっぱり教育の問題ですね。
以上、そういうところで、とりあえず表現の自由とか、そういう自由は確かにわかりますけれども、それはやはり倫理観、人間は動物じゃないので、倫理観を持った上の自由であって、倫理観がない、家に持って帰れない、かいた人が、家に持って帰れないようなものを販売するということは、僕はこれはちょっと許せないことなので、年齢制限をぜひお願いしたいというところが、ほとんどの趣旨です。
○小磯委員長 ありがとうございました。赤枝参考人の発言は終わりました。
次に、赤枝参考人に対する質疑を行います。
なお、赤枝参考人に申し上げます。答弁する際は、手を挙げて、委員長の許可を得てから発言していただきますよう、お願いいたします。
それでは発言を願います。
○山口委員 大変貴重なお時間を、お越しをいただきまして、ありがとうございます。
赤枝先生に幾つか教えていただきたい、お伺いしたいことがございます。
まず、今、先生から現状のお話を聞いていて大変驚いたことが多々あるわけでありますが、私の知り得る限りでは、例えば厚生労働省の定点観測、定点報告によりますと、性感染症等というのはふえていないというように、その報告の中では読んでとれるわけでありますが、その実態というものはいかがなものなんでしょうか。先生に伺いたいと思います。
○赤枝参考人 厚生労働省が、決まった病院に、毎月性感染症の報告をしろということをやっている。これはインフルエンザもみんなすべてそうですね。感染症は定点観測というのをやるわけです。
ところがインフルエンザと違って、この産婦人科領域に関しては、子どもが親から保険証を借りられないという問題があるわけですね。それからお金がないという問題がありますね。こういうところで、定点観測になっているきちんとした病院に、子どもたちがやっぱり行けないという問題があるんですね。
だから、我々がまち角で無料でやった調査によると、こういうことになっている。
それから厚生労働省の研究班が、この一番最後のページのように、無料であなた方のおしっこを調べてあげるよ、おしっこを出しなさいという無料の検診とかでやると、きちんとした数字は出るんだけれども、定点観測では、確かに委員おっしゃるように、本当に余りふえていないんですね。横ばいか、疾患によっては減っているようなものもあるぐらいなので、だから性感染症に関しては、定点報告で議論するというのは余り意味がないような気がします。
○山口委員 比較をさせていただくこの資料を見ていても、大変興味深いものも多いわけなのでありますが、なぜ東京で、例えば私たちが今、議論をしている青少年健全育成条例の改正をまずしなければいけないのかどうかということが、私たちにとっても必要なところの今回の情報の一つなのかと思っているんですが、東京と地方との比較で考えた場合において、この東京の現状というのは、地方と比較するとどのような状況にあるんでしょうか。
○赤枝参考人 これは一番いい例は、エイズの例をとりますと、エイズは圧倒的に全国の六〇%から七〇%が東京で報告されるわけです。私の病院でもそうですが、どこから来たのかというと、ほとんど遠くから来ていますね、エイズ検査は。エイズ検査は、遠くから来て東京で発見されて、報告されているわけですね。
ですから、エイズの報告を見ると東京はひどいねという話になるんですけれども、そうじゃないんですね。この性感染症のことも中絶のことも、こういうふうに統計にあるように、東京は非常に条件のいいところなんです。
地方ではほとんどが、私もいろんなところに出張したことがありますけれども、群馬へ行っても、藤岡の人が鬼石へ来て町立病院で中絶をするとか、鬼石の人が藤岡へ行っていろんなことをするとか、近くの都市に行っていろんなことをしています。
ですから、性行為に及ぶということになると、地方の方が実際問題は少し乱れていると。地方の方がひどいんだよというのが結論ですね。
東京の方がまだ、きょうは楽しかったよ、じゃあね、ばいばいというのはあるけれども、地方に行くと、会った二人がやはりそういうことになってしまう。それも、何日か前に見たアダルトビデオを、ほとんど男子の高校生も八〇%以上見ているということになると、刺激を受けていてまねをしたり、まねをしたくなった、つまりやらせてくれということになって、殴って、ということにもなるので、これは地方の方がひどい状態だといえるので、東京でこういう規制ができるということは僕は喜ばしいと思っていますけれどもね。
○山口委員 大変貴重なご意見だと思います。
また、それにあわせて伺いたいんですが、その情報の収集、先ほどは六本木のドン・キホーテのお話なんかもありましたが、それは何も東京に限らず、さまざまなところでそういった情報を得て、そういった行為に及ぶことが多いのではないかと思いますが、先生のご見識ではどうでしょうか。
○赤枝参考人 家庭の中でもそうですが、子どもたちは今インターネット時代で、どこでもいろんな情報がとれるし、インターネットに頼っている。たまたま何かシールドをかけているという話もあるんですが、そんなのかけても--今、子どもたちのGPSがついている携帯もあるんですけれども、あれなんかも、GPS、これ簡単に外せるんだって、あれ、親の番号を何か抜けばGPS機能がなくなるんだとか、いろんなことを子どもたちは先に知っていて、性の知識は子どもたちの方がもっと上を行っています。確実に性の知識は子どもたちの方が上です、大人よりは。それは、もういろんなネットでも見られる、それから学校でも持ち回りでいろんなものが回ってくる。
ですから、地方でも東京でも、青少年に対する性の情報は全く同じというふうに考えていいと思います。
○山口委員 先生、そうすると、今お話を聞いていると、恐らく子どもたちは、大人が、我々が議論をしていることよりもはるかに情報は進んでいて、例えばもう出会い方だとか、その情報の収集の仕方だとかというものも、全く別のところから得ている傾向もあるということなんでしょうか。
○赤枝参考人 情報の出どころというのは、全国にある本屋さんもどこでも、ネットが一番大きな性情報を得られるところであって、地方に行っても同じ状況ですね。ビデオを売っているところがあったり、だから同じ情報を得られる。地方の方が多いとか少ないとかという問題よりも、同じ地方でも、高知県のランドセル売春があったように、地方でも同じような性行動というか、東京と同じだなというふうには思っていますけれどもね。
○山口委員 大変参考になります。
また、先生からもお話があった年齢制限、もしくは年齢についてのお話があったわけですが、先生なりのご見解の中で、もう少し年齢についての考え方というものは多様的に考えていくべき、もしくは時代に合わせてきちっと議論をするべきではないだろうかというお話があったんですが、もう少し詳しくお聞かせをいただけないでしょうか。
○赤枝参考人 いろんな知識のない人が性の情報を得たらどうなるというのは、自分自身の経験でも、十八歳のときに初めて、性のまぐわっているようなポルノの写真を寮に入っているときに見せられたとき、セックスはこんなに不潔なものだと僕は思ったんです。それから何カ月間か、頭がぼうっとしてましたね。お父さんもお母さんもこういうことをしているんだと思ったら。
そういう過激な情報が、何にも知らない、頭が真っ白な子どもに入ってきた場合に、これは性の倫理観というか、性そのものが非常に曲げられて、性は非常に、つまり結婚ということがあって、お互い何にも知らない男女同士が話とか会話とか手をさわる、お互いのぬくもりを知ることによってお互いを理解する、それ以上にもっと理解したいときに性があるという、そういう順番があって性があるわけですけれども、性がおもしろい、気持ちいい、楽しいで先行しちゃっているものですから、もう性の考え方、倫理観はなくなってきちゃうんじゃないかと思うんです。
だから、僕はせめて、十六歳で結婚していいということになっているんだから、そうすると十六歳で結婚してもいいんだったら、十六歳からはそういうものを見てもいいのかなというのはあるんですね。
しかし、ほかの法律からすると、アメリカもそうですけれども、酒とたばこを規制するとむだなそういう性行為が減るということで、アメリカも十八歳以下は、酒、たばこは--あれは二十ですかね、アメリカは規制を強力にしたら減ってきたという実例もあるように、日本も十八歳に合わせておいて、その見解、皆さんはわかりませんが、私が許せるのは十六歳というところで、十六歳になればまあいいのかなというふうに……。
そうすると、今、十三歳になっているのに、中学の三年間で性の正しい知識は身について正しい判断ができるようになるのかと。これはいいか悪いか、こういうビデオのリテラシーが十二、三歳でできるわけがない。そういうリテラシーができるというのは、やはり教育した後にできるものなので、そんなに子どものリテラシーをいうんだったら、小学校の義務教育に入れちゃえばいいと。義務教育に正しいポルノの見方とか、正しいそういう漫画の見方というのを入れちゃえばいいです。それは議論にならない問題で、やはりある一定の年齢が来ないと見ちゃいけないよというものはあっていいと、それは十六歳だろうというふうに思います。
○山口委員 先生のお話を総合的に伺っていると、観測されやすい東京都ということに限らず、国全体でもっと議論をして青少年や子どもたちを守っていくべきであろうという考え方が、大変、聞き取れるわけでありますし、また年齢的な問題に関してもまだまだ十分に議論し、そして法律全体もしくは条例、東京都に特化をせずに全国的に展開をしていくべきなのかなというふうにも聞いて取れたわけであります。
先生なりのこの条例に対する思いなどがございましたら伺いたいのと、最後に教育、先生は先ほど、家庭の中での議論はなかなかまだ行き届き及んでいないというお話もありましたが、これは、教育の部分が大変大きなウエートを占めるんじゃないかと思うんですが、その辺、最後にお聞きをして私の質問を終わりたいと思います。
○赤枝参考人 委員にお言葉を返すようで失礼なんですが、本当にこれは急ぐ問題なんですね。
急ぐ問題というのは、もう日本産婦人科医会が全国を回って、毎年のように五百人の養護の、性教育の指導者を育てる指導者セミナーをずうっとやってきたんです、二十何年前から。二十何年前から、一番最初のテーマは、今の中学生の性がおかしいというテーマです。二十年前から中学生の性がおかしいといわれ続けて、二十年間何も進んでいなくて、今、もう、うちに来る小学生だって淋病とクラミジアを交互にうつされてきますよ。それは、タレントの何かを見にいくお金が欲しいので援交をやっているわけですけれども、いまや小学生がそういう時代になってきちゃった。どんどん悪化しているんです。もう待てない状態になっているんです、私としては。
もう、この状態を議論してというのはちょっと物足りないというか、私としてはすぐにでも、やはり子どもたちにとって十六歳までセックスしてはいけないという一つの指針が欲しいんですよ。
この前の委員会で私も呼ばれたときに、中学校、高校、小学校の女性の先生は三人いましたけれども、竹花副知事が、中学生でセックスしてもいいと思いますかと一人ずつの先生に聞きました。三人とも、先生が一言もいいませんでした。
中学校の先生が、性について中学校でセックスをしてもいいかどうか、愛があればいいという意見もあるでしょう、だめというのもあるでしょう、いうべきですよ。指導者が何にもしゃべれないのに、一つの規制しかないじゃないですか。じゃあ、これは規則で教えてあげないと。
だから、最終的にはこういう規制があるんだよと。中学生が、セックスをしたいとお友達の男の子にいわれて、どうしたらいいんですかと、困っているわけですよ。好きなんだけれどもどうしたらいいか、対応に。それは法律があってだめなんだよという、法律さえあればその子は救われるわけですよ。
以上です。
○田中委員 本日は赤枝先生からの貴重なご意見をお聞かせいただきまして、まことにありがとうございました。
また、中でも、先生から冒頭ございました、もっと現場を見てほしいという言葉、重く感じさせていただきました。
我々もこの条例改正案を議論している者の一人として、そういった意味では現場の荒廃状況というのをどこまで理解できていたのかなと、現場を見ていない者の一人として反省をしながらも、きょうの先生のお言葉をかみしめながら、また今後の活動に生かさせていただきたいと思っております。
そのことも含めまして、やはり今回の課題に対しては、性あるいは性行為ということに対しての正しい知識とか正しい理解、その必要性があるなと。お話にもありましたけれども、私は男性なので妊娠をするということはありませんが、人工妊娠中絶が東京は比較的少ないということではありますが、全国的にも大変これだけ多くの状況にある。これは、宗教的な視点からあるいは法的な視点からもいろいろ、法律的には、一般的には禁止という行為ではありますけれども、医学的な見地から見て、体を傷つけるということの重さ、また、それだけではなくて精神的にも傷つけてしまう行為なんだなということを、私は強く思わなくてはならないものと思います。
そしてまた、性行為によって感染するさまざまな病気、これは、大変、誤解から生まれる現象だと思いますけれども、クラミジアとかそういうものに感染することが、ある意味、何か一つ流行の先端にいっているかのような、若干肯定的にとられてしまうような要素もあるやに伺っているんですが、そんなことがあっては断じてなりませんし、先生のお話にもありましたけれども、クラミジアの感染によって流産や早産につながってしまう、あるいはそのことを持ったお母様から産まれる子どもさん、新生児にも、結膜炎ですとか肺炎を起こす危険性も十分あるということも伺いました。
また、感染症の一つであるヒトパピローマウイルスによっていわゆる子宮頸がんを起こす原因となるものも、まさに性行為によって感染する大変怖い病気であると。じゃあ、現在、今の子どもさんたちが、こういった行為を通じて引き起こされてしまうそのような事象に対して、どこまで正しい知識や理解を持っているのかなと。そんな、ちょっと怖い思いをしましたし、ましてや強姦ですとか近親相姦などは決してあってはならないわけでありまして、それこそ青少年自身の人生そのものを狂わせてしまうようなことにつながってしまうのではないか。
そういった視点からも、やはり、まだまだ正しい知識や判断ができない青少年を傷つけないために、正しい道筋をつけてあげることが我々の大人の責任であるということを、改めて強く感じさせていただきました。
それで、時間もないのであれですが、先ほど先生のお話にもございましたが、このような行為を引き起こす一つのきっかけとなっているのが、アダルトビデオ等々によって実際にまねをしたことがある、あるいはまねしようと思ったという、その誘発する一つの行為といいますか、物として、アダルトビデオなどがあるんだろうと思います。現状、十八歳未満は、原則、アダルトビデオというのは見られないことになっておりますが、しかし実態はこういう状況であります。
ちょっとお伺いをしたいんですけれども、現時点では子どもでも手に取れるコーナーに置いてあるいわゆる性的な漫画については、見たことがあるとかまねをしたことがあるというのは、先ほどの数値よりももっと高いのではないかという思いがありますけれども、そのことについての先生のご所見をお伺いしたいと思います。
○赤枝参考人 確かにそのとおりで、街角相談室に、子どもたちがいろいろ大きな荷物を持って夜中に来ますけれども、やはりアダルトビデオは確かに持っていないですね。やっぱり漫画ですね、みんな。コミック漫画が圧倒的に多くて、確かにそれも持って帰れないから置いていくわけですけれども、そこに大きなごみ箱があるので捨てちゃうんですけれども、私も時々見るんですが、これはもう見るにたえられないですね。
だから、あれを見た上で議論になるのならいいけれども、ただ観念的に表現の自由とか言論の自由なんていうことをいってそこに当てはめちゃうと、あれを、じゃあもしうちへ持って帰ってお子さんに見せられますか、奥さんに見せられますかという話になると、見せられなければ、それはやっぱり悪書じゃないんですかと僕は思いたいんですね。悪書じゃないんですか、悪いものじゃないんですかと。
そうすると悪書というのは、これが悪書だと判断できる年齢にならないと、目に触れちゃいけないと思うんですね、僕は。だから、年齢的にセックスのリスク、セックスはすごいリスクがあるわけですよ。子宮外妊娠もあれば、エイズになって死ぬこともある。妊娠によって、胞状奇胎とか、肺にがんが来たり、脳にがんが転移したりする。妊娠そのもので脳のがんになったりするわけです。そんな知識が全くないわけですから、どうしてもああいうもので刺激をされて行動に移してしまっている。結局は、女の子は被害者になると。
今の男の子たちの言葉で、女の子たちから私が聞いているのは、おまえ愛していないのかと、愛をやたら使いますよね、今。それは漫画の影響じゃないですか。愛はおれたちの、何か証明だよみたいなね。おれたち愛している、愛していないのかよ、愛しているんだったらいいんじゃないかという、ああいうところから、漫画の中からぱくったような口説き文句はやっぱり出てくるんです、結構。
だから、やっぱり漫画というのは、いいか悪いかはセックスのリスクもよくわかった上で、悪書といえども見ると。これは悪いものだと。そうじゃなければ、今、ビデオが性の教科書になってしまった以上は、非常にまずいことに今なってきているというか、子どもたちの性行動を見ても悪い方に行っているので、一刻も早く一つの指針として、こういうものはつくってほしいなと、僕は思っているんです。
○田中委員 ありがとうございました。
先生、短い時間の中でのお話だったので、愛というものの愛がちょっと誤解をされて、いわゆる先ほどの、ビデオの結末は全部女性が喜ぶような結末になっているという部分は、決してそうではないんだ、それイコール愛ではないんだというようなお考えからの冒頭のお話だと思いますが、まさに、ある一定の年齢、いわゆる知識、理解が進んでいない段階においては、ある一定の制限を設けるということは、まさにその子どもさん自身のためにつながるんだと。そのような先生の強いご意思を改めて確認させていただきました。
今回の条例改正は、青少年に対する強姦ですとか、あるいは悪質な性行為を描いた漫画が青少年に販売されないように区分陳列をするという、そういう趣旨の条例改正でありますけれども、今回の改正がなされたことによっての効果、どのような効果があるとお考えでしょうか。
○赤枝参考人 これは、アダルトビデオもそうなんですね。アダルトビデオは、ビデ倫か何かそういうのがあって、チェック機能があって、レイプものは出さないとかということになっているらしいですよ。でも、ドン・キホーテへ行って三本千円のやつを見てみても、もうすごいレイプものばっかり並んでいますよ。
だから、この規則がどこまで効果があるのかという議論があるのは確かですよ。規則をつくったって、どこまで効果がと。しかしこれは絶対に進歩だと思いますよ。規則をつくることによって、やはり子どもたちが守られるという側面があると思うんです。まだしちゃいけないんだよ、見ちゃいけないんだよといって。
ここに出していませんけれども、子どもたちが男の子と恋愛したいじゃないですか。恋愛したいのを、したくないという子どもたちがいるんですよ。その子たちの統計を見ると、一つには、中学生レベルでは、三番目ぐらいに、アダルトビデオを彼に見せられるというのがあるんですよ。あれが嫌だ。だから男の子とつき合いたくないと。高校生ぐらいになると、アダルトビデオで見たことをまねしよう、バイブは気持ちいいんだぞとか、アナルは気持ちいいんだぞと。まねをやらせてくれという男の子がいるから、男女交際は嫌だといっているわけですよ。
ですから、子どもたちを守る、または女の子を守るという意味でも、一つの指標、指針があって、まだそんなもの見ちゃいけないんだよというものがないと、どんどんそれが進んでいくと思いますよ。
だから、効果を云々といったって、確かに今のアダルトビデオを見ても--効果は果たしてな、というのはあるけれども、漫画とかそういうものを見て、女の子は結果的に自分を守るための法律というのがあるんだということがわかるだけでも、確かに前進、進歩だなというふうに思います。
○田中委員 済みません、時間も迫っておりますので、まさに、いわゆる抑止力的な効果が今回の条例改正にあるんだというようなことで受けとめさせていただきましたが、この条例は制定されてから約四十年を経過し、そしてまた、今日の社会状況の中で子どもを守る環境を、ということからの条例改正でありますが、ある意味、道半ばであって、先生がお話しをされるような本当の意味での守るための条例には、私はまだもう一歩足りないような思いもしております。
本当の意味での子どもたちを守るための十分な改正案、こういう形を、先ほど十六歳まで制限をというお話もございましたけれども、東京都ができ得る現状の中での、今の子どもを守るという視点からの、先生からの改正案といいますか、先生なりのご指摘をいただけたらと思います。
○赤枝参考人 これは私も、前からどうやったら--例えば具体的に援交、非常に、援助交際というのは普通の中学は少ないですけれども、高校では高校生同士の三千円ぐらいの援交ごっこというのがあるわけです。この援交という言葉も普通にファッショナブルに扱われて、普通にやっているんですけれども、これをなくすには、一番の方法は、大人が悪いことはわかっているわけです、大人を逮捕しちゃえばいいんですよ、これは。大人を逮捕して、大人の罰則をびしっとしちゃえば、大人が罰金刑でその場を逃れたりするからいけないので、大人の罰則を厳しくする。
それから、もうラブホテルとかそういうところへ行ったら、夕方でも私服が張っていればいいんですよ。年齢がおかしなのが出てきたときには、財布見せてといえばいいだけですよ、財布を。不意打ちして、財布を見せてといえばいいんですよ。それだけでも、そういうことはいけないということはわかるし、だれかが--麻薬の事件もそうですよ。あれはタレントだけわざと挙げているのかもしれないんだけれども、あれによって抑止、その効果をねらっているところもあるかもしれないんですよ。
ですから、やはり援交している大人を捕まえたということによって、そういう、援交ごっことはいいませんけれども、金がすべてのこの世の中の大勢が少しでも変わってくるんじゃないかと。大人が悪い社会なんですから、今、これは。
大人を逮捕する、大人を罰する、厳罰にすると。子どもを厳罰にしたってしようがないです。子どもは大人からの知識を受け継いで、鏡として映しているだけなので、大人を厳罰に処するような法律をつくってほしいというふうに思います。
○小林委員 本日は貴重なご意見、大変にありがとうございます。大変にお心の伝わってくるご意見でございましたが、私の方からは、端的に二点ほどお伺いをさせていただきたいというふうに思います。
先ほど先生の方からも性教育ということのお話がございましたけれども、やはりこの性教育というのは本当に生命の尊厳にかかわる大切な問題でありますので、大変に重要な問題点、また教育ということを心していかなければならないなというふうに私も感じておるところでございます。
日本のある教育者の方が、この性教育ということについて、性教育においては人間としての道徳心を高め、恋愛、結婚、出産という性道徳のあり方が明示されることが必要だと思うのです、人間の性行為には人間らしい愛情の交流が必要不可欠であり、それこそが根本であることを教えるべきでしょうというふうに述べておられました。
赤枝先生からごらんになりまして、子どもの性的判断能力また道徳心、これを十分に備えていくための現在の家庭や学校での性教育は、どのように取り組んでいくべきかというご見解をお伺いしたいと思います。
○赤枝参考人 これは私も随分悩んでいろんなことを考えました。最終的に、小学校で性行為を見せる、これはもう絶対あってはならないことです。性教育と性交教育とあるわけですけれども、どこかから性交も教えなければいけない時代が来るわけですけれども、これは中学校からでいいと思っています。だけど、小学校は絶対いけない。
何で小学校はいけないのかというと、やっぱり小学校は、教え方もあるんですけれども、個人個人の知識の差が本当に大きくて、本当に援交している子もいれば、まだセックスなんか関係なく、はなを垂らしている子もいる中で、セックスはこうだよということを教えることは絶対あってはならない。もう個人差のレベルが大き過ぎて、本当にトラウマになったり、性に対する考え方に偏見を持ったりとかいうことになるので、それはいけないと思います。
だから、小学校のときに何をやるかというと、やっぱり今いったような、小林委員が申されたような、お互いの性の大切さというのもあるんですけれども、一番簡単にいえば、僕は、男の子たちに、小学校の子どもたちにいっているのは、女の子ってすごいよねと。男の子も女の子から生まれたんだよというと、不思議な顔をして納得していますよ。男の子は女の子から生まれたんだよ、女の子ってすごいよね、子宮があるって。男の子にないんだよと。子宮があって、その子宮で二百八十日間、男の子を育ててきたんだよ、お母さんは育ててきたんだよ。だから子宮というのはいつも清潔にしなきゃいけないんだよ、ばい菌が入ったら赤ちゃん死んじゃうよねといって、子宮の大事さ、女の子の偉大さ、これを教えておけば今みたいに--女の子とやるために、何でも、酒でも飲ませる、どこでもデートも誘う、もう、やりまくるということに今なっていて、今の男の子が女の子を選ぶ基準というのは、昔は、聡明でスタイルがよくて顔がよくてと、今は違います。ブスだろうが何だろうが、巨乳でやらせてくれればいいという、もう価値観が変わってきていますから。もうそういうふうに、女の子がどっちかというと性の道具みたいになっちゃっているんですね、今。
どうしてそうなったかというと、小学校のときに余りにもいわなさ過ぎたんですね。性の道徳的なことをいわなさ過ぎた。僕は、せめてどうやっていうかというと、やはり女の子の大切さを教え込んでいくと。
偉大だよね、女の子って偉大だよ、女の子は、自分の性器っておまたにあるんだけれども、きれいにしようねと。不潔なものが入らないようにしようねといって、ひたすらそれさえ教えておけば、女の子は尊敬されて、ずうっと中学校、ずうっと行けるんですよ。その教育が足りなかったなと思いますね。
○小林委員 ありがとうございます。
私も、今、先生のおっしゃった女性の偉大さを教えていくということ、これは本当に全く同感で、大事なことであるなというふうに思っております。
最後になりますけれども、本当に、次代の宝である青少年を何としても守っていく、絶対に傷つけてはならないというこの一点において、今、私どもも議論をしているわけでございますけれども、そのような中、先生の、今ご尽力されているこの性教育という部分、そしてまた民間事業者等も自主的な区分陳列等も進めている中でありまして、本当にいろんな各方面の部分が、やはり一体的に青少年を守っていくための努力をしていかなければなりませんけれども、その中にあって、この行政という点、行政という部分が果たすべき役割ということ、これを先生はどのようにお考えか、最後にお伺いしたいと思います。
○赤枝参考人 これは私がいえる問題じゃないのかもしれませんけれども、やっぱり規則というものは、おのずから、性に関しても、性の自己決定権も含めて、規則がないと子どもたちはわからないということです。本当に、小学校、中学校で性のことは全く教えていません。家庭で教えればいいじゃないか、性は家庭で教える、何となく覚えるものだよと。これはとんでもない話で、これだけ間違った情報が多いと、そんな、自分でそういう勉強にはならないわけだし、自宅でも、僕はご父兄にいろんな話を聞く機会がありますけれども、それはできないわよと。子どもに、ちょっとヒロシ、座りなさい、性はねと。そんなことはやっぱり家ではできないから、お母さんは、学校で、というわけです。
学校でも、いろんな七生の事件もあったりして、やっぱり過激な性教育というので、びびっているところもあるんですね。
それから、性の問題は単語がひとり歩きすると、非常に怖いことなんですよね。学校で、例えば、フェラチオという言葉一つにしても膣外射精ということにしても、そういう言葉が一つ子どもの口から親に伝わった場合は、物すごい反応をしますよ、親は。そんなことを学校で教えたのと。
どこへ行くかというと、教育委員会へ行きますね。ほとんど皆さんを通じて、議員さんを通じて教育委員会へ行きますから、教育委員長という非常に立場が弱くて、議員さんからいわれたらもう何もいえないんですね。だから、現場の学校の先生にいいます。そういうこといわないでくださいって。結局、その先生はいえなくなっているという現実で、学校の先生もいえない、家庭でもいえない。家庭じゃ学校の先生に任せたつもりだけれども、学校の先生はいえない。それが現実で、もうそれはひどいものですね、今はね。
うちの子に限って大丈夫という子が、一生懸命、援交していますからね。その子は二人つるんで、夜九時の門限守っていますから。その子は、親戚の子が来るたびに、何とかちゃん、いらっしゃい、おばちゃんが来たからあいさつしなさいって、それで、うちの子は本当によかったわ、もう今、世間じゃいろんなこといわれているけれども、うちの子はまじめでよかったわって、それを聞くたびに子どもは切れそうになって、もう本当のこといってやりたい、私はこうやって援交しているのよっていってやりたいというぐらいに、親は知りません。
だから、親は知らない。もう学校の先生は大体知っていますけれども、まず親は知りませんね。だからやっぱり法律。法律をぜひ、規制する何かを、ここから先はいけないんだよみたいな、ここから先はおぼれちゃうよみたいな綱を張ってほしいなというふうに思いますね。
○吉田委員 それでは、私からも質問をさせていただきます。きょうはお忙しい中、ご出席いただき、また現場の立場から貴重なお話をしていただきまして、ありがとうございます。
私もにわか勉強で恐縮なんですけれども、先生の、この「子どものセックスが危ない」という本を読ませていただきまして、街角無料相談室の活動や、あるいはガールズガード、コンドームのことと理解していいんですかね、この普及を初め、青少年の健全育成に現場最前線でご努力をされていることに対して、本当に心から敬意を表したいというふうに思います。
さて、いろいろ、もちろん意見の違う点は率直にいってあるかとは思うんですけれども、限られた時間ですから何点か意見を聞かせていただきたいんですが、かつてこの青少年問題協議会の議論の中では、子どもたちの性的自己決定能力をいかに高めるのかということが、随分、主眼に置いて議論されたことがありました。私はこれは非常に大切なことだというふうに思います。やはり、いかに不適切な性情報から子どもたちを守るのかと。
そのための手段がどうあるべきかという議論とあわせて、もう一つ大切なことは、性的自己決定能力をいかに高めるのかということが基本に据えられる必要があるのではないかなというふうに思っております。その点についての先生の基本的考え方と、先生からはその点に関連して、年齢をもう少し上げるべきではないかというふうなお話もありましたけれども、具体の問題で、先生のご著書の中で、子どもたちがそうした判断をするという点で、メディアを疑うことの不足、メディアリテラシーの重要性ということを強調されていました。そうした点について、改めて先生の見解を教えていただければと思います。
○赤枝参考人 これは基本的に、私もその意見は全く同感です。同感ですが、これは残念ながら現場を見てほしいという気がしてまして、性に関するこういうリスクがあるんだよとか、性はこういう問題があるんだよという、リテラシーを生むような、自己決定権を育てるような、つまり性教育ができていないということなんですよね。だから、性教育イコール自己決定権を、年齢を上げるということになると思うんですが、法的に十三歳になっていても、実際、小学校のときに性交教育をしているところなんかは、ある程度養護学校ぐらいなもので、ほとんどないわけなんですよね。
ですから、性について自己決定権が芽生えてくるのは、実際問題、僕はどう考えても十五、六になるんだろうと思っています。中学生ではまず無理だと。
何も教えていない、親も教えていない。この中で学校でも教えていなければどうやって--性のリスクとか、こういう出血があった場合はどういうことが考えられるんだとか、それから生理がとまった場合は自分の食生活がいけないんだとか、そういうこととかを含めて、生理がなくなったらすぐ妊娠じゃなくて、ほかの知識もやっぱり与えておかなきゃいけないので、そういう幅広い性教育的なものが不足しているという気がして、今のままでは性の自己決定年齢が--上げる方法は性教育以外にはないというふうに考えています。
○吉田委員 今のお話とも関連しまして、若干、これまでの方の質疑とも関連するんですけれども、やっぱり性教育の大切さということが、きょうもお話がありましたし、ご著書の中でも詳しく展開をされております。
ただ、口でいうのはやすしではあるけれども、先生のお話ありましたけれども、個人差がある中でどういう教え方をすることが適切なのか。それと、小学校、中学校等の成長段階に応じた対応をどのようにしていったらいいのか。もう明確な科目にすべきだということまで、先生の本の中には書かれているんですけれども、その点、もう少し詳しくトータルで性教育を--片や極めて残念なことで、七生の性教育の、ああいう非常に、結果的に弾圧されるというふうな実態もあって萎縮するということがご指摘ありましたけれども、学校でのそういう性教育をいかに進めるのかということについて、改めて先生のご見解をお願いいたします。
○赤枝参考人 性教育に関しては、私がいろいろやってきた末に、どうしても無理だと。家庭でも学校でも無理だと。意味がないということで、今はもう、学生そのもの、子どもたちそのものにしゃべる機会には喜んで行きますけれども、学校のPTAから呼ばれたとか学校の先生の会があるときには、私は絶対、今はもう出席しません。むだだから。そんな時間は、僕にはもうないですよ。
もう六十六歳で、あと十年生きるかどうかわからないのに、そんなにむだな、大人のかたい頭の人がそろったところに行って父兄なんかとかいったって、意味がないですから。僕は、直接子どもたちに教えるような、性教育のピアエデュケーター養成講座というのをやっていました。これは五年間やってきましたけれども、子どもたちに直に教えないとだめなんですね。
そういうことがありますけれども、しかし、性教育はどうしていくんだという話の中で、僕が自分で本当にこれしかないと思ったのは、小学校は、女の子の大切さ、子宮の偉大さ、女の子の偉大さ、これをひたすら、もう体育の時間だろうが何の時間だろうが、ずっといい続けていけばいいんですよ。女の子の偉さ……。
それから、もう中学校になったら、援交している子は当たり前、性行為をする子も十数%いるわけですから、これは性交を教えなければいけない。
しかしながら、まだ何も知らない子がいるんです。僕は五人ずつの性教育といっているんですよ。五人ずつを一年間通して、この学年、五人ずつだったらできないことないんですよ。五人ずつに、一人ずつの目を見ながら教えるんですよ。教える中で、必ず反応でわかります。そんなこと聞きたくないという子が必ずいるんです。学校で倒れる子がいるというのは、まさにその子なんですね。聞きたくない子がいるんですよ。その子は別のメニューでまた教えてあげればいいので、五人ずつで教えていけば、もう本当にそのクラスは、一年を通していけば教えられる。
それには、知っている子がいれば、その後質問していけば、知っている子は知っているなりに、その答えが返ってきたら、その上のことを教える。また、かなり性病の怖い話もしなければいけない。または、中絶、妊娠した場合に育てられるかという問題も聞かなければいけない。もう本当に、性教育は個人個人のメニューは違うわけなんですよ。違うんですよ。
だから、性教育は、一概に性教育といってひっくるめて、レベルがここまでのレベルと--今、東京都の教育委員会でも、これはちょっといい過ぎだ、この絵はどうして女の子と男の子が手をつながなければいけないんだとか、肩をどうしてここで組まなければいけないんだという問題とか、細かいところのチェックは厳し過ぎるんだけれども、あれでは本当の性教育にはならないので、中学校までの間に五人ずつ、中学校時代は五人ずつの性教育を徹底してやっていく。これしかないんですよ。僕はこれしかないと思います。
○吉田委員 それでは最後に、先生の本の中で、それでも子どもたちに可能性はあるというふうにまとめられている指摘は非常に大事で、やはり、自分は存在価値がないんだというふうに思わされる状況に、今、残念ながら子どもたちが陥らざるを得ない傾向ってあって、それがセックスなどに流れていくという意味合いのことを強調されていると思うんですが、そういう点では本当に、自己を肯定的にとらえることができるような、全体的な教育も含めた社会環境というものをつくっていくということは非常に大事なことではないかなということを、これは私の、ちょっと感想だけをいわせていただきましたけれども。
最後に、先生も参加をして非常に重要な役割を果たされたと思うんですが、青少年の性行動について考える委員会のまとめで、次のような趣旨のことがあると思うんですよね。
メディア関係者、販売者への要請として、青少年を消費者として見るのではなくて、青少年を育てていく責任者であるということを十分に認識して対応する必要があると。
ただ、規制という手段だけでこれを求めるということはなかなか容易なことではなくて、やっぱりそういう意味では、先生からは倫理観ということも先ほどの冒頭の話でありましたけれども、いかに、当事者とりわけ出版関係者との合意をつくるかという努力というものは、やはりこれはこれで非常に重要ではないかと。いかにそうした世論形成というものを促進するかということは、私は重視をすべき課題だと思うんですが、そうした点について、先生、もしご意見があればお願いいたします。
○赤枝参考人 出版業界とかつくっている人たちの、そういう人たちの権利も守るために話し合いをしていけというのは、それはもちろん、私もそれは同感です。
時間の関係もありますので、僕が、子どもたちに未来があると、委員からいっていただいた、それは、まさに本当に僕はそれを思っているんです。というのは、今の若者を見ていると、頭をかあっと立てたり、鎖の長いのをチャラチャラやられていて、もう本当に怖いですよ、見た目は。見た目は怖いですけれども、私たちも、相談室にそういう怖いのが相談に来て話し合ったりして、僕はその後、一緒に遊びに行ったりもするんですよ、その怖いやつらと。物すごく礼儀正しいです、そういうやつも。
だから、子どもたちはみんないい子ですよ。間違いなくいい子です。その子たちも、もう久しぶりに来た子も、先生、私初めてコンドーム買ったとか、ミチヨはすごくいい子になったねといわれたとか、そういうのを聞くとすごく僕もうれしくなるんですよ。
子どもたちは、近くに置いておかないから、勉強しろ、あっち行け--大人が、お父さん、お母さんが近くに置いておかないから、近くにいないから、においもわからない、形も色も何もわからないわけですよ、子どもの。我々は狭いところで遊びに行ったりするものだから、子どもたちはもう本当に、怖そうなやつもガングロのやつらも、みんないい子ですよ。ボランティアに行こうというと、みんな老人のいすも押してくれますよ、本当に。頼まれたことがないから、頼まれるとすごくやってくれる。うちのペンキも塗ってくれますよ。日曜日にやってくれないかといったら。
それぐらいに子どもたちは、頼んだらいい子で、近くに行って一緒に大人がもっと遊んであげられれば、子どもはもっとよくなるんですね。だから僕は、今の子どもたちも未来があると思って、もっと大人が子どもたちと一緒に遊んでほしいと思っています。
○西崎委員 きょうはおいでいただきまして、ありがとうございます。
この委員会は女性が一人なので、私から女性の立場でぜひ先生にお伺いさせていただきたいことがあるんですけれども、私も、十代の望まない妊娠の問題、それから女性、男性、性差にかかわる医療の問題など、生涯にわたる医療についてもこれまでいろいろな医師の方にお話を伺って、議会でも取り上げてまいりました。
今回、先生がデータに示された中で、東京は人工中絶が非常に少ない理由として、先ほど触れられましたけれども、健全な遊び場が地方に比べると多いということも理由の一つに挙げられていました。その辺の理由について、もう少し詳しい説明をいただければと思います。
○赤枝参考人 これは私の判断でもあり、またいろんなところでも指摘されていることなので、青少年の性行動に至るまでのいろんな行動を研究したようなものもあるんですが、確かに東京の場合は、交通の便がよくて、いろんなところに、すぐに遊び場に到達できて、そこで長時間遊ぶ、楽しむ、満足するということができて、そこで帰れるという、そういう場所がやはりあるわけですね。
地方の場合にどこかに行くとすると、隣のまちのどこかに電車で行って帰れなくなった場合にも、ちょっと友達のところに泊まるとかいって親にうそをついて泊まることもあるし、社会的に、子どもたちの言葉の中でもチャラ打ちとかセフレとか、要するにセックスのハードルが低くなっているので、携帯があると、今の親も悪いんですけれども、地方の場合でも電車がなくなったとかいうと、携帯だけオンにしていてねというので、親が外泊を認めているケースが多いんですね。これは、本当はやっぱりあってはいけないんですよ。タクシー代が三万円かかってでも帰ってきなさいと親がいって、親が待っているからといえば、子どもは外泊へ行かないと思うんですけれども、やはりその辺は、交通の便が悪いところになると、ちょっと友達のうちに泊まっていくとかいうのは、ありなんですね。
東京は遊び場で時間がつくれて、十分遊んで満足して帰る。地方ではそこへ行く交通の手段が、どうも、そこまで行く、何とか遊園地まで行くのに時間がかかって、その行き帰りに何かが起こりやすいという、そういう状況だと思います。
○西崎委員 中高校生にとって地域が一つの遊び場になるんですが、東京の場合はまだ、中高校生というか、青少年の居場所があるというふうに判断してもよろしいんでしょうか。
○赤枝参考人 子どもの居場所は、僕ら大人は、家庭にしなければいけないと思いますね。居場所の話になると、やはり子どもが、勉強しろ、勉強しろで、大人からの勉強しろという言葉はあっちへ行けということですから、大人から離れろということなので居場所はなくなりますけれども、何か小さなことで頼んで、僕は、水曜日は花瓶に水を入れろよとか、金曜日はお金を持ってお買い物に行く日だよとか、曜日によって子どもに簡単なことを頼んで行ってもらって、水入れてくれた、ありがとう、ありがとうと。頼んだことに対してありがとう、ありがとうを繰り返していれば、子どもは、おれはこのうちの人間だと思えるようになって、居場所はできるので、とにかく、親が子どもに用事を頼むということが今、ないですけれども、簡単なこと、できることを頼んで、ありがとうねって。子どもにありがとうという言葉をいったことがありますか、大人は。ないでしょう。子どもにありがとうって、これをいうことによって子どもは家庭に居場所ができる。子どもの居場所は家庭しかないと思っていただきたいと思います。
○西崎委員 今回、アダルトビデオや雑誌などのセックスをまねしたことがありますかとか、アーニ出版のデータを掲示されていますけれども、アーニ出版、世田谷にあって、私も教材を見にいったことがありますけれども、産婦人科医の先生方のネットワークで、性教育を学校で進めていこうと。先生ももちろんそうですけれども、尽力なさっていらっしゃる女性の産婦人科医の先生から、ぜひ東京都の教育委員会に人材登録をして、学校での性教育を進めていきたいという申し出を受けたことがございました。
そこで教育委員会にも調べたんですが、そういうお話は聞いていないということでお話がすれ違いになってしまったんですけれども、小学校、中学校、高校と、子どもが思春期のときの発達状態によって、教えていくもの、あるいはそれによって排除していくもの、さらにそれによって、子どもが決定できる自己決定権やあるいは自己形成を生み出していく、育てていく、その十代がすごく重要だと思うんです。
先ほどから先生のご指摘があるように、まだまだ性教育は学校では行われていないし、また地域の中でもなかなか、家庭でも取り組みにくい実態があるんですけれども、ぜひ、その申し出のあるいろいろな医者の立場、あるいは助産師、保健師さんたちが積極的になって、もっと地域の中で取り組んでいく社会というものをつくっていく必要があると思うんですが、またそうすることによって、女性が受ける被害が大変、最小限に抑えることができる。
先ほどもお話がありましたが、自分が性のリスクを知っていると、非常に行動が慎重になるというお話も伺っていますが、その点はいかがでしょうか。
○赤枝参考人 そうですね。我々産婦人科医が、今、東京都の場合ですけれども、一つの区に二人の性教育の専門家をつくったんですね。これはリストもできていますけれども、例えば港区には私とだれとか、必ず一つの区に二人の性教育の専門家をと、もう決めましたので、そのリストをぜひ、今度は教育委員会に上げてそれを利用していただいて、各高校で使っていただければと、そういうふうに思います。
それから、性教育は実際、難しいんですけれども、私の場合、一つの最後の提案として、自分が今、実践しているんですけれども、産婦人科の外来で子どもの性教育をお受けしますと。
お子さんを連れてきてください、小学校でも中学校でも高校でもいいですから、親が性教育できないなら産婦人科の専門医が性教育しますということで、うちの場合、一時間半で一万五千円という値段を出して、性教育を産婦人科医が引き受けますという事業をやっているので、これに対してもぜひ補助金なり、都の方としても後押しするような何かがいただければというふうに、最後に期待して終わりたいと思います。
○小磯委員長 ほかに発言がなければ、お諮りいたします。
赤枝参考人からの意見聴取はこれをもって終了いたしたいと思いますが、これにご異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小磯委員長 異議なしと認め、赤枝参考人からの意見聴取は終了いたしました。
赤枝さん、本日は貴重なご意見、まことにありがとうございました。心より厚く御礼申し上げます。
○小磯委員長 これより宮台真司参考人からの意見聴取を行います。
ご紹介いたします。首都大学東京教授の宮台真司さんです。
本日はご多忙のところ委員会にご出席いただきまして、まことにありがとうございます。委員会を代表いたしまして御礼申し上げます。
初めに、宮台参考人のご意見をお伺いします。
なお、宮台参考人には、ご着席のままご発言していただきたいと思います。ご了承願います。
それではよろしくお願いいたします。
○宮台参考人 ご紹介にあずかりました宮台真司と申します。
お手元にこういう資料があると思いますので、それをごらんになりながらお話を聞いていただければというふうに思います。
まず最初に、この数十年間、メディアが大変発達してきました。その中には性的なコンテンツが以前にも増してふえてきました。それによっていかにも犯罪がふえてきたかのような感覚があるとすれば、それは実際には完全な間違いです。
ごらんのように、子どもレイプ被害者は、例えば一九六〇年と二〇〇〇年の比較でいえば、十分の一に減っています。人口比を勘案しても七分の一です。したがって、メディアによる性的被害者が激増中であるからといったような規制の根拠づけは、完全なでたらめでございます。
さらに、今回の、とりわけ都条例改正の七条そして十八条等にかかわる危険についてお話をいたしますと、一口でいえば、ゾーニングの顔をした表現規制であるというところに問題がございます。ゾーニングについては後で詳しく申します。例えば条例改正案七条、右の方にございます、ないように努めなければならないという文言に注目していただきたいですね。努めていないという逸脱、不作為の構成要件が極めて不明確です。構成要件が不明確であれば、恣意的運用、例えば、条例はコンビニの仕入れ担当等に、行政指導において使われたりしますから、当然危険があります。
このパネルには行為の恣意性、つまり努めていないという不作為の恣意性のみが挙げられていますが、ほかに、規制対象の恣意性並びに努力義務というか、蔓延抑止義務が規定される主体の恣意性というものもまたございます。これについては質疑のプロセスでお話ししたいというふうに思います。
この七条の、とりわけ「努めなければならない」という構成要件の不明確さに、十八条六の、特に二、三、四が絡んできます。条例改正案十八条の六の二、「都は」という主語ですけれども、要は、青少年性的視覚描写物が蔓延しないように機運を醸成する義務を都が負い、同じような義務を業者、事業者が負い、同様な義務を市民、都民が負うというふうな形になっています。構成要件の恣意性と合わせますと、これは、とりわけ市民による無限定的な、とりわけ享受者の年齢無限定的な悪書狩りにつながる可能性があり、許容することができません。構成要件の不明確なゾーニングは、表現規制と、機能においては同じです。
次に、東京都側から質問回答集なるものが出ていますが、基本的には完全に無意味です。法理学の基本原則を申しますと、憲法は立法意思がすべて、法律は、つまりもちろん条例も含みますが、条文がすべてです。
ある首相の発言で、現内閣の法解釈は前内閣に必ずしも縛られないという有名な発言があります。役人の人事異動があり、そして議員の改選があれば、官僚答弁も附帯決議も基本的には司法における法解釈を拘束しません。それだけではなくて、本当は司法側からの解釈のみならず、行政側の解釈も代がわりによって変わり得るということは重要です。それが元首相の発言の意味するところです。
都側から出されている「条例の解釈が誤解である」には苦笑せざるを得ません。なぜならば、この誤解は、司法や裁判官による誤解の可能性そのものをあらわすからです。さらに、この誤解の可能性は、官僚による裁量行政による権力と権益の温床を意味します。
したがって、市民と裁判官の別を問わず、誤解の可能性を完全に防圧したもののみが、条文の名に値します。
次のパネルにまいります。今回の青少年条例改正、とりわけ青少年性的視覚描写物の規制にかかわる保護法益、つまりそれによって保護される利益はだれのものであるのかというお話をいたします。
一般に保護法益は明確でなければいけません。それは、行政権力が社会の営みをあくまで補完するものでしかないからです。
保護法益には、個人的法益と社会的法益がございます。実在青少年を被写体とする表現は、個人的法益を侵害いたします。この場合の個人的法益とは人権のことです。細かくいえば、人権の自由な行使の前提にある尊厳を保護するということになります。
しかしながら、非実在青少年の描写において、個人的法益すなわち人権を侵害される当事者はおりません。したがって、非実在青少年にかかわる表現規制は、あえてそういうふうに申しますが、個人的法益を目的としていません。
とすれば、社会的法益しかありませんが、社会的法益には従来、人権内在説と人権外在説と二つあると考えられてきています。人権外在説とは、人権に外在する秩序の利益があるとする観点で、例えば刑法百七十五条のわいせつ三法の一部ですが、わいせつに対する規制、公序良俗という規定があります。
しかし、個人の人権と関係ない秩序の利益という概念が非常に危険で、統治権力の謙抑性にもとるということから、近代が成熟するにつれまして、大半の先進国では外在説から内在説にシフトしてまいりました。そういう経緯がございます。すなわち、人権実現の両立可能性や共通基盤、共有財にかかわるものを焦点化する方向に変わってきたということでございます。
そうした人権内在説を踏まえると、非実在青少年規制の社会的法益が極めて不明瞭であることが気になるところでございます。
この不明瞭さを解釈する一つのやり方、悪影響論です。条例改正案第七条一号、犯罪を誘発し、健全な成長を阻害するおそれのあるもの、こういう文言があります。質問回答集、子どもの健全な成長が妨げられるのを防ぐためという文言がございます。しかし、メディアに悪影響を帰責する、学問的には強力効果説と申しますが、これには学問的根拠がありません。冒頭に申しましたように、どこの国でも大体そうなんですが、性的なメディアの発達と犯罪率の増加は全く相関していません。日本の場合には完全に逆相関です。
学問的に意味のあるのは限定効果説です。限定効果説は、今日では二つの側面があります。
一つは、メディアが直接、素因を形成することがない、メディアは素因のあるものの引き金を引くだけであるという限定性。もちろん効果はあるわけですね。影響はあるわけですが、こういう限定性があるということ。
そして、もう一つの限定性。対人関係に保護されずにメディアに接触する環境こそが、例えば引き金を引くことにおいてすら問題だという、そういう観点なんですね。簡単にいうと、メディアの与える印象は、性であれ暴力であれ何であれ、一人で見るのか、ほかの人と見るのか、ほかの人が親しき家族、友人であるのか、知らない人であるのかによって、効果が全く変わります。受容者が緊密な対人ネットワークの中に埋め込まれていればいるほど、メディアの効果は中和されるということがわかっています。
したがって、もともと限定効果説の主唱者であるジョセフ・クラッパーもいっていたことですが、表現規制よりもむしろメディアの受容環境を制御することこそが重要だということになります。したがって、この学説に従えば、主流学説に従えば、表現規制はあくまで次善策、緊急避難策であって、受容環境の制御こそが最善だということになります。しかしながら最善策の努力を放棄して次善策に飛びつくのは、単なる行政的な怠慢であるというふうにいわざるを得ません。
もちろん、いろんな親がいる。子どもは親を選べない。そうです。しかし、じゃ、親に、子どもが接触しているメディアについてどういうコミュニケーションをとればいいのか、そのようなメッセージを行政が伝えたことがあるでしょうか。あるいは学校教育において、そうしたある種の親業教育、子どもに性的なメディアに対する接し方を、例えばそれを子どもの部屋で発見したというときにどういうコミュニケーションをすればいいのかといったようなメッセージが、行政から発せられたことがあるでしょうか。そうしたことを皆さんが平場で議論をして、それを行政に吸い上げていってもらったことがあるでしょうか。なければ、これはすべて行政的な怠慢であるというふうにいわざるを得ません。
さらに、社会的法益の不明瞭さに対する第二の理解です。難しいことが書いてありますが、一般には、刑事罰の機能には三つあると考えられている。
一つは、犯罪抑止ないしは犯罪被害の抑止です。第二は、被害にかかわる感情的回復です。これは当事者並びに社会的成員です。そして三番目が、社会的意思表示ということになります。それになぞらえていえば、例えば悪影響論、これはもうあり得ないんですね、学問的には。であるから、悪影響を抑止するということは横に置こうと。悪影響を垂れ流すやつに対する制裁によってすっきりするということ、これも横に置こうと。
横に置いても残るものがあると。それは、社会的規範のありかを条例あるいは法を通じて示すということであるという、こういう観念ですね。この場合、規制対象が実在青少年であろうが非実在青少年であろうが、確かに関係がない。こういう行為は我々の社会は許さないということを表明するためですからね。
しかし、その場合、二つ問題があります。一つは、代替的な社会的意思表示手段がなかったのかどうか、ないのかどうか。あるいは、意思表示はそれでいいと。しかし副作用がないのかどうか。それが問題です。
代替的意思表示手段は存在します。質問回答集項目5、これまでも性的な刺激を強く受けるような漫画などについては、その子どもの健全な成長が妨げられるのを防ぐため、条例により、子どもに売らない、見せないための取り組みを行ってきました--行ってきているじゃありませんか。つまり意思は表明されてきているのです。従来の取り組みで社会的意思表示の実現が不十分だったという証拠は一切ありません。
次に、今、積み残した問題、社会的副作用としてどういうものが考えられるかということをお話しいたします。そのためには、ゾーニングという概念についておさらいをします。具体的にいえば、ゾーニングはどういう機能において表現規制と異なるのかということをおさらいして、皆さんに知っていただくということになります。
僕は、刑法百七十五条については、裁判所、国会その他で、意見証人や参考人として今までも申し述べてきました。表現規制をやめ、ゾーニング規制をせよというメッセージです。
その学問的根拠を申します。学問的にはわいせつ物なる実体はありません。社会的文脈がわいせつ感情をもたらすだけです。例えば、夫婦の営みは、寝室で行われる限りはわいせつではありません。学会で映写される性器はわいせつ物ではありません。非性的であるべき空間に性的なものが持ち込まれる場合にだけ生じるのが、わいせつ感情です。これを取り締まるのがわいせつ法制です。
ですから、わいせつにかかわる規制は、社会的文脈の制御だけが合理的なんですね。例えば公的な空間に露出しないということです。
じゃあ私的な空間はどうなのか。それについては、複雑な社会では人々の物の感じ方が人それぞれであるので、憲法における幸福追求権に、不意打ちを食らわない権利を書き込む、これが先進国の主流の流れです。つまり、見たくないものを突然見せられてしまう、テレビに映るとか、歩いていたら目に触れてしまうとか。この不意打ちを食らわない権利、あるいは見たくないものを見ない権利、見たくないものを子どもに見せないで済む権利を実現するために、ゾーニングはございます。
さらに、表現規制よりもゾーニング規制の方がまさる点が一つあります。表現規制は、それによって何が規制されたのかを検証することが、表現規制自体によって困難になるからです。かぎのかかった箱の中のかぎ問題というふうに、僕らはよくいいます。ですから、表現規制よりもゾーニング規制の方がふさわしい。
構成要件不明瞭その他の理由によって、事実上、表現規制として機能するしかない七条二号を含めた今回の条例改正は、その意味で、市民による検証を阻害するものであるというふうにいわざるを得ません。
さらにもう一つ、非実在青少年が規制対象であることによって、どういう問題が生じるのか。漫画やアニメは年齢判断の恣意性が極めて大きい。設定は成人だが子どもにしか見えない、そういう描写もあります。逆に、設定は子どもだが成人にしか見えないような描写もあります。
ところで、設定は成人なのに子どもに見えるということ、これが実は日本の漫画やアニメの真髄です。命です。ところが、七条における、特に七条二号における青少年性的視覚描写物の規定を見ますと、全く意味のない質問回答集には、これはこういうものは指しませんとか、こういうものは指しますとか書いてありますが、事実上、子どもに見えれば、青少年に見えれば、これは規制の対象にすると書いてあるじゃありませんか。もし、設定に関係なく子どもに見えることのみをもって取り締まるのであるならば、つまりそういう可能性がこの条例案においては抑止されていない。これは日本的な表現に対する死の宣告です。東京国際アニメフェアを共催する都としても、これは恥ずべき無理解の露呈になります。既になっています。
逆に、もし設定だけが問題なのであるならば、一部、質問回答集に書いてあるようですけれども、これは成人のコスプレです、どう見えても成人のコスプレなんですと書けばいいだけですか。だとすれば、そんな規制はなおさらナンセンスです。要するに、見ばえに注目するにせよ、設定に注目するにせよ、非実在青少年にかかわる恣意的な境界設定は、どのみちナンセンスを帰結するしかないということです。
さて、よくいわれます、大義名分的なるものに逆らう人たちがいると、あんたは子どもを守りたくないのかと。子どもを守りたいのはだれもが同じです。ここで重要なのは、事業仕分けと同一の論理です。すなわち、目的はよいとして、手段はそれでよいのか。
官僚の利権は、よさげな目的に隠れた不合理な手段にこそ宿るんですね。例えば、高齢者保護の目的はいいとして、さて、その手段でよいのか。同じです。青少年保護の目的はよいとして、さてその手段、つまりこの条例でよいのかということです。
事業仕分けと同じように、この手段のよしあしは、事業のよしあし、行政関与のよしあし、関与の仕方のよしあしの三つに分けることができる。もちろん、子どもを守るという目的はよい。しかし、子どもを守るということをメディア規制によって行うということは疑問です。申し上げたとおり、悪影響論はエヌジーです。意思表示論もエヌジーです。だったら、メディア規制によって、一体どういう保護法益を実現しようとしていらっしゃるんでしょうか。
事業のよしあし、バッドです。よくありません。さらに行政関与のよしあしについていいますと、子どもを守ることに行政が関与することは一定の条件つきでオーケーです。それは、社会のかかわりを前提にした行政のかかわりであるということです。
今回の条例は、市民の意見や要望に応じてつくられた改正案ですか。完全にノーです。パブリックコメントも大半が、いや数%だけが無条件で賛成で、大半は反対です。都は隠そうとしてきましたけれども。
おかしいですよね。社会のかかわりを前提にした行政のかかわりになっていない。さらに行政の関与の仕方の問題は、今まで七条等を通じて既にお話ししていたとおりです。全体として、社会をスルーして、突然、行政が登場している感じがするんです。これは反市民社会的で、到底受け入れられません。
最後に、市民社会の本義とは何かということを申します。
市民社会の本義は、雨漏りバケツという比喩でよくわかる。雨漏りが蔓延すればバケツへのニーズが高まります。当然、市場や行政がバケツを提供すればニーズは満たされたことになります。しかし、それでオーケーですか。本当は、屋根をふき直すことこそが本義ではないでしょうか。バケツ提供はあくまで緊急避難的な措置ではないでしょうか。
これは社会と行政の関係についての比喩ですね。先ほど申しましたように、行政の謙抑性、すなわち社会の自立を補完するのが行政の役割です。屋根をふき直していないんだったら、社会に屋根をふき直させるんです。そして、その過渡的な段階であるとか、それでもどうしてもだめな部分でだけ行政が機能する、これが行政の機能の仕方の本義です。それでいえば、メディアのよしあしについて親子がコミュニケーションする環境を整えることこそが、行政の責務ではないでしょうか。
やや抽象的なことをいいますと、現実の枠よりも表現の枠の方が広いのは当然です。ですから、我々は表現の枠の中から、これがいい現実なんだというふうに選択をするわけです。ですから、現実よりも表現に逸脱が目立つのは、むしろ社会の当たり前の状態、通常の状態です。そして、その現実の枠を超えた表現の部分について議論をするのが、社会成員の責務ということになります。そのチャンスが十分に与えられていないのであれば、そのチャンスを与えるのが行政の責務ということになります。
現実の枠を超えた表現の行政的な封殺を許容することは、社会的自立の自殺行為と同じことです。
私からのプレゼンテーションは以上です。
○小磯委員長 ありがとうございました。宮台参考人の発言は終わりました。
次に、宮台参考人に対する質疑を行います。
なお、宮台参考人に申し上げます。答弁する際は、手を挙げて、委員長の許可を得てから発言していただきますよう、お願いいたします。
それでは発言を願います。
○鈴木委員 本日は、宮台先生、大変お忙しい中ありがとうございます。きょうは講義も幾つかあると聞いておりますけれども、大変過密な中お越しいただきましたことに、大変感謝をいたしております。
今、先生の持論をたくさん述べていただきました。今回の条例改正案というその中身、特に七条について詳しく今お話しいただきましたけれども、この七条という追加されました項目というのが、大変、大きな課題がある、そしてまた幾つか危険性も伴っているのではないか、そういうお話が今の中にあったというふうに理解をしております。
そんな中で、幾つか私の方からも先生にこれからご質問させていただきますが、先生は社会学を当然専攻されておりまして、いろいろな角度から今の時代を読み解いていかれる、それがお仕事だと私は認識しております。
子どもたちを健全に育てること、これは先生からもこの中にお話がありましたけれども、保護者はもちろんですが、もちろん学校そして社会の責任であるわけですから、この大変複雑化した現在の社会にあって、子どもたちをどうやって守っていくのか、そして、それを守るために行政はどういう役割を担っていく必要があるのか。この辺のお話をわかりやすく、今お話も少しありましたけれども、お話しいただければなということと、また、今の子どもたちを育てていくためには、今、大変たくさん不健全なアニメや漫画が出ているのではないかという現状認識があるわけですけれども、その中にあってどのような扱いを社会としてしていけばいいのか。その辺の、先生の基本的なお考えをお話しいただければと思います。
○宮台参考人 それではお答え申し上げます。
少し迂遠な話ですけれども、日本は自殺率が大変高いんですね。イギリスの三倍、アメリカの二倍、先進国では最悪です。自殺率が高まったのは九八年からで、直前の九七年に平成不況の深刻化がありました。山一證券とか拓銀の破綻ですね。簡単にいえば、金の切れ目が縁の切れ目であるような、きずなのない社会ができ上がっています。自殺や孤独死や無縁死の要因分析をしても、金の切れ目が縁の切れ目だというこの社会の薄っぺらさがよくわかってまいります。
性に関する犯罪に関する一般の不安も、実は行政が怠慢だからではなくて、我々が、社会の分厚さ、社会成員の相互のコミュニケーションを通じたきずなづくりや信頼づくりをちゃんと行っていないから生じているのではないかと考えるのが、学問的には最もオーソドックスな考え方です。もちろん社会だけでできることには限りがありますので、そこで行政が登場する。それを政治学では補完性の原理というふうにいいます。アメリカでは、そういうのを共和主義の原則というふうにいったりします。つまりこれは、特に先進国あるいは旧連合国の国々の標準的な考え方であります。
したがって、社会の取り組み、人々がコミュニケーションを通じてそれをどう考えるのか、社会環境の変化をどうとらえるのか、これを見ていくということがとても大切です。
行政は、その場合に、まず情報開示を徹底すると。例えば、いわゆる指定図書はどんどん減ってきていますね。以前は一月三十件とかあったのが、今は一月五件とか、そのぐらいに減っています。これも、実は行政がそれなりに有効に機能しているということの証左であります。何をもって、行政の働きが不完全であるので条例を改正しようというふうにいっているのか、僕には全くわかりません。
それと兼ね合いですけれども、一般に、書店やそのほかの販売ルートにおきましても、十年前、十五年前に比べればゾーニングは圧倒的に進んでいます。あるいは、ゾーニングについて、特に業者だけではなくて、親や、親を含めた大人の意識も十分に高まってきていると考えます。もちろん、改めて、ゾーニングは重要なんだよ、ゾーニングというのはこういう意味だよ、成人は判断力があるからある程度いろんなものを享受してもいいけれども、あんた方はまだ判断力がないから、乏しいから、ちょっと十八歳になるまでは我慢してもらうよという、こういう理屈ですよね。
今回の条例は、特に十八条の改正において、成人の努力義務を規定する場面におきまして、無限定的に成人の享受自体をもあしきことであるかのように行政が決めつけるようなニュアンスが漂っています。これは極めてゆゆしきことだと考えます。
○鈴木委員 ありがとうございます。
そういう中で、東京都側も大変努力は重ねている中ではありますけれども、今回の規定の中で幾つか、やはり今お話しいただきましたように、大変危険性をはらんでいる部分があるというお話だったというふうに認識をしております。
そういう中で、この中にもありましたけれども、東京都は、この条例改正について都民にできるだけ理解をしていただく必要があるだろうということで、今回の条例改正案以降、問答集を出しておりまして、その中で、わかりやすく都民にこの条例を説明するという努力をしております。しかし先生の中では、ここに書いてありますが、基本的にはむだではないかというお話もありますけれども、その条例改正の問答集の中にも、今回、漫画やアニメの作家の方々の創作物に対しては決して表現規制はしていないんだと、もちろん検閲もしていないということを明確に示しております。
そんな中で七条を読むにつけ、非実在青少年という文言からして、都知事も話をしておりましたけれども、大変わかりにくい造語であったり説明になっているということもあり、作家の方々も大変戸惑われて、実はこの条例に関してはいろいろなご意見をいただいています。
そういう意味では、先生がこの条例を読まれて、どのように、この改正案の中で表現規制をしているか、していないか。検閲をしているか、していないか。率直に、どのようにお感じになったかを改めてお聞かせください。
○宮台参考人 ゾーニングの場合、その場所、時間、対象、人物にかかわるカテゴリー分け、あるいは明確に何を限定して規定しているのかということが不可欠ですけれども、今回の条例改正案はそうした要件を全く満たしていません。
まず、さっき、努力している、いないの問題を申しましたが、もっと重要なことは対象物にかかわる恣意性です。第七条二号、性的視覚描写物とは、非実在青少年の姿態を視覚により認識できる方法でみだりに性的対象として肯定的に描写したものなんですよ。なおかつ附帯条項で、青少年の健全な育成に反するものと。これは、主観次第では何でも入りますよ。こんな無限定的な規定を条例が掲げていること自体が、東京都の恥です。
今のは対象にかかわる恣意性ですが、今度は主体にかかわる恣意性ないしは無限定性をお話をいたします。
十八条の六の二、都は、青少年性的視覚描写物を蔓延させることにより青少年をみだりに性的対象として扱う風潮を助長すべきでないことについて事業者及び都民の理解を深めるための機運の醸成に努める義務があると書いてあります。これは都の責務ですね。
次に、事業者の責務を規定されています。事業者は、青少年をみだりに性的対象として扱う風潮を助長すべきでないことについて、云々かんぬん--に留意し、他の事業者と協力して、青少年が容易にこれを閲覧または観覧することのないようにするための適切な措置をとるように努めるものとする。そして、成人の都民もこのような責務を負うんです。
都民は、青少年をみだりに性的対象として扱う風潮を助長すべきでないことについて理解を深め、青少年性的視覚描写物が青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害するおそれがあること、これは科学的に完全に無根拠ですが--に留意し、青少年が容易にこれを閲覧または観覧することのないように努めるべきである。
この、俗にいう蔓延抑止規定はおかしくありませんか。もともと東京都の青少年条例は、青少年のアクセシビリティー、つまりアクセス可能性を制限するものだったんじゃありませんか。
特にこの十八条の六の四、これは何ですか。まるで、成人が青少年性的視覚描写物を堂々と享受することが恥ずべきことであることのような、そんな書き方じゃありませんか。こういうことを行政は絶対にやってはならないのです。これは完全に自明だというふうに思います。
以上です。
○鈴木委員 ありがとうございます。大変参考になりました。
時間が余りなくなりましたので、私から最後の質問をさせていただきますけれども、今回、この条例改正案が提出されてから、私のところもそうですけれども、各委員のところにたくさんのメールやあるいは速達でのはがきもたくさん来ました。全国から来ております。
その中で、大変反対意見が多い中で皆さんがいうのは、漫画、アニメは日本の世界に誇れる文化でありながら、今回の条例改正によってそれがなくなってしまうんじゃないか、あるいは衰退してしまうんじゃないか、そんな危惧を持たれている方々がたくさんいらっしゃいました。
そういうアニメや漫画文化を健全な産業、健全なというのがどういう意味を持つのかも、またこれも議論なんでしょうけれども、これをしっかりと産業として育てていくために、今後、業界がどういうことを必要とすべきなのか。あるいは閲覧されている読書や観覧されている方々に、守るべきことなどがあれば、社会学の見地からお話をいただければと思います。
○宮台参考人 最も重要なことは、設定とキャラクター、つまり見え方が分離するのが日本の漫画やアニメ文化の特徴で、それが今、世界に名だたるジャパニーズコンテンツ、つまりクールジャパンなるものの真髄を構成しているということは、日本人のみならず外国の人たちを含めて、もう常識化していることなんですね。なので、この設定とキャラクターが乖離する、つまり設定は成人なのに見ばえが十三歳に見えるとかという、そういうコンテンツをどう規制するのかという、簡単にいえば参考事例は、海外には全くありません。
むしろ、今後ジャパニーズコンテンツの世界におけるヘゲモニーを維持するべきであるとするならば、日本がまず率先して、設定とキャラクターの乖離が存在するような表現について、行政がというよりも、市民のどういうかかわりを、行政が支援しようとしているのかということをはっきりさせる。
つまり、日本が先陣を切って、こうしたコンテンツが従来の児童ポルノとは異なるのである、あるいは従来の児童ポルノの規制とは同様な図式では扱うことができないのであるということを、世界に向けて発信するべきなんですね。
東京都の今回の条例改正案は、全く逆向きであるというふうに考えます。
○吉原委員 きょうはお忙しいところ公聴会にお越しをいただきまして、ありがとうございました。
今、さまざまな専門的なお話も加えて、大変、私自身も勉強になったなというような思いをしております。それは、先ほどお医者さんである赤枝先生のお話もるるございましたが、評価をするその観点、今の社会情勢も見ながらその上での見る観点も、その方々によって大きく違ってくるなということを、今つくづく感じたわけであります。
そんな中で、単純に、大変恐縮でございますけれども、我々はとにかく子どもを守っていかなければならない。それが健全な子どもを育てていくことの大人の役割だと、こういうふうに単純に思っているわけでございますし、それは事実だろうと、当然のことだろうというふうに思っているわけであります。
そういう現状に対して、先生も、今、子どもたちがどういう状況になっているのか、どういう状況に置かれているのかということは十分ご案内だというような思いでお尋ねをしたいと思いますけれども、今の現状を何とかしなきゃならないなという思いが、私は、我々と変わらないなというふうに思っているわけでありますが、その点について簡単にちょっと教えてください。
○宮台参考人 吉原委員、ありがとうございます。
まず、現状をどう理解するのか。観点はそんなにたくさんはないんですね。
まず、性犯罪はどんどん減っています。凶悪犯罪もどんどん減っています。凶悪犯罪というのは強盗、強姦、放火、殺人ですけれども、どんどん減っています。これは統計データがはっきりさせているところです。強制わいせつについてだけ、二〇〇〇年代半ばから、特に痴漢の取り締まり等が厳密化されたことによってカテゴリーが変わりましたから、警察統計上は変わりました。しかし性犯罪はどんどん減っています。
なので、そこに強いて問題を発見する必要はない。あるいは殊さらに新しい問題が出てきたというふうに私は認識しておりません。むしろ問題は、子どもたち、青少年の、わかりやすくいえば生きる力がどんどんなくなってきていること。それは、例えば一つ、判断能力であるし、交渉能力であるし、危機回避能力、こうしたものがどんどん減ってきているというふうに思います。
例えば典型的には、子どもがいわゆるエロ本やエロビデオを持っていたときの親の対処の能力。というか、それ以前に、例えばわかりやすい例、昔、近隣騒音があれば、ちょっとこういう事情で迷惑なのでやめてくださいというふうにいったはずが、最近になればなるほど、いきなり警察あるいは公権力の呼び出し線を使うようになっています。それとよく似ているんですね。
子どもがエロ本を読んでいた。だったら、親が子どもにコミュニケーションして、これについてどう思っているんだ、ここにはレイプが描かれているぞ、このレイプはどうなんだ。子どもの判断を聞くべきなんですね。父ちゃん、これさあ、レイプが描かれているけれども、レイプを通じて、傷ついた女の子がどうやって回復するのかということが描かれているんだよ、だからこれはすごい学びになるんだというふうに子どもがいう。お父さんが、ううん、それにしてはちょっとえぐいと思うけれども、おまえがそういうならいいのかもしれないな、というようなコミュニケーションをすべきなんですよ。
それが、子どもがレイプが描かれた漫画を読んでいる、行政の呼び出し線を使う。おかしくありませんか。つまり問題は、我々が何かというと行政の呼び出し線を使うようになってしまい、そのことのおかしさに気づいていない。親子のきずな、親子のコミュニケーション能力、親子の共同性、親子で問題を解決する力、それがどんどん減ってきているということが、現象的にはいろんな問題を生み出しているというふうに考えます。
○吉原委員 確かにおっしゃられるとおり、そうだと思います。
しかしながら、現在の社会では共稼ぎのご家庭もかなり多くなっているわけでございまして、先ほど赤枝先生からもご指摘がありました。とにかく親子の会話を多くしなければだめだと、こういうお話もあった。もうそのとおりではありますけれども、そういった意味では、当然のことながら家庭教育というのは大切でありますけれども、家庭教育にも限界というものもあるわけでございまして、そういったものを今後どういう形でやっていくのかなと。
先ほども、再度そういうお話をして恐縮でございますけれども、赤枝先生の場合はお医者さんでございますので、日々、六本木という場所、土地柄も含めていろんな子どもたちを見ておられるようであります。小学生の低学年から高校生も含めて、高校生を卒業した方々も、いろいろ相談に来たりお会いをする機会が多分にあるようであります。
そういったことをいろいろ、日々の経験の中では何とか子どもを助けたい、こういう思いがお強いようであります。それは、医学的にも感情的にも精神的にも肉体的にも全部のことをいわれているんだと思いますけれども、しかしながら、本来は教育でそういうものもしっかりと、家庭の教育、社会の教育の中で育てるべきだと、こういわれていたわけであります。
しかしながら、今、教育を通じてということは、もう二十年も二十五年も前からやってきたんだと。だけれども、そのことがいまだに、しっかりとした性教育も含めてなかなか今日に至っていないんだと、こういうお話であったような気がいたしました。これはちょっといい方、いい回しが違うかもしれませんけれども、そういうニュアンスだったように私は理解をしているわけでございます。そういった意味では、的確な規制が今すぐにどうしても必要だといわれていたわけでありますけれども、その点についてはいかがでしょうか。
○宮台参考人 先ほどの繰り返しになりますが、まず社会が、プライマリーな、つまり第一のプレーヤー、当事者です。そして行政は、セカンダリーな、つまり第二の当事者なんです。社会からの要求があった場合にこたえるのが行政の責務ですから、社会が、さっきの雨漏りバケツでいえばバケツ、つまり緊急避難を要求しているのであれば、それにこたえるのが行政の責務である。これはもとより明らかです。
しかし、例えば社会が当事者としての能力をなぜ発揮できないのかということについての分析、情報の開示、そうしたものを、行政はしているでしょうか。ヨーロッパの、特にEU諸国の年間就業時間は千四百時間台です。イギリスだけが例外で千七百時間台ですね。アメリカも大体同じような感じ。日本は残業を除いて千九百時間台ですが、残業を含めると二千ないし二千百時間台です。通勤時間を含めると、一日三時間以上多く仕事に時間をとられています。
この状態を放置して、社会で、あるいは親と子どもの協力によって問題を解決していこうなんていっても、それは空念仏ですよ。つまり、その問題に実は絡むのがワークライフバランスということで、日本では、なぜか私生活、趣味の時間をふやすことだというふうに誤解する向きが多いんですけれども、そういう意味ではない。社会のことを社会が解決する。屋根が破れていたら自分で屋根をふき直す力、これを社会が回復する。これが本義です。
したがって、何事もそうです。社会はいいとこ取りができないんですね。総合的な政策によって社会の分厚さを深めていくと。もしセカンダリーな、つまり緊急避難的な必要から行政が介入的にかかわる場合も、それがあくまで二義的なものであり、したがって抑制的でなければならず、本来の姿を社会に取り戻すためのメッセージなるものが、本当はこういう条例だったら、なければならない。そういうふうに私は考えます。
○吉原委員 ありがとうございました。
それでは、きょうの資料をいただいておりますけれども、その五ページのところでも、ちょっと記入いただいておりますけども、設定に関係なく子どもに見えることを取り締まれば日本的表現への死の宣告、こういうことを書かれているわけであります。
条文上も、都の説明でも、十八歳未満である旨の客観的な表示があるものを対象にする、こういうことになっているわけでございまして、そういった意味でいえば、成人でも子どもに見えればだめだよ、こういうことは書いていないように思っているわけですが、その点についてはいかがでしょうか。
○宮台参考人 先ほど申しましたように、都の質問回答集は基本的に司法の条例解釈を全く拘束しません。もちろん、法廷におきまして、例えば審議過程を知っている役人さんや議員さんが法廷に呼ばれて証人として発言したことが、裁判官の心証を左右することはもちろんあり得ます。しかし、これは一時的なことです。代がわりが進み時間がたてば、どのみちそういうプロセスはあり得なくなってしまいます。
先ほど申しましたように、憲法は立法意思がすべて、法律は条文がすべてです。条文に何を書いてあるかということが実はとても大事で、条文に書いてあることは、もう一度申しますと、視覚により認識することができる方法でみだりに性的対象として肯定的に描写したもの、これであります。何が入る、何が入らないという明確な規定はありません。
以上です。
○吉原委員 もう時間も終わっていると思いますけれども、一点だけ、早口でお尋ねをさせていただきたいと思います。
先ほどのように、きょうの意見書、資料の中にも入れていただいてあると思いますけれども、メディアにおける性描写が与える影響に関する強力効果説、そして限定効果説について述べられているわけでありますが、その影響の強さや条件についてはともかくとして、いずれにいたしましても全く影響がないというふうには書かれていないように思っているわけでありますけれども、影響があるのかないのか、時間もあれですが、一言でお話しいただくとすればどちらになるのかお尋ねをして、質問を終わります。
○宮台参考人 一般に表現物は、享受者に影響を与えるのが当たり前です。影響を与えるためにかかれているんですから。しかしそれが悪影響であるかどうかが問題で、一般に、犯罪者としての資質を育てるかどうかということについては、無条件でそういうことは起こらないということが証明されています。犯罪者の資質を持った人間にきっかけを与えることがある。これも統計的には証明されています。
犯罪者としての資質の醸成は、メディアを含めた、基本的には受容環境、あるいは受容環境を含めた人間関係の全体なんですね。それが資質を構成する。逆にいえば、子どもが、孤独に長時間、ゲーム、アニメ、あるいはその他のコンテンツに長い間接触するように放置されている場合には、メディアのコンテンツも、放置されているということがもたらす孤独の感情、あるいは放置されている間に、放置されていない人間なら人間関係から学ぶことができるきずな、そのほか。これが存在しないということによって資質が構成される。これがジョセフ・クラッパーの議論です。
僕はこの議論、適切ではないかと思います。メディアが悪人、それはあり得ない。メディアを放置する社会、人間関係、これは問題です。その場合の社会、人間関係は、行政のことではありません。
以上です。
○大松委員 本日は、宮台先生、お忙しいところ貴重なご意見をちょうだいいたしまして、本当にありがとうございます。
私の方からは、不健全図書の指定制度についてご所見をお伺いいたします。
不健全図書の指定制度は、昭和三十九年の条例制定当初から導入され、性的感情を刺激し、残虐性を助長するなどの図書類を子どもに見せないよう、売らないよう、販売を規制してまいりました。現在は、コンビニやレンタルビデオ店においても、不健全図書に指定された漫画類は成人コーナーに区分陳列をされて、この制度は広く都民の理解を得て定着しているものと、私どもは考えているわけでございます。
この不健全図書の指定制度は、判断力の未熟な子どもには見せない、売らない、いわゆるゾーニング規制、区分陳列などによる販売規制でありまして、漫画を創作し、出版をしたり、また大人向けに販売をするということは自由であり、表現規制ではありません。合憲性についても、他県の同種の制度について、表現の自由を保障した憲法二十一条に違反しない、こういう最高裁の判例もあるわけでございます。
そこで、ご所見をお伺いいたします。先ほど申し上げましたように、東京都は青少年の健全育成への取り組みとして、不健全図書につきまして、区分陳列等の方法によるいわゆるゾーニング規制を行っているわけでございます。このゾーニングの必要性については先生も認識を共有させていただけるものと思いますけれども、現行の制度につきまして、先ほど七条の文言についてのご指摘もございましたけれども、どのように評価をされていらっしゃるのか、ご所見をお伺いいたします。
○宮台参考人 条例改正案では、第八条に不健全な図書類等の指定とございまして、そこにいわゆる指定図書の要件として、七条二号、先ほど申し上げました青少年性的視覚描写物のうち、とりわけ強姦等著しく社会規範に反する行為を肯定的に描写したもので、青少年の判断云々かんぬん、つまりここから先は旧条例を踏襲していらっしゃいます。つまり、かなり激しいものについて区分陳列をするということがなされてきていて、運用上もおおむね適切であっただろうなというふうに思います。
ただ、波及効果としては、一般に、区分陳列によって販売することができるタイプの書籍と、区分陳列されてしまうと例えばもうコンビニが区分コストがかかるので置かなくなってしまうということによって、事実上死滅してしまうような、そういうメディアがあるということですね。その波及効果について、ある程度敏感である必要があると思います。
現行の制度は、七条の二号に該当するようなものは含んでおりませんし、簡単にいえば、七条の二号は今のご質問にございましたように従来の区分陳列の対象から大きく範囲を広げるものになっておりまして、しかもそれが行政の裁量によって行われることになっておりますので、そのようなものは極めて危険である。
特に十八条による、行政と業者と市民の、それこそ無限定的な努力義務が規定されているということとの兼ね合いを考えますと、現行のゾーニングがうまくいっているということをもって、質問回答集で都がいっているような、これからの新しい規定もゾーニングなのだから安心だというふうな、そういう説明に納得することは全くできません。
○大松委員 先ほど、先生も教育の重要性ということで、私どもも大変共感をするわけでございますが、もとより子どもの教育は、親、保護者が担わなければならないわけでございまして、現行の条例におきましても青少年に対する教育について保護者の努力義務を置いて、都としても、親子のコミュニケーションを深めるための施策も展開しているわけでございます。
その上で、やはり子どもには見せたくないなというような図書、青少年の健全な育成を阻害する図書類が多数販売されている中にありましては、保護者による、親による教育とともに、行政による環境の整備、これが相互に連携をしながら進めていくことが大切と考えるわけでございます。
私も中学生の娘がいるわけでございまして、親の知らないこともどんどんこれからふえていって、いっぱいあるんだろうなというふうには思うわけでございますけれども、親として、やはり折々の機会を逃さず、さまざまな話をするようにはしているわけでございますが、今回の条例でも課題になっております子どもに対する強姦、これなどが肯定的に描かれているような漫画類については、やはり成人コーナーに区分陳列して売らないようにしていただくということは、行政の仕事としては必要かつ適正なものであるというふうに私は考えているわけでございます。
その上で、先ほど先生から、現行条例は運用上おおむね適切になされているというご所見もいただいたわけでございますけれども、今回の改正案は、五十年近くにわたって運用されてきました現行の指定制度の対象に、当初は想定をされていなかったような作品、先ほど申し上げました、つまり子どもに対する強姦などが肯定的に描かれた漫画類を加え、販売する際は成人コーナーに区分陳列させて、子どもには販売しないようにしてくださいというものでございます。
今回この指定対象をふやすというのは、このような漫画が、現在の指定基準では不健全図書には指定されないで、子どもの目に触れる一般コーナーに陳列されているからでございますけれども、質問が重なるかもわかりませんが、現行の運用上おおむね適切になされているこの条例に、今回新たにこういった指定対象をふやすということにつきまして、改めてもう一度ご意見をお伺いさせていただきます。
○宮台参考人 長年、条例がそれなりにおおむね有効に機能してきたというふうに思いますので、というふうに申し上げた理由は、改正の必要がないということです。
つまり実際、例えば漫画であったとしても何であったとしても、俗にいうげろげろなものは従来の条例でも十分に対処はできた。しかも、大松理事がおっしゃったことの中で、大変大事なことなんですが、漫画であっても強姦などが描かれたものは指定図書にするべきで、それはそうです。そうかもしれません。現在もそういうふうになされてきていますが、問題は、七条の二号は、強姦とか輪姦とかというふうな具体的な規定はないんです。おおむね青少年の性的な行為や体験をみだりに、つまり必然性なく描くもの、これが対象になっています。
そのような漫画、アニメが規制されるということであれば、これは波及効果が大き過ぎます。表現者は萎縮します。表現者はプロだけじゃありません。同人誌の共同体にかかわっている連中たちのコミュニケーション、これも萎縮します。そこで得られる人間関係も萎縮します。
社会は多面的です。一面だけ見て、そこをどうしても規制する必要があるからそれを規制するというのでは話にならない。どういう波及効果があるのかを考えて、バランスを考慮するべきだというふうに判断します。
○大松委員 ありがとうございました。
さまざまご高説を賜りましたけれども、先生が本日配られた資料の中にもゾーニング規制を評価されていらっしゃいまして、そのようなご意見も改めてお伺いいたしまして、この点につきましては、私どもと認識を共有させていただいているものと受けとめさせていただきました。
今回の条例改正案、私どもは、子どもを守るための必要最小限のゾーニング規制であるというふうに考えております。
以上で私の質問を終わります。
○吉田委員 先生、お忙しい中、ありがとうございます。また、話を聞かせていただきまして、法学あるいは社会学的な観点から条例案の問題点について鋭く分析をしていただいて、大変参考になりました。
若干、話されたことと重なる点がどうしてもあるかと思いますけれども、何点か改めて聞かせていただければと思います。
先生の話の中で、個人的法益と社会的法益という問題にかかわって、改めてお聞きしたいというふうに思います。
先生の意見書を読ませていただきましたけれども、実在青少年の規制は、個人的法益が侵されることで規制をするという点では合理的である。ところが非実在青少年の場合は個人的法益とは無関係であり、規制すべきではないというご見解だと思います。
ところが、青少協の議論などを私も改めて読んでみると、非実在であったとしても、結局その漫画に描かれている女子がその対象になっているということは、全児童の人格を否定するというふうにやっぱりとらえるという、とらえ方が弱かったんだと。したがって、非実在であったとしても人格否定なんだから、そこに踏み込むべきだという議論がされています。それが先生のいう個人的法益と社会的法益ということかもしれませんけれども、そういう議論について、改めて先生の見解をお教えください。
○宮台参考人 社会学ないしその一分野であるフェミニズムにおきましても、ジュディス・バトラーを代表とする論客がそうした論点を掲げています。
表現の自由も大事だが、表現の自由の美名のもとで、ポルノグラフィーが、別にレイプを描いていなくても女性に対するある種の社会的通念を押しつけ、社会的通念のもとで人々が持っているだろう視線、まなざしにさらされてしまう。これは暴力だという議論を展開しています。
これは立論として一聴に値しますが、だから行政がそれを規制しようという議論は危険です。つまりバトラーの議論は、その漫画を見て、自分が否定されていると思う人が中にはいる、ということです。でも例えば、今回の七条の二号等によって規制されるであろうボーイズラブの描き手も享受者も、基本的には女子、特に小学校、中学校、高校の女子でしょうけれど、その方々は、自分たちで描いたポルノグラフィーをもって自分たちの人格が否定されているなんていうふうに思うでしょうか。
つまり、先ほど申し上げましたように、問題は、不意打ちを食らわない権利、あるいは子どもに見せないで済む権利ではないでしょうか。一定の表現物を人々がどう感じるのかということを、行政が、こう感じるはずなんて決めていいはずがない。
以上です。
○吉田委員 続いて、先生は、表現規制ではなくて、先ほども話がありましたけれども、受容環境の整備ということの必要性というものを、意見書の中で強調されています。この受容環境の整備ということについて、もう少し具体的に説明していただければ幸いです。
○宮台参考人 幾つか具体例を挙げましょう。
まず家族、そして社会学ではホモソーシャリティー、つまり部活動的な人間関係、そして近隣の人間関係、それぞれ申したいと思うんですね。
例えば、私の父、母、それぞれやみ市世代ですね。当然、やみ市の中でのカストリ本を含めた雑多な環境、やみ市の時代にはまだ夜ばいがありましたし、府中のくらやみ祭りもまだおどろおどろしいものでしたが、そうしたノイジーな、括弧つき有害な環境の中で育ってきて、私の父や母の世代は有害な人格に育ったでしょうか。つまり、それはあり得ないんですよ。
ノイジーであっても、人々のきずな、共同性あるいは共同身体性、つまりみんなでコミュニケーションし合って、それは何だよね、こうだよねという環境があれば、やっぱり反社会的にはならないんですね。そこに問題のかぎがある。
かつての家族はそういうふうに機能したし、伊丹十三さんが以前「モノンクル」という雑誌を出して、斜めの関係が大事だというふうにいっていました。親がいわなくても、あるいは親がいったら反発しても、隣のちょっといかれたおじちゃんがいかしたことをいってくれる。それがロールモデルになったりする。
あるいは、昔の体育会系的な人間関係は、しごきがありました。僕らが若いころ、しごきは全然悪い意味を含んでいなかった。例えばそういう意味でいえば、本人が望んでいなくても、本人がへたれであれば、おまえ、これやれよというふうにたたき込むということを、先輩からやられた。実はそうしたことを通じて、社会のノイズに、隔離されるよりも、むしろ免疫化されるというプロセスが進んだんですね。
よくいうんですが、子ども時代は、学校を含めて通過点です。子ども時代に、あるいは学校においてノイズから隔離しても、どのみちノイズに満ちた社会に出ていきます。ノイズに満ちた社会は、別に日本だけに限られていません。
そのときに、ノイズに対する免疫がなければ、こういうこともああいうこともあり得るんだということについての知識あるいはそれに伴う構えがなければ、本人は当惑し不適切な選択をするでありましょう。実際、昔、家や地域や、あるいはホモソーシャリティーの中でなされていたコミュニケーションはそういうものでしたよね。つまり、おまえはそう思っているかもしれないけれども、それは思い込みだな、おまえはまだ人生知らないな、世の中そういうふうには動いてねえんだよ、だからこれを知っておけよというふうなコミュニケーションができた。
それはまさに、先ほど申しましたように、表現の枠が現実を超えているからこそなされるコミュニケーションですね。先輩、こんなことって本当にあるんですか。いや、これはねえな。あ、これはないのか。先輩、これは本当にあるんですか。これはあるどころか、もっとげろいことがあるんだよ、現実には。
もし表現の枠が現実の枠と完全に重なっていたら、そうしたコミュニケーションはできません。これはゆゆしき問題だと思います。
○吉田委員 なかなかわかりやすいご説明だったと思います。
時間もありませんので、じゃ最後に、非常に注目を集めていて懸念が広がっている、表現に対する萎縮あるいは抑制という問題について、説明を受けておりますけれども、改めてお聞きしたいというふうに思います。
非実在青少年を登場させる性表現の規制は、社会的意思表示機能を果たすだけでなく、社会の文化を豊かに支える表現を不公正に萎縮させる機能をも果たすことを警鐘いたします、という旨のことを先生はいわれていると思いますが、私も全く同感です。
ところが、既に先生からお話がありますけれども、質問回答集では極めて大ざっぱに、場所を移すだけなんだから何ら問題ありません、表現の自由は侵害していません、萎縮にもなりませんということが強調されています。改めてこの点について、先生の見解をお願いいたします。
○宮台参考人 まず、質問回答集は、行政当事者の、簡単にいえば私的な見解に近いものです。私的な見解と申しますのは、当座しか意味がないということですね。それは先ほど申しました。
実際、条例を読めば、質問回答集が矛盾していることはよくわかります。指定図書については、区分陳列等についての義務づけがあります。しかし、七条は指定図書ではありません。指定図書よりも包括的な対象に対する努力義務を課していて、そしてそれとは別に十八条で、行政と業者と市民が、青少年を性的な対象とするような描写物に対して否定的な振る舞いをするように奨励するというふうになっています。質問回答集とは全く矛盾した中身になっています。
我々は、質問回答集ではなくて、条例を信じるべきです。条文を信じるべきです。条文が危険であれば、質問回答集が何をいっていても無意味です。
以上です。
○西崎委員 きょうはどうもありがとうございます。
私は、宮台先生とは十数年前にお会いして、子育て論を伺ったことがあるんですけれども、先生は今、大学生とも接していらっしゃる。そして地域でお子さん二人を育てていらっしゃる親の立場でもあると思うんですけれども、今までのやりとりを聞いていますと、先生は条例改正には反対というお考えだと思うんですが、先日、毎日新聞のコラムの中に、やはり今回の健全育成の問題はいろいろなところに波及をしていて、いろいろこのことについて批評なさる方がいらっしゃるんですが、斎藤環さんという精神科医の先生が、やはり改正には反対ということで書いていらっしゃいました。
その最後の文章に、メディアにおける性暴力も、見せなければ済むという問題ではない、条例改正といった環境調整だけでは健全育成には不十分だ、人を育てるのは法律や環境ではなく、やはり人でしかないということ、この常識が風化したときに、倫理の伝統は途絶えるほかないだろうと、こう書かれてあったのがすごく印象に残ったので、きょうご紹介させていただいたんですが、まさに宮台先生がおっしゃっている考え方と同じではないかと思うんです。
しかし実際、親としては大変心配されるところも多くあると思うんですが、どうこれからの社会を--先生が、条例を改正しないで、親子でコミュニケーションを図っていくということをおっしゃっていますけれども、具体的にはなかなか難しい問題もあるんじゃないかと思うんですが、その辺のお考えを……。
○宮台参考人 何が社会的逸脱であるのかというのは、社会的なファクターと主観的なファクターと両方あるんですね。明らかに、例えば人権の両立可能性や共通基盤を侵害するような逸脱もあれば、社会は多様だから、あるいは多様だけれども、自分はその多様性の一部は受け入れられないというタイプの、そういう受け入れられなさもあるんですね。つまりそこから生じる主観的な逸脱というカテゴリーもあるんです。
我々、僕や、私も親しい斎藤環さんが懸念するのは、単に個人の主観的ないし実存的な判断にすぎない、自分には受け入れられないというこのカテゴリーが、直ちに社会的なカテゴリーに昇格してしまう可能性なんですね。
世の中にはいろんな人間がいるんですよ。いろんな人間がいること自体は反社会的でも何でもないんですね。しかし、いろんな人間の中には、その人間の立ち居振る舞い、生活のスタイルが自分には受け入れられないものがあるでしょう。それを封殺するべきですか。それは違うでしょうと。特に親が子どもを育てる場合には、親と子どもは違います。親と子どもの実存が重なる可能性はありません。子どもは違ったフレームを持つ大人に育っていきます。そのときに、自分には受け入れられないけれどもこういうものが社会にあるんだ、それについておまえはどう考えるのか聞かせてくれ。親だったらこういうべきではありませんか。
自分には受け入れられないけれども、君はこれを受け入れられるのか。一応合法的だけれども、僕は嫌だ、でも君は大丈夫なのか。どうして大丈夫なんだ。つまり、こういうコミュニケーションを通じて、社会性と、社会性が許容する多様性と、両方に対する感受性が開かれると思うんですね。斎藤環さんが推奨しているのはそういうことです。
逆に、たかだか、個人の狭い、あるいは短い人生の中で培ってきた実存をベースに、自分が受け入れられないものをすべて反社会的であるかのように考えて、行政の呼び出し線を使うなどという恥ずべきことはするべきではない。そういうことです。
○西崎委員 これまで東京都は青少年の健全育成条例があって、先ほどもおっしゃっていましたけれども、不健全図書については指定もしてきていますし、地域では、東京都から委託を受けた青少年協力員の方が地域を回りながら、その実態というところを東京都に報告しているという話を、今回も地域の中でいろいろ調べていただきました。先ほど先生が、表現規制をしていくと、やはり市民にわかりにくくなるというふうにおっしゃっていたんですが、私はやっぱり、行政が条例をつくって、何か、強制的に排除していくのではなく、やはり市民がそれをチェックしていく機能が重要になってくると考えるんですが、その点はいかがでしょうか。
○宮台参考人 おっしゃるとおりですね。
とにかく下から議論を起こしていくことが大切で、その意味では今回の条例改正案は私は不適切だと思いますけれども、しかし、社会学では、遂行的には、というふうにいいますが、結果として人々に議論のチャンスを与えているという意味では、これを我々は利用しない手はないだろうというふうに考えています。
今回の条例は下からの意見で起こってきたものではありません。PTAの関係者の方々に聞いても、こういう条例があるということがPTAにサウンドされた形跡はなく、大半のPTAはそういう条例案の存在すら知りません。恐らく、ぶっちゃけ、いってしまえば、一部のお役人さんたちの、何とか官僚といいたいところですが、何とか官僚さんたちのコネクションの中で動員された人たちだろうというふうに、僕は推察いたします。
そうではない。もっと十分な時間をかけるはずですよね。もし、市民の意見をサウンドする、つまり打診して、吸い上げて、そして議論を起こし、それをさらに吸い上げるというプロセスを重視するのであれば、議会に上程後、すぐに採決に持ち込もうとしたりすることはあり得ないし、あるいはパブリックコメントを非公開、情報開示しないということもあり得ない。
つまり、こうした行政側の、つまり都側の出した条例の処理の仕方に、今回の条例の文脈、社会的文脈がよくあらわれていると思います。条例はこのようにつくられてはならない。そのように私は申し上げたいと思います。
○西崎委員 最後になりますが、今、子どもたちの生きる能力が落ちているというお話でしたけれども、子どもの権利条約が批准されて、子どもたち一人一人が自己決定権を持っていると思いますけれども、その決定権を上げていくためにも、先ほど赤枝先生は、性教育は重要だというお話をしていました。やはり、不健全図書とか見せたくないものを排除していくことは、先生は、子どもの権利条約に反することではないけれども、その前提には子どもの尊厳、一人一人の子どもの尊厳が必要だというふうにお話しなさっていらっしゃいます。
しかし、子どもが一番その被害を受けて問題だとだれもが認識しているんですが、今回の青少年の育成条例の中で、その子どもの救済については全然触れられておりません。むしろ、この条例ですべてを解決できるのではなく、個別な条例も必要ではないかと私たちは考えているんですけれども、先生はどのようにお考えでしょうか。
○宮台参考人 二つの側面があります。子どもの自己決定というと、これは子どもの権利条約の中核概念ですが、日本ではやや誤解されがちなんですね。僕もよく聞きます。結局、親は何もいえないんですねと。違うんですよ。子どもの自己決定を認めるからこそコミュニケーションするんです。
おれはこう思う。パパはこう思う。ママの意見は実は違うけれども、ママいって。ママはこう思う。で、君はどう思うんだ。え、そんなふうに思うの、ちょっと待ってくれよ、パパの意見は違うな。こういうふうに議論して、そういうことをやっちゃいけないとおれは思う。でも最後はおまえが決めることだ、おまえの人生だからな。なぜかというと、おまえが何が幸いなのかは、おれにはよくわからないから。ただ、人様を傷つけるなよ。
つまり、こういうコミュニケーションをするために自己決定権は重要なんですね。コミュニケーションを通じて互いの違いと互いの共通基盤を確認し、前に進むために、自己決定権という概念がある。これはまず常識的なことですよね。
それを踏まえた上でいうと、隔離することをもって子どものためになるんだと考える大人が、とても日本には多いのが残念です。先ほどいったことなので余り繰り返しませんけれども、どのみちノイズに触れるんです。親が見せたくないと思ったものに必ず触れます。そのときに子どもがうまく対処して幸せになる力を養うのが、親や大人の義務ではないでしょうか。
自分の狭い了見の中で子どもを閉じ込め、子どもをかごの鳥にし、免疫なき、簡単にいえば自己対処能力のない存在にし、そしてそのような存在が将来大きくなると、何かというと行政の呼び出し線を使うようになる。そのような悪循環がどんどんどんどん際限なく回るでありましょう。そうした悪循環にはくさびを打ちたい、そういう思いをいたします。
○小磯委員長 ほかに発言がなければ、お諮りいたします。
宮台参考人からの意見聴取はこれをもって終了いたしたいと思いますが、これにご異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小磯委員長 異議なしと認め、宮台参考人からの意見聴取は終了いたしました。
宮台さん、本日は貴重なご意見、まことにありがとうございました。心より御礼を申し上げます。
この際、議事の都合によりおおむね十五分間休憩いたします。
午後三時二十五分休憩
午後三時四十一分開議
○小磯委員長 休憩前に引き続き委員会を開きます。
参考人からの意見聴取を続行いたします。
これより田中隆参考人からの意見聴取を行います。
ご紹介いたします。弁護士の田中隆さんです。
本日はご多忙のところ委員会にご出席いただきまして、まことにありがとうございます。委員会を代表いたしまして御礼申し上げます。
初めに、田中参考人のご意見をお伺いします。
なお、田中参考人には、ご着席のままご発言していただきたいと思います。ご了承願います。
それではよろしくお願いいたします。
○田中参考人 ご紹介いただきました弁護士の田中と申します。
法律家の立場から、今回の青少年条例の改正についての意見を申し上げます。十分ということですので、焦点になっています図書規制の問題に絞らせていただきます。
図書規制という点で今回の改正を考えますと、特徴は、これまでのいわゆる不健全図書の規制に、児童ポルノ規制という性格の異なる規制を持ち込んだところにあると考えます。念のために、二つの規制の法的性格と理念を確認しておきたいと思います。
児童ポルノ法によりまして、十八歳未満の児童すなわち条例では青少年なんですが、この青少年を当事者とする性交もしくは性交類似行為などを被写体とした図書などの販売などが、刑罰をもって禁止されています。
この児童ポルノ規制は、あくまで被写体とされた児童の人権や人格の擁護を目的とするもので、読み手や社会の風俗に及ぼす影響を理由とするものではありません。読み手が青少年かどうか、社会的に有害な出版かどうかを問わず、全面的な禁止になっているのはそのためと考えます。憲法的にいうならば、自由なはずの言論、出版活動が、被写体の児童の人格や人権という、より優位の価値のために内在的に制約をされる、そういう場面と考えるべきだと思います。
これに対して、青少年条例の規制は、不健全図書の青少年への販売などを禁止するもので、読み手となる青少年の保護が基本的な目的です。指定は、当初の性的感情の刺激から、残虐性の助長、あるいは自殺、犯罪の誘発へと拡大しておりまして、問題をはらむんですが、それでも性的非行や自殺などを引き起こす具体的な危険のある表現というふうに限定されています。
青少年も人格を持った人権主体ですから、言論、表現に対するアクセスは最大限保障されるべきと考えます。したがって、制約は最小限にしなきゃならない。抽象的な成長の阻害などを理由とした指定が認められてこなかったのは、憲法の人権保障の要請によるものと考えるべきだと思います。
またもう一点、いわゆる不健全図書であっても、そうした図書を出版し青少年以外に販売することは自由であって、言論、表現の自由の保障を受けるものであるということをはっきりさせるべきだと思います。社会の多くの人々が眉をひそめるかもしれませんが、そうした表現を人権保障のらち外に置きますと、基本的人権そのものを否定することになるということを銘記すべきだと思います。
実は、この性格の異なる二つの図書規制を交錯させたのが、この改正案の前提となっている第二十八期青少協の答申と考えられます。
第一に、児童ポルノ法に単純所持への処罰規定を導入することを主張して、条例に不所持責務などを導入する。第二に、写真やビデオと同程度にリアルなコミックは、児童ポルノ法による規制対象とすることを主張し、そこまでいかないものでも、児童の性交などを積極的に、肯定的に描写するものは不健全図書の指定の対象にすると、こうしています。
法や条例の理念との関係で、この交錯は重大な問題をはらんでいると考えます。
繰り返しになりますが、児童ポルノ規制というのは、被写体とされる実在する児童の人権擁護を目的とする規制です。そこに人格を持たない、人権享有主体でないコミックの登場人物、すなわちこれが非実在青少年ですね、ここに拡張することは、人権立法を社会的有害図書規制法に変質させ、かえって人権問題としての本質を歪曲する、こういう嫌いを持ちます。この問題は、国会ではっきりさせるべきでしょう。
問題は条例なんです。指定を性交などの表現一般に拡大することは、青少年条例によってやってきた図書規制の性格や理念を変容させ、言論、表現の自由とも抵触する問題をはらみます。これが、いわゆる非実在青少年の問題とされているんですが、性的感情の刺激などの要件を満たすものは非実在であっても指定の対象になっていますし、現にこの間、指定されているのは、ほとんどコミックなんです。
そうしますと、今回の問題というのは、これまでは指定の対象にできなかった性交などの描写一般を対象にすることにありまして、実在する青少年を被写体にしたものが児童ポルノ法で規制される結果、非実在青少年の描写だけが条例で登場すると、こういう構図になっていることになります。
この指定の拡張は、さっきいいましたように、性的非行や自殺などの具体的な危険を引き起こす、そういう表現に限定されていた図書の規制を、一般的、抽象的な成長阻害のおそれに、拡張することになります。
じゃあ、性交などを描写したコミックを読むことが性犯罪に走るというような因果関係があるか。まず、これは認められていません。また、そうしたコミックを読むことが性的成長を阻害するかという学問的知見があるかというと、どうも、それもないと思われます。そうだとすると、具体的な立法事実がないままに抽象的なおそれを理由にして青少年の図書へのアクセスを遮断することになって、言論、表現の自由に抵触するばかりか、青少年の自主的な成長に対する過度な介入という要素を持たざるを得ないと思います。
この間、この改正についてさまざまな問題が提起され、混乱も起こっていると思うんですが、基本的には、この性格の異なる図書規制を、木に竹を接ぐように接合したことが原因と考えるべきではないかと思います。
第一に、年齢の問題なんです。
年齢というのは、簡単にいえば生物、人間の属性なんです。その年齢を非実在の存在に持ち込んだ結果、何をもって年齢をはかるのかという、まことに珍妙な問題が発生せざるを得ません。これを総合判断によって決めるんだといわれれば、恣意的判断を引き起こすでしょう。東京都の回答書によりますと、十八歳以上と書いてあればそれでいいというふうに読めるんですが、そうだとすると、多分実効性はなくなるんじゃないかと思います。
第二が、第七条の自主規制です。
要件は、みだりに性的対象として肯定的に描写することしかありません。青少年の性行為を肯定的に描写するコミックは確かにありますし、しかしそれは、十六歳から婚姻ができるという法制を持っているこの国からいえば、別におかしな話でもないわけです。残るは、みだりに性的対象、という要件しかなく、これは極めて抽象的。
東京都の回答書によりますと、これはあれこれいいかえられているんですが、抽象的な概念というのはどういいかえてみても抽象性を免れ得ない。結局どこまで広がるかわからないじゃないかと出版関係者が考えられるのも、無理もない法文になっていることを直視すべきだと思います。
三点目が、第八条の指定なんです。
強姦等著しく社会規範に反する行為を肯定的に描写したものが加わりますから、要件は確かに限定されるとは思います。ところが、現行条例でも、少なくとも法文上は、性的感情の刺激などの要件を満たせば指定できるわけですから、そうするとこれは、強姦を肯定的に描写はするが、性的感情の刺激も残虐性の助長も犯罪の誘発もしないものを探し出して指定するといっているに等しいことになります。
これまた東京都の回答集では、性的感情の刺激という要件が極めて限定されているということを強調され、だから別のカテゴリーが必要なんだと指摘されています。ところが、そう強調すればするほど、何でそんなカテゴリーが必要なのかという、わけのわからぬ疑問にぶつかります。こうした混乱の原因は、実はただ一点に帰着すると思います。
ちょっと繰り返しになるんですが、これまでの指定というのは、性的非行などを引き起こす具体的な危険を伴った表現に限定されて、それなりに厳格に運用されてきた面があります。ところが今回の改正は、そうした危険を伴わない、性的成長の阻害という抽象的なおそれで指定できるとします。しかもその阻害についての学問的な知見はなく、はっきりいえば、当局や判定者がそう考えているにすぎないものが指定されます。
こういう思考で新しいカテゴリーを導入すれば、その運用が恣意性に流れるのはむしろ当然といわざるを得ない、こうなります。批判があったことがあって、東京都の回答集は、規制される図書の限定にいわば躍起になっておられるようなんです。ただ、はっきりいってしまえば、そんなことが問題ではありません。具体的な危険でしかできなかった出版規制に、抽象的なおそれを持ち込んだことが問題なので、どれだけ限定を語っても本質的な問題は解決しないと考えるべきではないかと思います。
もう一点、図書規制の関係で黙過できないのは、図書の指定を超えた、出版社へのペナルティーが設けられようとしていることにあると思います。第九条の三には、反復して指定を受けた出版社に対する知事の勧告を認め--この勧告はそんな出版はするなという勧告にならざるを得ないはずです。その勧告を受けてさらに指定を受ける出版をした場合に、その旨を公表できるという規定が新設されることになっています。
これは、不健全図書であっても出版すること自身は自由なんだ、青少年以外に販売することは自由なんだとしてきた基本的見地を変容させることになります。こうした踏み込みは、社会的有害図書を理由とした出版の自由の制約に結びつきかねない、大きな問題をはらんでいると思います。
最後になりますが、実はこの二十年ほど、断続的に青少年条例にかかわって意見等も申し上げてきました。この二十年余り、東京都の青少年条例は、図書規制強化の要求を幾度も受けました。しかし、それでも、例えば包括指定などを導入せず、最低限の規制と社会的努力による解決という見地を守ってきました。
また、性的自己決定能力の育成を掲げた第十七期の青少協答申や、淫行処罰規定を退けて買春禁止という客観的な構成要件を生み出した第二十二期青少協答申など、青少年への信頼を基礎にした提言も何度も発表されてきました。これこそ東京が誇りにすべきものじゃないかと思います。
こういう見地に立ち戻って、東京都はこの改正案を本来撤回すべきではないかと考えます。都議会がこうした見地から検討を尽くされることをお願いして、意見とさせていただきます。どうもありがとうございます。
○小磯委員長 ありがとうございました。田中参考人の発言は終わりました。
次に、田中参考人に対する質疑を行います。
なお、田中参考人に申し上げます。答弁する際は、手を挙げて、委員長の許可を得てから発言していただきますよう、お願いいたします。
それでは発言を願います。
○神野委員 きょうは、田中先生におかれましては、お忙しい中お越しをいただきまして、まことにありがとうございます。
法律家としての先生のご意見をお伺いさせていただくという形で、幾つか質問をさせていただきたいと思います。
まず、今回の条例改正で一番大きな問題となっておりますのは、表現の自由の侵害であると思います。ただ、日本国憲法第十二条では、この表現の自由は公共の福祉のために利用する責任というものが伴っていて、その乱用というものが禁止されているわけなんでありますけれども、今回、本条例改正の目的でございます青少年の健全育成、この一点が、まさにこの公共の福祉に当たるものと解釈をすることができるんであるならば、この条例改正の議論に当たりましては、表現の自由の制限と公共の福祉に関する、その両者の比較考量の視点からの議論というものが行われるべきだと思うんであります。そういった視点に立っての、先生のご見識をお伺いしたいと思います。
○田中参考人 確かに、言論、表現の自由といえども一定の制約に服することは、そのとおりであります。憲法第十二条が規定するとおり。ただし、人権がどのような制約に服するかは、その人権の性格によって同じではないと、また、されております。
言論、表現の自由は最も尊重しなければならない自由とされ、それを制約する原理は、他の人権を侵害するために内在的な制約のあるものに限る。その点では、例えば営業の自由であるとか財産権と、いささか制約の程度が違う。これを裁判規範では二重の基準と申し上げています。
その点からいいますと、確かに、不健全な図書というのは、時に青少年の成長を阻害し具体的な性的非行等を引き起こすのではないかと指摘され、その蓋然性が強いものについて青少年のアクセスを規制することは、ある種の合理性があるかもしれません。ただ、本件は、そういう具体的な危険を引き起こす、そういう立法事実のはっきりしない中で、いわば性的成長がうまくいかないのではないかというおそれによって規制をしようというふうになります。
性的成長のあるべき姿というのを、じゃあ果たして法が定められるのかという問題もあり、これについては、やはり憲法の保障する公共の福祉には当たらない、過度な制約だと考えざるを得ないというのが私の見解です。
○神野委員 ありがとうございます。
今回、漫画、アニメにおける青少年の性的な描写、それを見た青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害するということに対しては、学問的な知見もそして科学的な根拠もないと、これは都側も答弁をされていらっしゃるわけです。ただ、子を持つ親の感覚からして、自分の子どもには見せたくない、余りにもひどいといった出版物を規制してほしいとする、いってみれば声なき声の存在があるというのもこれまた事実でございまして、この親の心に持っております価値観こそが、今回の条例制定の出発点であると考えているわけです。
この科学的根拠がない価値観というものを条例化しようとするわけでありますから、当然、文言のあいまいさといった問題が生じております。そして、逆にあいまいな文言を用いなければ、網を広げて条例の目的を果たして、子どもたちに見せたくはない出版物というものを規制することができないといった、いってみれば葛藤もあるわけなんですね。
法律家としての先生から見て、今回のこの条例に盛り込まれております、先ほどから出ております例えば非実在青少年、そして社会規範に反する行為、あいまい、恣意的だと呼ばれる、そういった批判が盛り込まれるこういった文言を、逆にいうとどのような形で表現すれば、ある意味、条例の目的を達成することができ、都民の理解も得られるとお考えなのか。
条例そのものを撤回すべきだという先生のお考えからするとちょっと違うかもしれませんが、ご意見、お知恵を少しいただければと思います。
○田中参考人 非常に悩ましいご質問です。
かつてから不健全図書問題あるいはポルノコミックのはんらんの問題については、随分都民の声がありました。何十万という署名が集まったこともあるんです、包括指定を入れろと。それで随分議論しました。しかし、それだけの声があっても、当時の東京都はそれを採用しませんでした。
二つあります。一つは、お母さんたち、あるいは社会の大人の皆さんが心配する青少年の問題について、それを解決するのは社会的努力が必要なんだと。むしろ東京都は、そのことを皆さんに投げ返して、ともに解決に向かおうということをやるべきであって、図書を規制すれば解決できる、逆にいうと青少年の非行や青少年問題が不健全図書によって発生しているかのような短絡的な見方そのものを克服すべきではないかと。私はこれは大変大事な視点だと思います。
それから、法律家の立場からいうと、実はそうであったとしても、言論、表現にかかわる規制は最低限にしなきゃならない。さっきもちょっと申し上げました。仮に百万の人のうちの九十九万人がこれは不適切ではないかといっても、そのことが言論、表現の自由として保障されねばならないものであれば、保障する方向で最大限考えなきゃならない。そうしますと、確かに、表現によっては、この表現が青少年に突きつけられれば本当に自殺を誘発しかねないものがあるかもしれません。それについて指定しようというのは、一応まだわかります。
成長という多義的なものについて、それを阻害するということで指定をするということを私はやるべきじゃないと思っていますし、申しわけありませんが、じゃあその指定をするのにどう要件を限定すればよろしいかと聞かれても、それは無理ですというふうに、むしろ申し上げざるを得ない。その理念そのものから考え直すべきじゃないかというのが私の意見です。申しわけありません。
○神野委員 大変ありがとうございます。
それでは時間もありますので、最後の質問になります。
今回、この図書規制、こういったものを、実は家庭で、教育の範囲の中で処理をすべきであるとか、そういったご意見もあろうかと思います。
きょうは図書規制について、先ほど先生お話しになったんですが、今回の条例にはインターネットのフィルタリングに関しても規制がございます。そして、このインターネットのフィルタリングに関して、親に努力義務といいますか、そういった義務が課せられることに関して、家庭教育への行政の介入だという批判があるんですね。
確かに、家庭というのは公権力からは独立した存在であると思います。ただ最近では児童虐待の多発を受けて、公権力の家庭への介入というものが、これはやむを得ないといった意見の中ではありますけれども、逆にいうと非常に広がってきている事態というものも一方ではあるわけですね。それだけ、家庭での教育力というものに対する社会の信頼というものが揺らいでいるという事実も、あることはあるんですね。
そういったことを踏まえて、この家庭教育とそして公権力、両者の関係について先生のご意見をお伺いしたいと思います。
○田中参考人 先ほどは申し上げなかったんですが、インターネット・携帯規制の問題も、種々やはり問題をはらんでいると思います。
これは二〇〇五年の青少年条例の改正に際してインターネット使用の規制が入り、あの二〇〇四年、二〇〇五年の改正によって、青少年条例の出版規制以外の理念がかなり変わっていった、そんな時期でした。どちらかというと、教育や家庭に託してきたものを行政の関与によって解決しようと。別に悪意とは思いませんが、そういう、いわば規制条例的色彩が強まりました。
今回の改正は、その後二〇〇八年に青少年インターネット環境整備法が制定されまして、それに対応したものと考えられますので、そのこと自体を否定する気はありません。ただし今回の改正の内容を見ますと、やはり、今いわれた、ここまで家庭生活に行政が公的に関与すべきなのかという疑問をはらむ部分が多々あります。
確かに、私どもも児童虐待の問題等に対応することがありまして、これについては、やはり家庭の解決力に依拠できない場面と思います。ただ、その場合に失われる被害というのは、子どもの、簡単にいえば生存あるいは健康なわけです。それに比べれば、確かに子どもがフィルターのないインターネットを見ることがいいとはいいませんけれども、それについては、その被害の程度は児童虐待の程度とは相当に違う。つまり、比較されるべき人権の深刻度、侵害の深刻度が違うと思います。
その点からいえば、やはり環境整備法にあるような、業界と行政そして地域社会の総合的な努力で解決し、そして青少年にインターネットの正しい利用を習熟させていくという方向で考えるべきではないかと思います。保護者に対する過度の、例えば制約、責務であるとかあるいは監視責務を課しますと、本当にやりますと、家庭の中にかえって亀裂を生むことになりかねない。そして、家庭の中に亀裂を打ち込むことによって、本当の問題を解決するんだろうかという疑問がありますので、これについても、やはり再検討すべきではないかという意見を持っております。
以上です。
○吉原委員 どうも、きょうはお忙しいところありがとうございます。
それでは、私の方から一、二点だけ、お尋ねをさせていただきたいと思います。
現在の制度でありますけれども、この条例は制定当時から、次代の社会を担う青少年が社会の一員として敬愛され、よい環境の中で心身ともに健やかに成長することを願うものであると思います。そしてまた、青少年みずからも社会の成員としての自覚と責任を持って生活を律するよう努めなければならないという理念のもとに、昭和三十九年に制定されたものであります。もう既に、先生も長年この問題に携わっておられるので、ご承知おきだと思います。
この条例の目的についても、青少年の環境をよりよくするとともに、青少年の福祉を阻害するおそれのある行為を防止することによってあくまでも青少年の健全な育成を図ること、こういうことにしているわけであります。この趣旨のもとで、先ほど申し上げたような、青少年の健全育成を阻害するおそれのある図書類については、まず出版社や販売会社などの関係者が自主的な努力をして、そこから漏れた著しく卑わいなものについては、都が指定することで、青少年に見せない、売らない、いわゆるゾーニング規制を行う。こういうことで今まで努力をしてきたことは、ご理解をいただけるものだろうというふうに思います。
そこで、田中先生、弁護士会の方の意見書としても、そもそもこの青少年健全育成条例が、子どもを支配、監視、育成の客体として取り締まりの対象としている、こういう意見を付されているわけでございます。ということになりますと、先生はこの条例はそもそも撤回した方がいいと、これからの条例についてはそういうお話をいただいたように私は認識をしたわけでありますけれども、そもそも、この条例、意味がない、ない方がよい、こういうふうに思われている部分が多分なのか、その点についてちょっとお尋ねをしたいと思います。
○田中参考人 青少年条例の趣旨と歴史については、今ご指摘があったとおりだと思います。私も二十年近くこの問題にかかわりましたけれども、率直にいいますと、一九九〇年代までのさまざまな議論がありましたが、青少年条例やそれに伴う議論は、先ほどお話があった青少年の健全な成長を保障する、その裏は逆にいえば、青少年そのものが人格を持った主体でありまして、自主的に考え判断していく、それを保障し、はぐくむという理念に沿ったものだと理解しています。ただ、どうも、それだけでは説明がつかない部分が多々出てきているのも事実だと思います。
これは図書規制ではありませんが、私どもは淫行処罰規定の導入には随分反対をいたしました。みだらという抽象的概念でもって青少年の行動を規制することは、かえって青少年の成育、自主的な成長を阻害するおそれがあると。そこから、むしろ客観的な買春という概念を生み出された青少協に、ある部分、賛同した部分がございます。これが入ったのがたしか一九九七年でしたか。しかし、それは二〇〇五年に淫行処罰に変わりました。
あの淫行処罰規定に変わったころから、例えば青少年の外出を過度に規制するとか--これも問題にしましたね、古物を販売してはならない。何が問題かというと、古書店、古本屋に古本を売ってはならない、なぜかというと、古本屋が青少年から古本を買っていいとすれば、万引きする青少年がふえるから。ちょっと、この考え方には同意できないという気がします。そういうあたりから、ややこの青少年条例が治安条例的側面を強めてしまったのではないか、その都度批判をしてきたところです。
ただ、あえていいますと、図書規制については、東京の青少年条例は、さっきいいましたように一番最初の原型を維持してきました。個別指定であり、具体的な危険のある図書について慎重に審査する、抽象的な概念を入れないということでした。それが、先ほど来出ている言論、表現の自由に対する尊重姿勢だったという気がしておりまして、この点においては原型を維持すべきであるというふうに考えておりまして、私は、青少年条例そのものは一切否定する立場に立つ気はございません。あるべきものはあるべきだと、そういう考え方です。
以上です。
○吉原委員 続いて、同じく弁護士会の意見書において、子どもの性は成長発達過程にあり、傷つきやすい、そして、心身の成長のバランスがとれて性の自己決定ができる年齢に達し、不当な侵害に対しみずから防御ができるようになるまで守られる必要がある、こういうふうに書いてあるわけでございます。
これは、もう皆さん、どの方もみんな同感できる文言だろうと私は理解をしているわけでございますし、青少年健全育成条例のこれまでの不健全図書指定制度、そして、今回、議論になっております追加される基準は、まさにこの必要にこたえるものであるというふうに私は受けとめているわけでございます。
次に、東京都や業界、事業者が青少年の健全な育成のために行ってきた青少年への販売規制制度、それを踏まえて追加される今回の規定については、都民や青少年の権利に最大限配慮し、可能な限り限定的なものになっていること。そもそも、青少年への販売を制限するだけであって、作品をかくことも出版することも自由である。このことについては、これまで、委員会であっても東京側の説明であっても、明らかになっているというふうに私は理解をしているわけであります。
このような販売規制が表現の自由を侵すものである、こうご主張されるとするならば、もしそういうことであるとするならば、どこにそういう根拠があるのか、おわかりになる範囲で教えていただきたいと思います。
○田中参考人 やや総論的質問だと思いますんで、総論的な言論からお答えさせていただきます。
言論、表現の自由の中核が、表現をし発表することである、このことは私も異論はありません。
しかしながら、言論、表現の自由というものは、出版したものが正しく人々に伝えられること、逆に人々の側からいえばその出版物に自由にアクセスができるということが相まって、初めて全きのものになります。
極端ないい方をすれば、かいてもいいけれども配っちゃいけないよという表現があるとすれば、意味を持ちません。考えてもいいけれども発表しちゃいけない思想信条の自由に、意味があるのかという問題と同じです。
では、青少年は、その出版物あるいは言論、表現にアクセスする権利の主体ではないのかと。確かに、本当に小さい三歳、五歳の子どもに権利主体性を考える、これは無理だと思います。だから、家庭の中に卑わいな文書を持ち込んで、本当にいたいけな子どもに見せていいかといったら、これは本質的に親の自覚にゆだねるしかない。そのための説得や運動が必要だと思います。
青少年条例が問題にしているのは、少なくとも一定の自己判断能力を持っている青少年、しかしその青少年が成人に達していないがゆえに未熟な部分を持っていて誘導されてしまう、ここをどうするかという議論だったはずです。そうであるとするならば、その青少年から遮断すべきは、極めて限定されたもの、つまりその青少年の自主的判断能力にゆだねることができない、犯罪を誘発する、自殺させてしまうというものは、確かに遮断すべきだと思います。
今回の規制はそういうものから広範に広がってしまっておりまして、最低限の規制だと、あるいは、それは言論、表現の自由に抵触しないんだという考え方には、残念ながら私としては同意ができない、これがお答えであります。
以上です。
○吉原委員 その意見書も含めまして、いろいろな意見等を読ませていただいたわけでありますけれども、その中にも、規定があいまいだというところもあったと思いますし、乱用のおそれがある、こういうお話もあったと思います。過剰な自主規制が行われるおそれがある、こういうお話もありました。そしてまた、子どもの健全な成長を阻害する科学的な証明がないとの意見がなされた場合もあったと思います。
こういったものの規制については、岐阜県の同種条例に関する最高裁の判例の補足意見の中で、厳密な科学的証明がなければ違憲であるとはいえないと示されていると私も聞いているわけでございます。
一方で、現実に、子どもに対する強姦や近親相姦をさも当たり前のように描いた漫画もあるわけでございまして、そういったものを初めとして、子どもの性交が全般にわたって描かれているような漫画を子どもがだれにもとめられずに買うことができるような現状が、今、あると思っているわけでございますけれども、そういった漫画を見て、大人がこういった種の漫画を子どもに見せたくないとか、見せるべきでないというふうに、多くの皆さんは思っているんだろうと私は思うんですね、現実の中では。
こういった現状の中にあって、そもそも、漫画が子どもに悪影響を与えるという科学的証明がなければ、何の対策もとってはならないのだろうか。判断を先送りすべきであるというようなことは、私は、大人としても、今の社会の状況の中にあっても、やっぱり無責任さがそこに残るのではないかなというような思いがしているわけでございますけれども、先生はいかようにお考えでございましょうか。
○田中参考人 お答えします。
先ほどの岐阜県条例についての最高裁判決は、少なくとも今回提案されているような広範な規制に関するものではなく、たしか、性的感情を刺激する表現について指定をしたものについての判例のはずです。かつ、包括指定であれ個別指定であれ、性的感情の刺激というのは性的非行を立法事実にしていますから、実際の運用は相当限定せざるを得ない、これが法の基本なんです。
そうすると、限定された立法事実であっても、例えば性的感情を刺激する表現を見たらその子は必ず性的非行を起こすと、この蓋然性が立証できるかといわれたら、確かに立証できないはずなんです。その場合に、それが立証できなくても規制することは違憲ではない、こう考えたのが岐阜県条例です。
それは、ですから、今までの青少年条例の指定についてはそのとおり当てはまるかもしれません。しかし、今回の抽象的な基準による指定の拡大については、まず当てはまらないものと私は考えています。
これは繰り返しになるんですが、多くの方々がそのようなものを子どもに触れさせるべきではないというふうに考えておられるのは、ひょっとするとそうかもしれません。しかしながら、では、触れさせるべきでなければ、それを法によって遮断して、子どものアクセス権を制約して本当にいいのかという問題になると、多くの大人が、相当の距離があるはずです。
例えば、犯罪や戦争についての描写については大変残虐である、よって、これについては子どもに見せたくないと思われる親が多いかもしれない。しかし、子どもが生育していけば、十八歳にならなくても、例えば犯罪問題やあるいは戦争の問題に関心を持ってみずからそれにアクセスするかもしれない。それは、その青少年の成長過程の問題として明らかに有害といえるもの以外は、尊重すべきではないか。これが、東京都の青少協が何度も答申に書かれた性的自己決定能力の育成尊重という理念ではないかと思います。やはり今回もその理念に立って考えるべきというのが私の見解です。
以上です。
○大松委員 本日は、お忙しいところ、貴重なご意見をいただきまして本当にありがとうございます。
冒頭の陳述で、不健全図書のことについてということでございましたけれども、今回の条例改正案については児童ポルノにつきましてもございますので、児童ポルノにつきましてご所見をお伺いいたします。
児童ポルノは児童への性的虐待でありまして、犯罪であります。その児童ポルノが、またその犯罪が、今、日本でふえているわけでございまして、この児童ポルノ撲滅を目指しましてさまざまな取り組みが求められております。
このたびの青少年健全育成条例改正案では、何人も、児童ポルノをみだりに所持しない責務を有するというふうにも明記をさせていただいているわけでございますけれども、この児童ポルノの現状及び対策につきまして、ご所見をまずお伺いをさせていただきます。
○田中参考人 時間がなかったので申し上げなかったんですが、児童ポルノを規制する必要そのものは、私もあると思っています。
ただし、このこともやはり言論、表現にかかわる問題ですから、今まさにおっしゃった児童虐待に当たるという、この立法事実、立法趣旨との関係で、厳格な検証と、あるいはチェックが必要だというふうに考えています。
児童ポルノ法がつくられて三年でしたか、もうなるんですが、弁護士会も批判していますが、児童ポルノというものの要件そのものが、現行法ではなお、あいまいかつ不適切と考えざるを得ません。この点では、日弁連の意見書とその一点で同じ意見です。
まさしく、児童ポルノ規制というのは、児童虐待を許してはならない、要するに被写体とされる児童、青少年の人権、人格を侵害するから違法なんだと。よって人権立法なんです。決して、善良な風俗等を保護する治安立法、社会立法ではない。この二つを混同いたしますと、かえって人権法としての性格をあいまいにしてしまう。この点だけは、ぜひ押さえていただきたいと思います。
そういう見地からしますと、三つの定義があるんですが、その三つの定義のうちの二項と三項に、性欲を興奮させまたは刺激するものと、こう書かれています。これはどう見ても読み手側の視点から記載をしたものであって、被写体にされてしまった児童の人格の侵害と直結いたしません。また、性欲を刺激するかどうかによって、恣意的な取り締まりが起こる可能性を持つ。ここは厳格に考えるべきだと思います。
また三項については、裸体の表示、描写、その他、かなり広範でありまして、このすべてを児童ポルノとすべきかどうかについても検討すべきと。これは国会で多分議論されると思います。この点は、日弁連の意見書や前の国会で民主党が出された改正案と、私は同じ考え方になると思います。
なお、この児童ポルノ法の規制にリアルな非実在青少年も取り込んで、そして出版を規制すべきだという考え方には私は全く賛成ができません。非実在青少年に対する虐待という概念は実はあり得ない。つまり、現存する人間を考える議論と、コミックにかかれた、いかにリアルであろうと人格を持たないものとを同視することは、これまた人権法としての性格を歪曲することになるだろうと。
問題になるのは、現行法の要件を限定した上で処罰規定を設けるべきなのはそのとおりなんですが、取得しただけで犯罪とする単純所持罪を導入するかどうかが論点なんです。これについては、児童ポルノの性格からいっても、現時点では導入すべきではないと考えています。児童ポルノ法では、持てば直ちに刑事捜査権が発動される直罰となっていますし、年齢の不知をもって免責しないと、こうなっています。この状態で単純所持罪を導入すると、私生活に対する警察権の異常な拡大を引き起こす性格を持ちます。
もちろん、持つだけで犯罪にするという、そういう犯罪はあるんです。薬物犯もそうですし、銃砲刀剣もそうです。こういうものは確かに持たせてはならないし、持つことは直ちに社会的な違法行為を引き起こす可能性を持ちます。
それと、確かに被写体の子どもに対する虐待ではあるが、一度出版された出版物をただ持つだけ、持ってしまっただけで処罰化するかどうかとは、やはり質が違うものだと考えます。
また、どうやら立法例でいうと、単純所持罪を設けている諸国が多いようですが、その諸国でも、必ずしも単純所持罪によって児童ポルノ撲滅に成功しているわけではないことからいいますと、有効性にも疑念があります。その意味では、これはもう国会の議論になると思いますが、児童ポルノの規制のありようについての、今、検討が必要だと。
ただ、どうも今回の改正条例の児童ポルノ規制は、現行法を前提にし、それについての不所持責務を課すものでありまして、今まさに国会で議論されていることを置いてしまってここでつくってしまうということになりますので、これも見直すべきではないかと、こう考えているところです。
以上です。
○大松委員 青少年健全育成条例案、何人も児童ポルノをみだりに所持しない責務ということでございまして、これは、子どもの性的搾取や性的虐待、また犯罪の映像である児童ポルノがインターネット上で流通をすれば被害者が半永久的に精神的苦痛にさいなまれるという現状を少しでも改善し、被害者の苦しみを減らしたいという観点から、一人一人の自主的な取り組みをお願いをするというものでございます。
先ほどもお話がございましたけれども、国におきましても、この単純所持の禁止が今、議論の焦点になっているわけでございます。
第一回定例会の総務委員会でも、私、ご紹介させていただいたんですが、この単純所持の議論の中で、衆議院法務委員会で、参考人で日本ユニセフ協会大使のアグネス・チャンさんが意見を述べられております。
被害者の子どもたちは、今まで撮られたものは全部消してほしいんです、だから、だれかが持っているというのを思うだけで本当に毎日レイプされているというような気持ちになってしまうんです、あの写真がどうなったのか考えると恐ろしくて、中学生に上がってから私はリストカットや自殺未遂を何度も繰り返しました、ネット上に自分の写真がばらまかれていないかと、何かにとりつかれているように毎日探しています。
こうした声を紹介されながら、児童ポルノはポルノなどではなく、犯罪や虐待の現場を永久に残した心をずたずたにする残酷な凶器です、凶器を持ち続けることは許してはいけませんと、このような意見陳述がございまして、私どもも、今回の条例改正案の中の、所持しない責務を有するというのは、こうした思いの発露として、同じ考えの中で、こうしたことを提案されているものと理解をするわけでございます。
こうした議論が行われる中にありまして、先ほどもお話をいただきましたけれども、この児童ポルノ法における定義が不明確でもあるというようなご指摘でございますが、そのことによりまして、この児童ポルノ法の意義自体が否定されるべきではないというふうに考えているわけでございます。
現行の児童ポルノ法のもとにおきましても、既にこの児童ポルノの事件は、昨年、過去最高九百三十五件が検挙されまして、同じく被害児童も過去最高の四百十一人が特定されているところでございまして、現行の児童ポルノ法は着実に効果を上げているものと私は理解をしているわけでございます。
そして、今回の条例案でございますけれども、この児童ポルノ法の定義に基づいての今回の条例改正案で、児童ポルノを所持しない責務を明記して、その蔓延の抑止をお願いするわけでございますけれども、このことによって具体的にどのような支障が生じるとお考えなのか、ご所見をお伺いいたします。
○田中参考人 児童ポルノの、まさに虐待の被害者になった方の思いは大変よくわかりますし、児童ポルノ法による児童ポルノ規制そのものを否定する気は確かにございません。また、それができたことによって、それだけの摘発の実績を上げていることは大変大事だろうというふうに思います。
逆にあえていえば、単純所持罪を新設しないままでもそれだけの実績が上がり、そして、三年間ですか、実績の中で児童ポルノ法をめぐる論点もはっきりしてきたということのはずです。それを、今、国会で改正を含めて議論されているわけですから、基本的に国会の議論にゆだねるべきだと。私の見解はさっきの見解で変わりませんが--というふうに考えています。
なお、それとの関係でいいますと、児童ポルノ法は、これは実は特定の自治体、地域の中でどうすればという性格を持たない、つまり、被害者が東京都民であろうとどこの方であろうと規制しなきゃならない、そういう性格を持ちますから、本来的には法による一元管理が妥当な法制だと考えられます。
その意味では、法が議論されているときに、今、東京都が現行の児童ポルノ法をベースにした責務規定を設けられること自体が、いささか法の論議を先取りする、場合によっては誘導する、そういう方向を持ってしまうのではないかという点では懸念をしております。
もちろん、努力義務規定だけで、じゃあ直接、弊害が生ずるかという問題については多々議論があるんですが、ただ、その対象がはっきりしていないところで責務規定を多々つくることが、しからば、では問題の解決になるかといっても、その点でもかなり疑問です。その点で国会の議論に収れんすべきだというふうに考える次第です。
以上です。
○吉田委員 田中先生、法律家、弁護士の立場から、かつ青少年条例についても私など以上に深い経過をご理解されてのご発言、大変参考になり、ありがとうございました。
改めて基本的な点について何点か聞かせていただければというふうに思いますが、私たちが今回の条例改定案について考える上で、既にきょうの全体の議論を通じても基本的な問題となっておりますけれども、青少年の健全育成という、都民だれもが思う願いに対して、行政がどのようにかかわるべきなのかということはやはりしっかりと考えて対応するということが求められているというふうに思います。
先生は、弁護士として青少年健全育成条例に関心を寄せ、積極的に意見表明もされてこられました。そこで、青少年健全育成条例の本来の目的、趣旨に関して、改めて聞かせていただきたいと思います。
本条例の趣旨は、本来的には、規制をもちろん否定するものでありませんが、それは最小限のものにして、教育的見地を重視する、また、性については性的自己決定能力の育成ということを重視をしてきたのではないのかなというふうに思いますけれども、改めてそうした基本点について先生のご見解をお教えください。
○田中参考人 青少年条例ができてもう五十年近くになる、一九六四年ですね。さすがにこの六四年は私は関与はしていないんですが、物の本によれば、その時点でもかなりの反対運動があったと。つまり、その時点の背景にあったのが悪書追放運動であって、やっぱり一定の図書規制をせざるを得ないという、こういう中で登場した。その中で、言論、表現の自由との緊張が最初から問題になって登場した条例だったということを頭に押さえたいと思います。
しかし、それなりにかかわってみて、この青少年条例の基本の理念というものが、あくまで青少年の保護あるいは育成であって、しかも今でいうならば青少年の側の立場に立った健全な成長の保障であって、決して青少年規制条例じゃないんだというのが、いろいろな論点がありながらも、東京の条例が進んできた基本の経過だったと思います。
さっきちょっと触れた淫行処罰規定であるとか、それから図書の問題では、包括指定などの導入が要求されたことが何度もあります。要するに、今の条例では手ぬるいんだということでした。その都度問題にされたのが青少年の性の乱れであり、あるいはポルノコミックのはんらんでした。そのときに、ある時期までは基本的に東京都はさっきの条例の見地に立って対応してきた。
一九八八年に答申が出ていますが、第十七期青少協の答申があります。これは、淫行処罰規定を設けろという、強い、その意味では都民の要求だったと思います。これに対して二年にわたって研究をします。結果、出した結論が、淫行処罰規定を否定して、性的自己決定能力を自治体と社会と家庭と学校ではぐくむことこそが解決であるという理念でした。その当時、まだ子どもの権利条約は締結すらされていません。その意味では、子どもの側からの権利性というものがまだまだ前面に出ていない中でそうした答申を出した青少協の先進性は、東京が、さっきもいったように誇るべきものだという気がしています。
また、さらに淫行処罰が要求された九〇年代に入って、第二十二期青少協、さっき取り上げましたけれども、青少年からの聞き取りをやり、現地調査をやり、実に丁寧な議論をして、みだらという抽象的な要件はやめて、青少年を犠牲者にする買春禁止に徹しようじゃないかという答申をされた。当時、私は法律家として、この青少協の一年間にずっと並行して議事録を読み、委員の方とも懇談したことがあります。立場は違いましたが、本当に真摯にやられていた、そういう答申でした。信頼に値する議論だったと思いますし、歓迎ができました。この理念がやはり青少年条例の理念だったんです。
その東京で、図書規制についてはこれまた三度ぐらい本格的な都民からの要求もあったし、見ようによっては警察関係者が随分導入運動をやった包括指定、緊急指定、警察官の書店立入権。ついに入りませんでした。ないのは東京と、たしか長野県。これは県条例がありません。ここしかありません。その意味では、個別指定を守ったことになります。
それで、果たして、では東京都にだけとんでもなくポルノコミックがあふれて、東京都の青少年だけが、条例の規制が弱いから成育が本当にゆがめられたんだろうか。私も東京で子どもを育てていましたけれども、そんなに単純なものじゃないということを思っています。この理念を今回の問題でも尊重すべきだと。
あえていうならば、その後二十年の間に子どもの権利条約が批准されて、青少年の権利主体性は国際的にも確認されました。
また、ちょっと変ないい方をしますが、三年前、憲法改正手続法の成立に伴って、選挙年齢と成人年齢を十八歳に引き下げるということが附則三条に盛り込まれました。三年間全く検討されずに、きょう施行になるんですが、だからといって、国会で成人年齢を十八歳に引き下げるということを決定したことの意味は決して小さくない。
大きな流れは、青少年や若者の人権主体性を尊重して、自立的な成長を促す方向でいこうとしているんだと思うんです。そういう趨勢のもとで、この青少年条例の持っている理念の意味をもう一度再確認すべきではないかという気がしています。ぜひご検討をお願いします。
以上です。
○吉田委員 歴史的な経過について改めてご説明いただきましてありがとうございます。
次に、いわゆる立法事実というふうに先生からも指摘をされたことについて、改めて確認をしたいわけですけれども、一般の都民的には、立法事実という言葉を聞いてもちょっとなじみがないという面が否めないと思いまして、私もその一人なんですけれども、先生はこの点についても強調されましたが、この立法事実とはどういう概念で、なぜこうした条例等の審議において重視されなきゃならないのか。
また、今回の条例改定で、とりわけ七条二号の自主規制の拡大などに関して立法事実は極めて不明確だというお話がありましたけれども、改めてこの点についてご説明を願いたいと思います。
○田中参考人 ちょっと法というものの考え方に属しますので、簡単に押さえておきます。
法というのは、権利や利益を付与することもありますが、多くの場合、規制を加えます。そういう規制法を定立する、制定する際に、その基礎となる社会的事実、つまりこんな事実があるからこの法が必要なんだと、こう対応するものを立法事実というふうにいっています。
営業の自由であれ、言論、表現の自由であれ、規制される行為は基本的に憲法に保障された自由であり、人権なんです。その人権に規制を加える以上、その規制を加えなければこんな事態が発生するんだという具体的な問題や危険が明確になっていなきゃならない。それが立法事実であるし、この立法事実を解決するために法を定立するのが立法趣旨。これは、法務にとっては大変大事な概念だと思っております。
さっき例に出した薬物でいえば、薬物の所持を禁止するのは、所持すれば服用に直ちに結びついて、服用が直ちに有害な事態を引き起こすという関係に着目するからで、これが薬物犯の立法事実です。
青少年条例の図書規制は、悩ましい問題が確かにあるんです。さっきいいましたように、性的感情を刺激するようなひどい表現があったからといって、本当にそこからすぐに性的非行が導き出されるのかといったら論点はあります。あるんだけれども、しかし、そこを、性的感情の刺激や残虐性の助長、自殺、犯罪の誘発に限定することによって、具体的な危険の蓋然性といえないまでも、これだったら規制されてもやむを得ないだろうというふうに絞り込んでいった、これが青少年条例の図書規制の立法事実ですね。
問題は、今回の改正で、そういう具体的な危険は少なくとも明示されていないんですよ。要するに、性に関連する健全な判断能力の形成を阻害をするものはだめだと。では、どういう表現なら性に関する健全な判断能力を阻害してこんなことが起こるという、こんなことという、いわば事実や事件について具体的に明示されるわけではありません。そうすると、さっきからも議論になっているある種の科学的知見に頼るしかないんです。
こういうものを読み続けたらこういうことになってしまう、こういうゆがみが生じるよということが科学的に論証されているんであれば、それでも、法がそれを基準にして、この科学的知見をある種の立法事実、立法趣旨として規制条例をつくることはあり得ると思うんですが、それも、残念ながらというか、この条例にとっては明記されていないということになり、本件は、率直にいうと立法事実が全く明示されていない。
そうすると、立法事実を明示しないままで、言論、表現の自由の行使に当たる青少年の図書のアクセスを規制することになってしまう。これは問題ではないかと、こう考えています。
○吉田委員 それでは最後に、今度の焦点になっている、表現活動に対する抑圧あるいは萎縮をさせる問題、表現の自由との関係について改めてお伺いいたします。
先ほどからも話が出ていますが、都は質問回答集の中で、要は、十八歳以下への規制であって、つくること、見ること、出版すること、これはこれまでどおり自由です、表現の自由を侵害するものではありませんというふうに強調していますが、こうした質問回答集での都の回答について、改めて先生のご見解をお願いいたします。
○田中参考人 回答集で東京都が、出版することも大人に売ることも自由ですということ自身は結構なことですし、間違っていないんです。
ただ、さっき指摘しましたが、どうやら今回の改正では、不健全図書を反復して出版する出版社に対するある種の社会的ペナルティーもはらんでいますから、本当にこれ、自由といえるのかという問題を投げかけてしまっているということは、まず、はっきりさせた方がよろしいと思います。このまま放置すると、図書出版規制につながりかねない芽があります。
もう一つの問題は、さっきから出ている、構成要件が極めて抽象的な中での規制の導入が、立法事実や立法趣旨がはっきりしていないことと相まって、極めて萎縮効果を生みやすい性格を持っていること、これはやはり強調しておく必要があると思います。萎縮効果と、条例自身による規制による鎮圧効果とは別個の問題なんです。
ちょっとあえてほかの条例で例に出しますけれども、この改正と同時に三月議会に提出された、ネットカフェ規制条例というのがあります。これは、実は規制されることが極めてはっきりしているんです。ネットカフェは登録を要しますと。身分証明書がなかったら使えませんと。これが立法事実なんです。
この立法事実について、規制が過剰ではないかといって私は反対をしました。しましたが、萎縮の問題ではないんです。それに対して、これは一年前にさかのぼりますが、これも反対しましたが、昨年の安全・安心まちづくり条例の改正は逆なんです。繁華街でのパフォーマンスその他の行為の自粛の責務と、こういうロジックでつながります。
ところが、あの条例を読んでみても、繁華街やパフォーマンスあるいは責務の定義そのものが、実ははっきりしないんです。だから、自粛や混乱や萎縮や誤解を引き起こしかねない。現に起こしているわけです。
今回の改正は明らかに後者の側に属します。さっきからいっていますように、七条の、みだりに性的対象として肯定的に描写というのは、どうした描写が対象になるか、かき手には判然としません。八条には強姦等という限定はあるんですが、その一方では、法文を読む限り、これまでの性的感情の刺激や残虐性の助長に当たらないものというふうになりますから、これまた外延がはっきりしないんです。結局、抽象的なおそれを理由にして規制すれば、そうならざるを得ない。さっき民主党の先生が指摘されたとおりなんです。
当局が回答されているように、本当にこれで通ったら、何月かから規制の指定件数が何十件とふえると私は実は思っていません。恐らく最初は謙抑的におやりになるだろうと思います。
ところが、問題はそこにあるのではなくて、現実に権力行使がほんのわずかであっても、権力行使の可能性が広がっていて、しかもこれがどこまで広がるかわからない。外延がはっきりしない。そうなると当然、やる側の中には、いわば自粛や萎縮が生み出されざるを得ないです。
権力行使は少ないが、みんな萎縮してかかなくなった、言論、表現を慎むようになった。そのことが果たして自由濶達な言論活動が保障されている社会といえるのだろうかという問題を投げかけます。その意味では構成要件がはっきりしているネットカフェ条例よりも、実は深刻な問題をはらんだ条例と考えざるを得ないと思っています。
以上です。
○西崎委員 きょうはお越しいただきまして、ありがとうございます。
質問も、五人目になると多少重なっている部分があるかと思いますけれども、お許しいただきたいと思います。
率直にいって、先ほど宮台真司先生が、都の質問回答集は基本的に無意味だというふうにおっしゃられたんです。法理学の基本原則、憲法は立法意思がすべて、法律は条文がすべてであって、議員は改選されればかわるし、官僚答弁も附帯決議も、法解釈を拘束せずというようなお話があったんです。
今回、七条の二号とか、委員会でも解釈が非常にわかりにくいというお話の中で、東京都側はいろいろな答弁、議会でのやりとり--あるいはインターネットに出されているこの質問回答集というのは、例えば立法で争った場合に反映されるものか、どこまで効力を持つものなのか、その点を弁護士である田中先生に少しお話しいただければと思います。
○田中参考人 実は、法律家の目からいうと、この質問回答集というものそのものが極めて悩ましいんです。
実をいうと、青少年条例の規制は二重になっていまして、これもさっきからご紹介されているとおりで、自主的規制がまずあります。その次が指定なんです。自主的規制の主体は業界なんです。指定は当局ではなくて審議会なんです。
そうしますと、自主的規制七条をやるのも、それから指定をする八条をやるのも、この回答集を出している東京都そのものではないことになるんです。そうすると、みずから運用に当たらない人が、この条文はこう解釈できますよという説明をされているに、実は、すぎないことになります。
じゃあ、果たしてその解釈に、業界やあるいは審議会は拘束されるんだろうかと。もし拘束されてしまうといってしまいますと、審議会に付託することの意味が本当はなくなってしまうんです。という意味では、この回答集そのものの持っている法的な意味が極めてあいまいであるといわざるを得ない。逆にいいますと、あの法文の構造を持っていながら、こういう回答集で説明をせざるを得ないということが、さっきから申し上げています、今回の改正の持っている問題と混乱の結果ではないのかという気がします。
じゃあ、仮にこうなります、どこかの審査会が、いや、こんなものは東京都が勝手にいったので、私はあの条文からこう解釈するよといって物すごい広い指定をしました、それに対して、例えば私のところにも依頼があって争いましたと、争ったときに、この回答集に書いていないことをやったから違法だという判決がとれるかといったら、容易ではないはずです。
その場合には、さっきからいっている立法事実と立法趣旨からこう拘束されているんだということまで論証できますと、ある種の立法趣旨の拘束力は認められているんです。ところが、ややこしいことに、さっきからいっているように、この改正案は立法趣旨と立法事実そのものがはっきりしないで、どうにでも広がる性格を持っているわけですから、これはいわば、出している側が、うちはこう考えていますよというふうにいったこととしか、恐らく裁判所は理解しないだろうと。
そうすると、審査会のこの指定は、別にこの条例を逸脱したものではないので、条例との関係では適法である。ただし、恐らく私は憲法違反を主張しますから憲法違反の判決はとれるかもしれませんが、条例との関係では逸脱ではないと、こうならざるを得ない。その意味では、宮台先生がおっしゃったのかな、法的には無意味ですよというのは私も同じ意見です。
○西崎委員 今回、東京弁護士会の方たちがいろいろコメントを出されています。私も同意するところは幾つもあるんですが、先ほど神野委員でしたか、保護者の責務ということで携帯電話に関して触れられていましたけれども、保護者の責務というのがあらゆるところにちりばめられているということと、今回は、児童ポルノに関して、改正案十八条の六の五、一項で保護者の責務ということをいっているんですけれども、東京弁護士会の意見の中では、定義が極めてあいまいで不明確であって、規制側の恣意的な運用を招くおそれがあるということと、また、子どもの権利条約が定めるとおり、子どもの養育及び発達に第一義的責任を負うのは親、法定保護者であるというふうにあり、子どもの最善の利益が基本的な関心事項とされている--これは子どもの権利条約十八条--というふうに導かれています。私もまさにそう思うんですが、先ほどもありましたが、今回、家庭教育ということがきょうも委員会の中で非常に議論になったわけですが、公権力の介入で、不当なものであって到底容認できないということがここにコメントされていて、さらにあらゆるところに調査のことが書かれているんですが、具体的に調査方法には触れていないということで、大変いろいろ心配される点が多くあるのではないかと思うんですが、この点についてはいかがでしょうか。
○田中参考人 児童ポルノそれからインターネット規制に共通する問題なんですが、事業者もそうなんですが、とりわけ保護者に対する何重もの責務を課すというのが今回の特徴だと思います。
なお、あえていいますと、さっきちょっと触れましたが、青少年条例の変容が仮に二〇〇四年、二〇〇五年の改正で始まったとすれば、そのころから、例えば外出させない責務であるとか、親に対するいろんな責務を導入したのが、青少年条例の変容という側面を持っていまして、それがさらに拡大していったということかと思います。
保護者に責任はあると思うんです、確かに。保護者に一切責任はないよという立場に私は立つ気はありません。したがって、問題を起こした子どもとの関係でいえば、その被害者に責任を負わねばならないいろいろなことがあります。我々もそれは関与しています。
しかし、そのことと、法規が責務としてあの記述をし、そして直接その責任を果たさなかったから--責務ですから別に罰則はないんです。罰則はないんだけれども、行政的な手だてがいろいろできるという形に持っていくことが、本当に家庭の問題や教育関係の問題の正しい解決になるんだろうかということは問い直される必要があります。
率直にいって、今回の、特にインターネット・携帯規制については、ややエキセントリックではないかという気すらします。有害行為をした青少年の保護者に対して、都が直接に指導と助言をすると。そして、その指導助言をするために、保護者に対する資料提出要求や調査の権限を認める。確かに少年法その他、お子さんの犯罪があります。それとの関係で、親に責任が問われる場合がありますし、場合によっては、私たちの世界でいえば、子どものけんかに親が民事責任を負わねばならない場合もあります。
そういう親の責任そのものは法的にあるんですが、子どもが何かの不法行為、非違行為をやったからといって、それについて保護者に対して調査権を認め、行政が指導助言というか、ここで介入できると。さすがにこの構造を持ったものは、ほとんど私は知りません。
その意味では、悪意でつくられたとまではいう気はありませんけれども、妥当な行政のかかわり方からは、かなりかけ離れた側面を持っていて、これが本当に乱用されれば、家庭生活に行政が過度に入ってくることになりますし、下手に青少年に対して宣伝でもされますと、いわばインターネットの使用について、親のいわば子どもに対する監視の責務が決まりましたよと、こういう話になりかねません。
そのことを青少年と親の間に割り込ませることが、本当に、ただですら今きしみが入っているといわれている家庭生活に対して、よりいい方向に行くかという問題が問われるのではないかと思います。違う方向を考えるべきだというのが私の見解です。
以上です。
○西崎委員 先ほど、この条例は治安条例ではないかというお話を田中先生がされたと思うんですけれども、これは東京弁護士会の文章なんですが、本条例は青少年の性に関する健全な判断能力、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるものを排除することを目的としているが、大人による性的搾取、性的虐待から子どもの権利を守るという視点がこの条例からはうかがえないというふうに書かれているんですが、子どもを守るということでは皆さん一致する考えだと思います。
じゃ、どのように守っていったらいいのかということで、やはり一人一人の子どもが自己決定権を持つようになるためには、前提として子どもが尊重される社会でなければならないというふうに考えて、東京弁護士会の方も最後に、やはり東京都に子ども権利条例が必要ではないかというふうに述べているんですが、この点についてはどのようにお考えでしょうか。
○田中参考人 私は子ども問題そのものの専門家とまではいえないところがありますので、やや法律家的な側面からの意見になりますが、仮に今の子どもをめぐる状況の中で子どもに関する条例や法規をつくっていくとすれば、一つは、あくまで子どもの権利主体性、子どもの成育を保障するという立場からの法の形成が必要だろうという意味では、東京弁護士会は私自身も会員でありますが、その意見書には関与していませんけれども、考え方を共通にします。
青少年条例は本来、規制的要素はありましたけれども、理念としてはそういうことで出発したんだと思います。そして青少年条例を正しく発展させていけば--青少年条例の適用、青少年行政、それだけではもちろん足りないのであって、地域社会や業界や、あるいは家庭、父母も巻き込んだある種の運動も要るでしょう、そういうものの中で解決していく、その指針たり得たという気がします。
ただ率直にいって、繰り返しになりますが、この五、六年の青少年条例の改変はそういうものにとどまらず、いわば青少年というのが、ほうっておくと何をするかわからない、ですから枠づけしなければならないものなんだという要素が強く表に出過ぎている。それを、私は治安条例的要素が強まったというふうに指摘したんだと思います。
さっき申し上げた、深夜に外出をすれば必ず非行に走るのではないか。私自身だって高校生のころ十一時以降に外出したことがございます。皆さんだってあると思うんです。あるいは、持っている参考書を古本屋に売るということが本当に万引きを誘発するというふうに考えるか、という問題かと思います。
基本はやはり、青少年に対する信頼と社会の成育の保障という立場で、青少年条例をもう一度考え直すべきですし、そして私は、東弁の意見と同じで、そういうことの基本条例のような法規が今この社会、時代には定立されるべきではないかと考えています。
以上です。
○小磯委員長 ほかに発言がなければ、お諮りいたします。
田中参考人からの意見聴取はこれをもって終了いたしたいと思いますが、これにご異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小磯委員長 異議なしと認め、田中参考人からの意見聴取は終了いたしました。
田中さん、本日は貴重なご意見、まことにありがとうございました。心より厚く御礼申し上げます。
○小磯委員長 これより前田雅英参考人からの意見聴取を行います。
ご紹介いたします。首都大学東京法科大学院教授の前田雅英さんです。
本日はご多忙のところ委員会にご出席いただきまして、まことにありがとうございます。委員会を代表いたしまして御礼申し上げます。
初めに、前田参考人のご意見をお伺いします。
なお、前田参考人には、ご着席のままご発言していただきたいと思います。ご了承願います。
それではよろしくお願いいたします。
○前田参考人 先生方のお手元にパワーポイントのレジュメを配っていただいているということですね。私、もう三十六年、都の職員というか、都立大学の職員として、法律の研究とか、それから東京都の審議会で青少年保護のことなんかにも携わり、それは三十五年ではないんですけれども、きょうは、青少年の健全な育成に関する条例の一部--これちょっと誤植があって申しわけないんですが、改正することに関して意見を述べさせていただきます。
まず第一点、そこに、なぜ誤解が生じたのかという書き方をしているんですけれども、我々法律家として見て、確かに不明確であいまいなところとかがあって、議論になるところが全くないとは思わなかったんですが、これだけ議論が出てくるということは意外だったんです。
ほかの法令とか、後でもちょっとお話しする時間、時間の関係で無理かもしれませんけれども、概念が不明確であるとか、どこまで処罰するかわからないというような問題がいっぱいあるわけですけれども、それらは全部、最終的に、法律的には合憲というか、法的には問題ない。下に出ているやつですけれども。
ただ、やっぱりこれだけ議論が紛糾するには、それなりの理由があるんだと思うんです。ポイントはやはり規制という言葉の不明確性ということだと思います。今回の条例は、その表現行為をもちろん処罰するわけではないですね。それから漫画の販売を禁止するものでもない。
基本的に柱の部分というのは、要するに指定に基づく区分陳列を義務づけるだけのものなんです。いや、それだって十分規制として困るんだというのはわかるんですけれども、売っただけで処罰するとか売ることを禁ずるという規制から比べますと、非常にある意味では緩やかなもので、それに対して、ですから要件というものが動いてくる。
従来からの規制反対論で、そこに書いてありますけれども、表現活動に関して、わいせつ物の規制というのは--規制に関してずうっと長い歴史、表現の自由を侵すんじゃないかとかという議論の歴史があるわけですけれども、そのときに欧米なんかを例に引きながら、日本の裁判所の基準というのは、家庭の団らんの場で見て顔をしかめなくて済むようなものでなければいけないと。
結局、最高裁の判決の中にもあるんですけれども、みんなが、おばあさんから子どもまでそろって見ていいものという議論をしてきて、かなり厳しいわいせつ概念を持ってきたんですけれども、それでは表現の自由からいって狭過ぎるんじゃないかみたいな議論が出てくる。その中で出てくるのがゾーニング論。要するにこの条例もそうなんですけれども、大人は見ていいけれども、子どもが見られない場所に置いてほしいねと。欧米なんかでは性表現は自由だ自由だといいますけれども、子どもが自由に見られるものというのは非常に限られています。見ようと思ったって見られない。
今回のものはそれを目指したものなんだと思うんですが、確かに、ぱっと、今まで許されたものが規制されるということになると、非常に、ここまで規制されるんじゃないかという気持ちになるのはよくわかる。ただ、今回のものは、かいてはいけないとか売ってはいけないということじゃなくて、この場で置いてくださいよということなんです。そこのボタンのかけ違いみたいなものが一つあると思うんです。
それともう一つ、二番目の、児童ポルノ法との関係ということもそうなんですけれども、ややボタンのかけ違いになっちゃった。これは、児童ポルノ法に漫画を含める改正をしろとかなんとかという提案は全くしていないんです、この条例案に関して。もちろん条例と法の関係がございますから、国で、法律で、一つ上位といういい方がいいかどうかは別ですけれども、そちらで決める問題だと。
ただ、青少協の議論の中では、いろいろPTAの代表なんかの方から見ても、こんな漫画を世の中にいっぱい出しておくことはおぞましいんだというようなご意見があったことは事実です。意見として、大人の社会でもこれを何とかもうちょっと規制できないかという議論があったことは事実で、そういうことを答申の中で、もちろん強い意見としてございましたから、書かないわけにはいかないんだけれども、ただその後、出版の関係の方のご意見とかなんかをお聞きして、パブコメなんかを踏まえ、やはり今回の条例案としてはゾーニングの範囲に限ると。つまり、もともとこの条例の目的が青少年の健全育成という大きな枠内でしかあり得ないんです。児童ポルノ法とは、法益とか、全く違うということなんだと思います。
次に三番目、都民はゾーニングに反対なのかということなんですけれども、委員の先生方もごらんになったと思いますけれども、漫画の中にかなりひどいものがあると。青少協の議論を踏まえていいますと、その意味でそういう漫画を、いや禁止しろとはいわない、せめて子どもが見にくい場所に置くようなことはできないのかという提案なんです。ただ、考えてみますと、それは我々の側というかつくった側の議論で、かいていらっしゃる方の側から見たら、じゃあ、非常におぞましいものというのはわかるけれども、その限界のところのグレーゾーンはどうするんですかみたいなところがあるというのもわかります。ただ、条文の読み方--もう時間がないですからあれですけれども、そういうものが、今までの規制からいって、入ってきてしまうかというと、やはりちゃんと出版の団体の方なんかのご意見も聞きながら、審議会をつくって、そしてゾーニングをしてこられたんだと思います。指定の認定もきっちりやっていらっしゃる。
もちろん不安感を持たれるというのはわかるんだけれども、私は、そこは今までの--漫画のゾーニングというのは昔からやっているわけですしね、もともと。そこは信頼して、やはりお互いが協力して信頼関係を持って、都民のためにいかにいい制度をつくっていくかという方向で考えていただけるのではないかと思っています。
ただ、非常に厳しい現実としては、やっぱりゾーニングをすれば、少しではありますけれども売り上げは減少するんじゃないかと。この種の漫画の売り上げは減るんじゃないかと。売りやすい場所から消えるんじゃないかと。これは否定できないです。そこのところのマイナスをどう考えるかという問題が、一番シリアスな問題なんだと思います。
そこのところは、やっぱり都議会として、まさに利益調整をする場ですので、この程度のものをどうバランスをとるかというご判断をいただかざるを得ない。都庁の側としては、そういう懸念が、ないとはいわない、もちろんあるとおっしゃっているわけではないと思うんですが、この程度のゾーニングのところでやるのが合理的なんだというご判断をされて、我々から見ても、それはそれほど問題のあるものではないというふうに考えています。
あと、明確性の理論とかをそこに用意したんですが、私は法律屋ですので、どこまでが明確かというような話をしようと思ったんですが、これはみんな処罰するときの基準なんです。
一番厳しい規制である処罰のところでも、例えば交通秩序を維持しなければ処罰するよとか、淫行処罰するよとか、公衆に不安または恐怖を覚えさせるような蝟集。これは法律の議論といっても、まだ言葉が足りないのであれですけれども、かなり不明確なものでも条例として入れていかざるを得ない、そういう形でバランスをとらざるを得ない。日本語ですのでどうしたって不明確なものは入るので、どこまでがトレラブルかという判断なんだと思います。
一番もめた広島の条例なんかも、最高裁でも意見が分かれたわけだけれども、十九年に、明確性はあるということなんです。ただ、それは、ちょっとミスリードしてはいけないのでここで切っておきますけれども、処罰するかどうかのために、どこまで明確でなければいけないかという議論なんです。
そこの次のページそれから次の次のページで、今度の条例の年齢、いわゆる非実在青少年の定義のところが出てくるわけですけれども、この非実在青少年の表現について、いろいろご意見はあり得ると思います。ただ、はっきりしているのは、言葉としてなじみにくいとか、わかりにくいということはあるかもしれませんけれども、この言葉があることによって、どこまで規制されるかわからなくて執筆活動がそんなに萎縮してしまうか、というような種類の概念というよりは、何となく日本語としてはなじみにくいということなんだと思います。
この言葉についてご議論があって、議員の皆様方で修正した方がいいというようなご議論があるとすれば、やっぱりいい言葉があれば置きかえるということはあり得ると思いますが、ただ一番後ろについていますけれども、不正アクセスの条文なんかも、ぱっと読んで、これが何だかわかる人って余りいないと思うんです。法律でも条例でも、素人が読んで、すっとわかるような、すっと腑に落ちるような文章でできているかというと、そうではないんです。
もちろんわかりやすいものが望ましいということはそのとおりだと思いますけれども、私は、非実在青少年という言葉をこのまま使うことがそんなに不当なことであるというふうには考えない。ただ、ご意見があって、修正されるかどうかというのはご判断だと思います。
もう時間的にお許しいただいたのを過ぎているかもしれないのであれですけれども、最後に、科学的根拠が必要だという議論がよくある。これは、東京都でいろいろな条例を今までやってきた中でもよく出てくるし、国のレベルでもそうなんですけれども、この条例は刑罰を科すためのものではありませんので、処罰をする、刑罰を科すには、結果、これだけ効果があるということがないと、保護法益を守れるという意味がないとつくってはいけないという議論があるかもしれませんけれども、その意味ではちょっと射程がずれているということが一つ。いろんな議論の中で、刑罰を科すにしろ規制するにしろ、効果が全部わかっていてやるということはないです、そんなには。刑罰が犯罪抑止の効果があるかどうか、例えば死刑に効果があるかどうかといったって、これは実証なんてないです。両論あるわけです。
幼児ポルノが何だとかという議論、今回のとはちょっとずれるわけですけれども、これがどれだけ効果があって、入れれば減るか減らないかみたいな、因果性があるかどうかというような議論がありますけれども、これはどちらともいえる。どちらともいえるときに、証明がないから規制しないという結論になるというのは間違いだと思います。
そうすると、入れなかったことによって被害が生じたことの責任はだれがとるか。効果がないのに入れたことによって生ずるマイナスはだれがとるか。同じだと思います。同じというか、そのバランスをどう見るか。
ただ、一つだけ、ずっと長年この問題を議論していていえることは、表現は最大限、評価しなければいけないんですが、少なくとも、児童の中の特に幼児みたいなものを対象にした漫画で、それが性交を喜んでいる、快感を感じているみたいな漫画というのは、どこの国でも、それが性的な認識を誤らせる意味でマイナスの因果性を持っているという議論は強いです。ただ、ほかのところで、完全な客観的な実証がなされているわけではない。
ただ少なくとも、今回のようなゾーニングに関して、何らかの科学的な根拠がなければ規制を一切できないということにはならないというふうに考えています。
ちょっと時間を超過して申しわけございません。
○小磯委員長 ありがとうございました。前田参考人の発言は終わりました。
次に、前田参考人に対する質疑を行います。
なお、前田参考人に申し上げます。答弁する際は、手を挙げて、委員長の許可を得てから発言していただきますよう、お願いいたします。
それでは発言を願います。
○淺野委員 前田先生におかれましては、お忙しいところ、本日はお越しいただきまして、本当にありがとうございます。また、青少年協議会の部会長としてもお務めいただいたことに対しても敬意を表したいと思います。
早速ですが、時間もございませんので、幾つか絞って質問させていただきたいと思います。
まず第一に、きょうのご意見の中でもございました、さまざまな誤解というか混乱を招いているということの中に、定例会の委員会が始まる前の、著名な漫画家さんたちの記者会見による反対行動というのが一つの要因でもあったと私は思っているわけでありますけれども、この協議会の中で、インターネットや携帯事業者さん等々、あるいは出版の関係では出版社、流通、それから販売といった団体が所属している出版倫理協議会、そういったところからのヒアリングを行っているということで、かなり綿密なヒアリングというのをしていらしていたということはあるんですが、その中に、漫画家集団の方々の意見をどのような形かにして聞くことがあったかどうかということ。
私としては、一応、議事録を読んだ限りでは、そのような事実はなかったように思っておりますけれども、そこについて、もしできれば、かなり過度な反対も想像できたということでございますので、やった方がよかったのではないかなと思うんですけれども、その辺のご見解をお知らせいただければと思いますが。
○前田参考人 それは不明を恥じなければいけないと思うんですけれども、おっしゃるとおりなんだと思うんです。
ただ、我々としては、今までずうっといろいろな青少年に対する規制なんかをやる中で、出版倫理の団体さんとか、ずうっとやってこられた方、そういう代表にはきちんと来ていただいてやっていると。そういう方を、出版を代表するとか表現活動を代表する方として扱って、時間の関係ということはいいわけになっちゃうわけですけれども、決して排除するというような意図は全くなかったんです。
その当時に、一番、漫画がそんなに強く問題になるだろうと、漫画家の執筆の方だけを選んで議論しなければいけないということをそう強く感じなかったと。ただ、出版の代表の方、漫画家の方も含めての、そういうものに目配りをしていらっしゃる方を呼んでいることは間違いないと思っていたんです。あとパブコメもやりましたし。
何より重要なのは、ですから、青少協の議論と、最後の今度の条例案なんかを見ていただければおわかりだと思うんですけれども、そういう方のご意見を決して踏まえていないわけではなくて、やはり、どういう部分の発言にどういうきつい反応があるかというのはもちろん考えているわけです。で、こういう形に整理させていただいたと。
もちろん事務局は、漫画家の方々のご意見も十分拾えるように努力はしてくださった。ただ私としては、それは本当におわびしなければいけないのですが、不明を本当に反省しております。
○淺野委員 別に進め方が悪かったという話ではございませんので、謝る必要はないと思いますが、一方で、これまでの議事録それからこの答申を見る限りで、先ほどのお話の中にもありました児童ポルノ法との関係におきまして、まずこの答申の中に、強い意見があったからということで載せざるを得なかったということはありますが、政府及び国会の迅速な取り組み、漫画やアニメといったものを少なくとも何らかの規制は行う必要があるということは訴えていかなければいけないということが入っていて、また、これまで性的な強い描写があった場合におきましては表示図書あるいは指定図書といった区分をするということに対して、今回の非実在青少年というところというのは、実は性的な表現の仕方ではなくて、表現されているものの年齢を基準に入れてきたということが非常に反応を大きくしているんじゃないかと思うんです。この辺についても、児童ポルノ法との関連におきまして、ご見解があればご意見を伺いたいと思うんですけれども。
○前田参考人 児童ポルノ法は、ご承知のように、国会でも、同じ政党の中でもいろいろな議論がある。激しく揺れ動いたんです。また、これからも動きがあると思います。
ただ、先ほど申し上げましたように、基本的に今回の条例は、国の法律をどうこうということではありません。答申の中で触れたのは、やはり先生ご指摘のとおり、強い意見があったと。ご参加いただいて、それを盛り込んだ答申をつくるのが我々の仕事であって、こういう意見もあったということを書かせていただいたということです。
あと、今までわいせつ性ということだけをやってきたんですが、年齢の視点が入った。それはそのとおりなんですが、それはなぜかといえば、集まっていただいた委員の中で、それから現実に事務局側の立場として情報を集めた中で、やっぱり低年齢のものに関しての何らかの対応をしなければいけないのではないか、そういう事実が見つかってきたと。ですから、それに対応してやったということ以上の何物でもないんです。
○淺野委員 今のお話を伺って、それは誤解なのか混乱なのか。ただ、少なくとも、そういった部分がたまたま答申に載っていたということと、あるいは年齢制限という、年齢での基準が入ってきたということが重なってさまざまな憶測を生んでいるということは、事実としてあるんじゃないかなと私個人は思っているわけであります。
ちょっと大きな話で恐縮なんですけれども、今回の大もととして、青少年の性に関する健全な判断能力の形成ということが議事録等にも出てまいります。
判断能力の形成を阻害するものを排除しようとか、どうにか見せないようにしようというような議論がたくさん出てくるんですけれども、ここでちょっと大もとに返って、青少年の性に関する健全な判断能力を形成するために、逆に望ましいものというか、そういったものはどのようにお考えかということもお知らせいただければと思いますが。
○前田参考人 健全な能力を育成するものがどういうものかというのは、性教育はいろいろなお立場があって、いろいろな考え方があると思うんです。ただ、ほぼ一致するのは、やっぱり先ほど申し上げたような誤った男女観で、女性というのはいじめられれば喜ぶものだとか、無理にやられれば喜ぶものだみたいなものを排除していくということが重要だと。
それから、やっぱりPTAなんかの方も入っていらっしゃいますから、幼稚園児が性的なことをするということが世の中にいっぱい出るようなことは好ましくないんだと。小学生もある意味ではそうかもしれません。そういうものを排除すると。
理論的にこういう基準でこうだということではなくて、やっぱり、都民の代表としてある程度有識者が集まって、この程度のものはやっぱり好ましくないから何らかの手を打たなければいけないと。手の打ち方としては最終的には、案としてはゾーニングということでやっていただいたということなんです。
大上段に、健全な性の感覚を育成するのにどういうふうにしたらいいかというようなことを正面からとらえて議論を深めたというわけではないと。ただ、少なくとも、これはおかしいだろうということについて何かしなければいけないという出発点だということです。
○淺野委員 まさにそういった分野におきましては、多種多様な価値観も認めながら、各家庭ごとの考え方というのも考えながらということだと思うんですけれども、それがぜひ成人等にも広がっていくようにしていかなければいけない。
また、より深い理解を求めるためには、私としては文章のところもいろいろ考えなければいけないところがあると思います。
先ほどのお話の中にもありました非実在青少年の文に対するところでございますけれども、私も説明を受けていて初めて知ったことでございますが、これには、いわゆるアダルトビデオ等で出てくる成人、実年齢は成人ですけれども、例えばセーラー服を着ていたりとかという女優さんが女子高生に扮してさまざまな性的な行為を行うといったものは入るんですかという話をしたら、これは入らないんだと、あくまで創作物だけですという話がございました。それはどこでわかるのかと聞いたら、「もの」という一言が漢字か平仮名かという違いが--これは法律用語なんですれけども、という話がございました。
もちろん、法律用語の専門家でいらっしゃるのでそんなことをお伺いするつもりはないんですが、そういったちょっとわかりづらい文章というところが多々あって、そこが混乱を招いている中で、この協議会の会長でもあります石原慎太郎都知事も、わかりづらかったら文章を変えたらいいじゃないかというようなことを記者会見でおっしゃっているということが報道でございました。
部会長をされていた前田先生のご意見として、仮にわかりづらい、混乱を招くということが改善できるような形があれば、この条例案もむしろ改正していってもいいんじゃないかという意見があるかどうかということについて、お知らせいただければと思います。
○前田参考人 先ほど申し上げたんですけれども、議論があれば、変えられるというのは、もちろんいいと思います。ただ、この条文のことに関しては部会長という意味では全く関与しておりませんので、私は横から見て意見を述べさせていただくということですけれども、私はこれを変える必要はないと考えています。
明確なものにしていくための手段として、法律の世界ではいろいろなものがあって、ご議論いただいて議事録にきっちり書いていくということも非常に大事なんですが、あと具体的な運用として、ガイドラインとして、こういうものと、こういうものと、こういうものはいいですよと。そうすると、今度それを一歩広げようというときには業界の方と話し合って、これを一歩広げるのは広いじゃないか、広くないじゃないかと、押し合いへし合いしながら動かしていく。その中に都民の常識を入れ込んでいくというやり方は、十分できると思うんです。
この言葉がなじみがないというのはおっしゃるとおりだけれども、これをまたいじくることで時間をかけるより、早くこれを定着させ、動かして、漫画家の方々の不満にもならないような、そして業界の方にも納得いただけるような、ガイドラインといいますか現実的なラインをつくっていくということが、一番得策だと私は思っております。
○淺野委員 まさに今のご意見、議論の中で変えていく、あるいは、とはいっても、中身は、ご本人としては変える必要はないと思っていますというご意見でした。
今のお話もあったとおり、確かに漫画家あるいはそういった方々の意見を交えながらやっていくということが、これから先、必要になってくるんだろうと。私としては、これから先も、まだ伺っていない漫画家さんたちの団体というか漫画家の方々、あるいはそういったほかの団体の方々もいらっしゃると思いますので、より一層、もう少しさまざまな方の意見を聞いて、議論を深めていった方がいいのではないかということを申し上げておきまして、私の質問を終わりにしたいと思います。
○田中委員 きょうはお忙しい中、ありがとうございました。法律の専門家のお立場から、逆に、わかりやすくご説明をいただき、まことにありがとうございました。
何点か質問をさせていただきますが、今回の条例改正案、これはもう、きょうここにいる全員が共有している認識だと思いますけれども、いわゆる青少年の健全な育成を図るための環境整備のための条例改正であることは、全員理解していると思います。これはまさにこの条例の本質だと思っておりますが、今回、提案された以降のさまざまな議論の過程の中で、表現の自由の規制につながってしまうのではないかとか、あるいは行き過ぎた規制につながるのではないかといったさまざまな議論、意見も出ましたけれども、それらは誤解に基づく反対論であったということから、議論を通じて、多くの方々が今日ではもう理解をされているものという認識を私は持っております。
そのような状況のもとで、条例改正の本質ではなくて、そのごくごく一部の、いわゆる表現が不明確ではないかとか、あるいは限定的な、ほとんど可能性もないようなことを殊さら大きく誇張して、いわゆる木を見て森を見ないような、そんな議論が一部あるような受けとめ方を私はしております。
そういうことも踏まえながらも、前田先生におかれましては、これまで青少年問題協議会のメンバーとして、現在の条例に基づくいわゆる不健全図書類の審査を初め、いわゆる健全育成のためのご尽力をこれまでもされてきていただいております。
これも今までの意見、議論も出てきているところなんですが、今回の条例改正によって、冒頭申し上げた条例の本質をゆがめてしまって、恣意的にあるいは意図的に今回の条例が運用されてしまう、そんなことを不安視する声も一部ありますけれども、実際にこれまで青少年問題協議会の中で携わってこられた前田先生から、そういった恣意的、意図的な、いわゆる悪用されるような可能性あるいはそういった余地があるものなのかどうか、その辺をお聞かせいただきたいと思います。
○前田参考人 法律は、どんなに正確に、厳格につくっても、悪用しようとすればできるんだと思います。つくるところで、ただ最大限、悪用されないような仕組みをつくっておくということも大事だと思います。
ただ、先ほどちらっと、もう時間がなくて申し上げなかったんですが、ほかの条例なんかとバランスをとってみたときに、今回のものが特にほかのものに比べて悪用されやすいような不明確な要素を含んでいるかというと、そんなことは決してないと。それは申し上げられると思うんです。
だからといって、悪用されないようにいろいろご議論いただいた方々のものというのは決してむだではなくて、ここで議論したことが、これからの運用の中に、議事録として残っているものや何かが投影されて、やはり、それからこの基準の具体的にガイドラインをつくる中にも生きていくと思うんです。もちろん、ここでいった議論が永遠に拘束するわけではないんですが、やはり出発点として、それをもとに議論していっていただけると。
その意味で、これは非常に大事な問題で、一回、議論を、これだけ長く、私なんかまで呼んでいただいてやっていただいたということは、決してむだにならないと。それを生かしてやっていっていただきたいというふうに考えております。
○田中委員 ありがとうございました。
今のご意見も通じて、安心された方も多いのではないかと思っております。
先ほどのご説明の中にもございましたけれども、法律ですとかあるいは法律用語というのは、基本的には大変難解で、わかりにくい、難しい。また逆にいうと、一般の人には読んですぐ理解できるようなものではないものだと認識をしております。だからといって、わかりにくいからといって、それをもって不適切であるということにはならないのではないかと私は思っております。
今回、大変注目され、多くのマスコミの方々にも取り上げていただいたことによりまして、これは例えばですけれども、非実在青少年という言葉も、さまざま議論はありましたが、結果としてこのような言葉も今やわかりやすい、多くの人が理解できるような文言だと、そういった情報が発信できたのではないかというふうに思っております。まさに先生も今おっしゃられたように、これまでのさまざまな議論が、今後の改正案のもとでの青少年健全育成のための運用に、大きく生かされるものだというふうに思っているところでございます。
わかりにくさという部分でいうと、今回は新たに初めて新規の条例を制定するものではなくて、昭和三十九年にできた既存の条例に対する改正案であるということから、当然その改正の内容、文言についても、これまでの条例文を踏襲した、また整合性をしっかりと持った条例である。そのことから、逆にわかりにくい表現も一部使われてしまっているのではないかと、そんなような思いもしております。逆に今回私が心配をしているのは、このわかりにくさを明確にしなくてはいけないということから殊さらに多くの時間を要してしまって、この条例案が引き続き継続審議扱いになってしまうことによって今日の青少年を守る環境整備がおくれてしまっては、これはまさに本質的な視点からいうと、大きなマイナス的な要素だろうと思っております。そのような視点から、健全な青少年を守る環境整備が、現在、その議論が行われているためにおくれてしまっている、この現状についてどのようなご認識をされているのかお伺いしたいと思います。
○前田参考人 それはもう、我々としてはというか部会にかかわった人間としては、やはり強く反省しているというか、ご迷惑をおかけしたというか。答申案を一生懸命つくったところがあったわけですけれども、やっぱりちょっと、さっきご指摘いただいた、漫画家集団の意見をもっと何で聞かなかったのかとか、今にして思えばそうなんです。
ただ、それを踏まえて、やはり今ここまで来ているのであるとすれば、先ほど申し上げたように、文言の修正を詰めるのにそれだけ時間をかけることのメリットがどれだけあるかということと、現実に都民の中でこういう声があって何とかしてほしいということで動き出している、その問題解決に早く取り組むということのメリットと、少なくとも、考えれば、私は先生がおっしゃるように、なるべく早く動き出していただきたいというふうに考えております。
○田中委員 時間も限られていますので、最後に一点、本日の参考人、一番最初にお越しいただきました赤枝先生との質疑の中で、今回の条例改正は確かに不健全図書類、漫画を区分陳列するだけの条例ではあるけれども、そのことが、いわゆる子どもの健全育成につなげていく大きな大きな抑止力として、大きな意味合いがあるんだというようなご指摘もいただきました。
逆に、今回おくれることのデメリット、前向きな受けとめ方もしていただいた部分はありますが、ましてや、この条例改正案が仮に可決をされないような事態に陥ったとすると、逆に、この抑止力がマイナスの大きな大きな要素、条例改正はできなかったということから伴う、青少年を守っていく環境に対して大きな大きなダメージにつながってしまうのではないかという思いをしております。その部分についての先生のご見解をお聞かせいただきたいと思います。
○前田参考人 おっしゃることは全く同意見なんですが、ただ、これができなかったからといって急に大きなダメージが生ずるというのは、ちょっと違うかなという感じがします。
ただ、これで通らないで、やはり文言のことで結局もめて--ただ恐らく、中身としてごらんいただいたようなああいうものについて区分陳列をするということについては、都民の大方のご賛同も私は得られると思うんです。そこのところで、何だ、そういう形式的な言葉のやりとりでとか、それでそういう大事な施策がとまってしまうのか、ということによって生ずるデメリットの方がやっぱり大きいと思います。
以上でございます。
○小林委員 本日はお忙しい中、本当にありがとうございます。
何点かお伺いしたい点を用意しておりましたけれども、先ほどの先生のお話を伺いまして、一点のみお聞きさせていただきたいというふうに思います。
一番最初に先生が冒頭に申されました、なぜ誤解が生じたのかという点でございますけれども、先ほど先生もご指摘されていたように、条例の条文自体がなかなか素人の方には難しいと。確かに私が読んでもなかなか難しい状況がある中で、さまざま誤解が生じているのも事実であるというふうに思います。
私のところにも、メールやお手紙等で、明らかに誤解に基づいたご意見というものもたくさん寄せられておりました。
そういう中で、先ほど参考人でいらっしゃっていました宮台先生が、法理学の基本原則は、憲法は立法意思がすべて、法律は条文がすべてというふうにおっしゃっておりまして、そもそも条例の中で解釈の誤解が生じるような可能性があるということは、官僚による裁量行政の余地を意味するというふうにご指摘をされておりました。
我々も、さまざま誤解があるという中で、この総務委員会の中でも議論を重ね、そしてまた、東京都の方も質問回答集という形でさまざま対応してきたわけでございますけれども、その東京都の質問回答集も、基本的には無意味であるというふうに宮台先生はおっしゃっておりました。
そういう中で、先ほど宮台先生がご指摘をされていた、誤解を生じる可能性があるということは、官僚による裁量行政の余地を意味するという点。確かに私のところにいただくご意見の中でも、最初はよくてもどんどんどんどん解釈が拡大していって大変なことになるのではないかというようなご意見もたくさんございましたけれども、この点に関して先生はどのようにお考えか、ちょっと詳しくお聞かせいただければというふうに思います。
○前田参考人 ありがとうございます。
法律の専門家としていわせていただくと、そんな、全部、裁量の余地のない法律なんかつくれっこないです。それは素人の考えです、はっきりいわせてもらうと。それは非常に奇異な議論です。あらゆる条文というのは解釈の余地はある。だから、我々法解釈学は飯が食えるんです。
そのときに、民意から離れたような、それから立法の趣旨から明らかに離れたような解釈にならないようにしなければいけない。それは、議会の力、それからその後の運用する公務員の力とか、全部トータルな問題だと思います。先ほど、いわゆるガイドラインをつくってどうやっていくかというようなこともそうなんですが、それは人間がやることですから、どうなるかわからない。ただ、法律を文言の力だけで縛って永遠にコントロールできるということはあり得ないし、法律であっても時間がたてば、社会の実情に合わせて、国民の常識に合わせて、概念が動くということは幾らでもあります。
問題は、その動いたことが、国民の利益、それから国民の意思に反するかどうかとか、距離が余りにも生ずるかどうかということなんです。それをきっちりやる仕事が、一つはやっぱり法律家の仕事です。法解釈を行うというのはそういうことで、国民の常識にのっとって判断するということです。
それはもう信用できないから、がんじがらめにして、自動販売機でこのボタンを押せばこのたばこが出るというような関係のものを全部つくっておかないと規制できないというのは、これは不可能です。
もちろん、言葉が不明確にならないように、できる限り明確なものに担保するということは大事です。ただ、逆に、明確にするということによって絞り過ぎますと、今度は何のために立法するかという立法目的がかなわなくなる。そのバランスをどうとるかが、やっぱりまさにプロとしての立法府のお仕事なんですね。
そのバランス、今までの先例を踏まえながら、この程度の不明確なものまではやれると思って出して、最後、今度は最高裁で、これは違憲である、違憲でないというチェックが入るわけです。そういうものを回しながら動態として出てくるのが法律なんです。条文としての法律だけが法律ではない。
その中で、今回のものは、先ほど申し上げましたように、目的も都民の意思からそんなに離れるものではないし、明確性の程度も合理的な範囲内であり、その意味で、やはりもうここの段階まで来たら、なるべく早く動かしていっていただくのが合理的なのではないかと。
ただ、マスコミの方々にもお願いしたいのは、やっぱり常にこのくらいの関心を持ってきっちりいろんなことについてチェックをすると。これも、ですから法律を適正なものにするという意味では非常に大きな力なんです。もしほうっておかれれば、それは乱用するというようなことが出てくる余地が大きくなるということです。
初めのときに言葉だけで絞り込んで、後のものをすべて担保しようというのは無理です。
○吉田委員 それでは、私からも質問させていただきます。
答申をつくる中心になってこられた前田先生から直接意見を聞くことができることは、本当に幸いだというふうに思っております。
今まで説明されたこととちょっとダブるかもしれませんけれども、第一には、規定のあいまいさがあるのか否か、それはやむを得ないことか、あるいは認められ得ることなのかということから改めてお聞きしたいというふうに思います。
具体的には、七条二号の自主規制の対象ですけれども、性行為及び類似行為の対象として、みだりに、及び肯定的という文言にかかわってなんですけれども、私は、やはりこれをどう理解するかによっての影響というのは非常に大きいと思うんです。通常販売されていたものが自主的に自粛しなければならないことになるのか、ならないのかということからすれば、作者からしてもあるいは出版事業者からしても、非常に大きな影響を及ぼす。
それだけに、こうした文言について、非常にあいまいではないか、あるいは幅広い解釈になり得るのではないかという懸念が生まれることは、ある面、当然のことですし、これにどれだけきちっと答えることができるかどうかということが、やはり非常に大きな点だと思うんです。
何度も同じことを聞くようなことになって恐縮なんですが、先生としては、みだりに肯定的という文言は、あいまいではないというお考えなのか、いや、多少のあいまいさはあるというお考えなのか。そしてそれは、あいまいであったとしても刑罰ではないんだから認められ得るんだと、そのことによる規制的な影響は少ないんだというお考えなのか。済みません、もう一度その点をお答え願いたいんですけれども。
○前田参考人 一番大事なご質問だと思います。
先生もご承知だと思いますけれども、淫行処罰というのがありますよね、条例で。あの中で、非常にある意味ではあいまいで、淫行を全部処罰したら広過ぎるからということで、専ら性交の目的、性欲を満足させる目的のためだけの淫行を処罰するみたいな限定解釈をする、それが不明確かどうかみたいな議論がありますよね。それでも最高裁はそういう限定をして、条文に書いていないんだけれどもそういう限定をして、合憲だというようないい方をするわけです。
刑罰の基準として、ですから私は、最高裁の広島の条例の基準なんかをバランスをとって考えたときに、この七条の二号の文言が、それを言葉として明確でないというご指摘はあるかもしれないけれども、法的に不明確だとはいえないというふうに考えています。その意味では明確であると、で、トレラブルなものであると。
それによって確かに、いや、著作者の方々がどこまでのものが規制されるかわからないと。ただ、先ほど申し上げたように、かいちゃいけないというようなことではないんです。チェックして、その結果出てきたものが、これはこっちの棚に置いてくださいよということになるということです。
先生もご承知だと思いますが、この七条の二号だけではなくて八条の縛りがもう一つかかるんです、区分陳列には。強姦その他社会的な規範に著しく反するような感じのものと。それらを組み合わせて、もちろん現場に混乱を生じせしめないようにするということは何より大事ですから、この程度のものをと。で、外向けの一般的なガイドラインの示し方として、今まで都庁はいろいろやっていらっしゃいますけれども、運用するとなるとやっぱりもう腹を割って、先ほどご指摘があったように漫画家の代表の方なんかとも随分お話をされて、安心して著作活動ができることを保障するのは当然のことだと思います。
ただ、この条例ができたから、安心して著作活動ができなくなるような程度のものかと。もちろん、不安感をちょっとでも感じるだけで不愉快だとおっしゃるのは、それはもう仕方がないんですが、職業的な問題として、そんなに大きな問題になるということではないと私は考えております。
○吉田委員 続けて、今のご説明に関連してなんですけれども、法的には明確であるというのが先生の見解ですけれども、私はちょっと、率直にいいましてそういうご説明だけでは十分理解できないんですけれども、例えば、そういわれるのならば、性行為及び類似行為がみだりにとか肯定的というものは、もし明確だとしたら、どのようなものを肯定的であり、非肯定的というふうに区別をするのかという疑問が、率直に、私自身、生まれざるを得ません。
それと先ほどからのお話で、あくまでも刑罰ではなくて、移すだけだということに関連してなんですけれども、先ほどもいいましたけれども、それでもそのことによって、今まで自由に販売して何の心配もなかった作者あるいは出版社が、果たして自分の作品がみだりに肯定的というふうに見られて、自主的に規制する対象になるのかということになれば、やっぱり一定の心理的な影響なりというものは、否定することはできないのではないかというのが一点。その点改めて先生のお考えを聞きたいのと、先ほどの弁護士の方もいわれていたんですが、同時に新たに九条で、いわゆる出版事業者、出版社そのものに対して勧告及び表示と、そういう、事業者を--という新しいものに条例では踏み込んでいるということから見れば、質問回答集の中で書いてあるように、何ら今までと変わりませんよというような説明では、到底、ないのではないかというふうに思うんですけれども、済みません、いかがでしょうか。
○前田参考人 順序がちょっとずれるかもしれませんけれども、途中の、心理的なご負担がふえるんじゃないかということに関しては、ですから先ほど反省したことの一つなんですけれども、我々としてはこういうものは見せない方がいいだろうというところだけで動いてしまって、それを著作されておられる方のご苦労とか、実際、かく側だって、ここまで許されるかどうかと考えるだけで非常にマイナスだということの点に関して思い至らなかったということが、やっぱり、こういうずれを生じたことの一つの大きなポイントだとは反省いたしております。
今後、ですから都庁の側でも、そういうことも含めて、現場のご意見といいますか、著作者の気持ちをよく理解するということが何より大事だと、それはもうおっしゃるとおりだと思います。ただ、みだりにとか肯定的にというのをどう引くかということなんですけれども、法律の社会ではみんなそうなんです。
住居侵入は、ゆえなく入ってくると。都議会に入ってくるときに、じゃ、どういう場合がゆえなくなのか。デパートに入る。万引きの目的で入ったら、ゆえなくの侵入になるのか、ならないのか。その辺はやっぱり具体的な事例が出たところで判断して、ここまではゆえなくに当たる、当たらないという判断をしていかざるを得ないんです。
髪の毛を抜けば傷害罪なんです。髪の毛を抜くと傷害罪なんですよ。一本抜いたって傷害罪にしないんです。一万本抜けば傷害罪なんです。じゃ、八百八十八本は傷害罪なんですかというご質問なんです、具体的に線を引けというのは。それはだから、具体的に、状況の中で、これは傷害罪になるだけ髪の毛を抜いたよねと。それと全く同じでして、この事案は、この漫画を見て、みだりに肯定的にと多くの方が思うようなと……。
初めはやっぱり謙抑的に必ずやられると思います。今までやってこられて通っていたものを、これはだめだというんだとすれば、やっぱりそれなりの理由がなければだめですよ。だけど、明らかにこれはだれが見てもというのに近い、有識者として出られた方の合意形成ができて、そういうものが積み上がってガイドラインができていく。そのときには当然、一番高いところからボールを投げていくんじゃなくて、低いところからだんだん積み上げていくという作業にならざるを得ないんです、実際の運用としては。
今までのいわゆる審査の仕方もそうで、片一方でPTAの方々から見たら、何でこんな漫画がオーケーなんですかという話はあったと思います。だけれども、それをコンセンサスを得ながら少しずつ積み上げてこられた。漫画というよりは、今まで、写真だと思いますけれども。そういう中で、基準というのはできていくということなんです。それを言葉できれいに書き分けろというのは、先ほど申し上げたように無理なんです。
以上です。
○吉田委員 表現の自由の問題もあったんですが、最後に時間もありませんから、端的に立法事実という問題についてなんですけれども、先ほどのその前の弁護士の方との議論もあったんですけれども、やはり何らかの規制をするからには、立法事実というものが明確でなければならないというふうに私は認識いたしました。
もちろん学問的知見、即、立法事実ということとはイコールではないというふうに思いますけれども、今回の、例えば七条二号の場合の立法事実というものは明確なのか、あるいは、これは極端なことをいえばなくたっていいんだよということなのか、その点について改めて先生のご見解をお教え願いたいんですが。
○前田参考人 立法事実という言葉なんですけれども、我々が使うのは、立法せざるを得ないような社会的な問題点が実在するかどうかということなんです。
こういう問題があるから何とかしなければいけないのではないかということで、我々は、部会としては立法作業をやったわけではないので、そこのところで投げかけたのは、都内の住民の中から選ばれた有識者の議論の中で、こういう問題がありますよ、これは何とかしなければいけません、いろいろな本屋さんから集めてみて、見て、これはやっぱり子どもに自由に見せたらまずいですよねと。これが立法事実だと、我々は考えています。
○西崎委員 きょうはありがとうございます。
お疲れだと思いますが、最後の質問をさせていただきたいと思います。
これまでいろいろお話があったんですけれども、私どもは、子どもの性的虐待が今起きている現状に対して、子どもたちが有害情報に侵されている現状を放置できないという認識は否定するものではありません。この委員会でもそのことはみんな一致しているところだと思います。
しかし、現状を改善していくための手段だと思うんですが、今回は条例を改正して、早くやっていってほしいという前田先生からもお話がありましたけれども、果たしてそれで現状がすべて改善できる問題なのかどうか、大変疑問だと思います。
先ほど先生の説明の中でとても気になったお言葉があったんですが、効果がわかっていてやる条例はないということをおっしゃっていたんですが、だとするならば、この条例の役割、改正する役割はどこにあるんだとお考えなんでしょうか。
○前田参考人 今の点は、じゃ、ちょっと補足的にご説明申し上げなければいけないと思うんですが、一〇〇%効果があるとかそういうことがなければ、法律をつくれないと。だったら今、例えば、死刑で犯罪を抑止できるという効果がないんだから--そういう議論ももちろんあるわけですけれども、死刑は即廃止しなければいけないかと。いや、そもそも刑罰で処罰するなんて、刑罰をやめたって犯罪がふえるとは限らないんだと、そんな証明はないですから、刑罰を全部やめちゃいましょうという議論にはならないでしょうと。
その程度のことで、抽象的で変ないい方をして本当に申しわけなかったんですけれども、何らかの効果が具体的に、科学的にといいますか、もうデータ的に立証できて、これをやれば一〇〇%こうなるという関係が立証されて、初めて規制ができるということではなくて、国民のかなりの人が、これであればやっぱり自分の子どもに見せたくないよねとか、こういうのばっかり見ていたらちょっと性的な価値観がおかしくなるよねと。それを数字的にきっちり整理できて評価できないにしても、かなりの都民の方がそう思われるであろうと、それを吸い上げて都議会の議員の方が認められれば、それによって条例をつくることはできるのではないかということを申し上げたんです。
○西崎委員 都民感覚、市民の感覚からかけ離れたところではないところで条例というものはつくっていかなければいけないというお話。条例ができれば、それはどういう思いがあったとしてもひとり歩きするものであって、そこの条文に規定されているものが尊重されるというふうに私どもは思っています。
確かにいろいろな問題があるとしても、先ほど田中弁護士がこれまでの青少年協議会の取り組みをいろいろ過程を経てお話しいただいたんですけれども、今回の条例改正においては、パブリックコメントはとっていますが反対の意見が多かったし、確かにPTAから今の現状を憂える声は上がっているかもしれませんけれども、市民からのボトムアップで、この条例はもっと改正しなければいけないという声を、私たちはじかに聞いていないんですけれども、その点についてはどのようにお考えでしょうか。
○前田参考人 それは、確かにパブコメだけでは不十分だと。ただ、東京都で公選して選ばれた方も入っていただくとか、国のレベルであればいろんなところに出向いていって公聴会をするとか、ただ、一番重要なポイントの一つは、やはり都議会議員の方にも委員に入っていただいているわけですよね、委員会としては。そういう形で、都民の声は一番オフィシャルな形では吸い上げている。もちろんご指摘のように、それが不十分であるということはやっぱり反省しなければいけないということはあると思います。
これから我々の業界でも、裁判員裁判になり、国民の常識がより重くなっていきます。法律家がこうだと、判例がこうなっているからこれが正しいんだというだけでは説得力がだんだん弱くなってくると思います。そのためにも、いかに国民の声というか、都民の声を聞くか。その意味で、もちろん都議会は大事になっていくと思いますし、ただ今回のやり方が、もちろん反省はいたしますが、この条例案を根底から否定するようなほど、手続に瑕疵があったということではないと思うんです。
それなりに、やはり手順は踏んでやりましたし、都民の声は聞かせていただいたと。ただ、先ほど申し上げたように、一番反省すべきは、これだけ強くなると読めなかったんですけれども、漫画家の方々との会話の時間が足りなかったというところを反省しているということでございます。
○西崎委員 今回の健全育成条例の改正では、児童ポルノに関しても規制を加えていこうという条文がありますけれども、先ほど田中先生の方からお話があったんですが、国で今、現行法をもとに検討されている中で、あえて東京都の健全育成条例の中にそれを先行して盛り込んでいこうというふうなお考えに立ったのは、どういうところにあるんでしょうか。
例えば、先ほど田中弁護士は、被害者は必ずしも東京都民、東京都に住んでいる子どもたちではないと、全国にそれは波及する問題であるということをいっておられたんですが、むしろ国の法改正を見てから、そういったことを東京都で考えていくべきだったのではないかと思いますが、その点はいかがでしょうか。
○前田参考人 これはどういうご趣旨でおっしゃっているのかあれですけれども、この条例の中で、児童ポルノ法の改正に触れているところはないですよね、改正の中で。審議会の議論の中では、やっぱり都の側の議論として、子どもたちの健全育成の観点から見て児童ポルノについて一定の強いご意見があって、それを盛り込んだと。
ただ、逆に、その後のパブコメ、その他を伺っていて、児童ポルノについて漫画云々というようなことが入ってくれば、これは条例案としては非常に難しいと。そのバランスをとって、先ほど申し上げたように、ここではあくまでも青少年の健全な育成という観点からゾーニングをすると。それにとどめるんだと。
児童ポルノ法の改正をどうするかは、個々の委員で強いご意見を発言された方もあるし、あれで案をまとめるのは事務局が大変だったと思います。逆に、こんなものは書くべきでないというご意見もあった。ああいうものというのは、折衷といいますかバランスをとって書いたわけですけれども、さらにその後のパブコメなんかを見られて、事務局はこういう、非常にある意味では抑えた条例をつくられたということです。
○西崎委員 最後になりますが、この青少年の健全育成は、悪いものを排除していこうという、上から目線で、子どもにこうしなさい、ああしなさいというような感じを非常に強く受けるところで、先ほど田中弁護士からも治安条例ではないかというようなお話もあったんですけれども、実際に性的な被害を受けている子どもたちを救済していくという視点で、どのように子どもを救済していくのかというような視点においての条例の文言とかあるいは中身が、この健全育成条例の改正の中には含まれていないと思うんですが、その点は議論があったのでしょうか。
○前田参考人 それは、やっぱり子ども目線でというのはある意味では難しい面があって、やはり有識者の方々は一定程度以上の大人でなければいけないですし、その意味で、幾らお母さんの代表みたいな形でいったって、子ども目線が十分でないということはあるかもしれませんけども、やはり子どもを守る目線というのは入っているんだと思うんです。
ただ、確かに先生がおっしゃるように、本当に、じゃあ規制を守ってもらう側がどう思っているのかを、どこまでチェックしているのかというところは弱かったというか、これまでの青少協の中で、ひきこもりの方とか、いろいろなところではもちろんそういうヒアリングなんかもやってきたんですが、まだまだそういうところが弱いというご指摘であれば、これはおっしゃるとおりだというふうに申し上げたいと思います。
ただ、今回のものとして、それなりに、父兄の方とか本当に子育て中の方なんかのご意見とかで、実感として子どもをどう守るかという視点を入れてやってきたということはご理解いただきたいということでございます。
○小磯委員長 ほかに発言がなければ、お諮りいたします。
前田参考人からの意見聴取はこれをもって終了いたしたいと思いますが、これにご異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○小磯委員長 異議なしと認め、前田参考人からの意見聴取は終了いたしました。
前田さん、本日は貴重なご意見、まことにありがとうございました。心より御礼申し上げます。
以上で青少年・治安対策本部関係を終わります。
これをもちまして本日の委員会を閉会いたします。
午後五時五十九分散会
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