予算特別委員会速記録第四号

   午後六時三十分開議

○中屋副委員長 休憩前に引き続き委員会を開きます。
 質疑を続行いたします。

○高木委員 舛添知事におかれましては、選挙が終わってから早速ソチに行かれたり、まさに八面六臂の活躍といいますか、全速力で走り続けて、およそ一カ月をお過ごしになられたと思います。
 私は常々、政治家というのは、そのポジションに就任をしたら、そのときから、もう即日から、その瞬間から即戦力でなければいけないと、私は常にそう思っているんですが、まさにそれを背中でといいますか、体現をされた知事に対して、私は心から敬意を表しているわけであります。
 私たち若い者にとっても、そういう姿というのは、やはり目標でありますし、これからもそういう姿勢でぜひ真摯に都政の推進に取り組んでいただきたいと、心から願っているわけであります。
 さて、私は、東京を世界で一番の都市にするための諸施策について、知事にお伺いをさせていただきたいと思います。
 私たち、昨年の六月に都議会議員選挙がございまして、都議会自民党は、東京を世界で一番の都市にする、このことを公約に掲げて選挙戦を行い、五十九名全員の当選を果たすことができました。
 そして知事は、先般の都知事選挙において、東京世界一というキャッチフレーズで、都知事に就任をされたわけであります。お互いに、世界で一番の都市をつくっていこうと、この同じ方向性でこれからの都政の行く先を議論することができるというのは、極めて建設的であると思いますし、私は、この同じ方向性、同じ土俵というのが非常に重要であり、これからの都政の明るい展望を開いたな、こう思っているわけであります。
 そこで、世界で一番の都市を目指すというこの宣言というのは、私は大変重いものがあろうと思っておりまして、都庁も限られた人材、限られた財源の中で世界一を目指すことになるわけでありますし、それには大変工夫が必要なんだろうな、知恵も必要なんだろうな、こう思うわけであります。そして、執行機関あるいは理事者一人一人の皆様方が、大変高い目標設定であるということを改めて認識をしていただかなければいけない、こう思うわけでございます。
 都議会自民党は、先ほど申し上げたように六月の選挙で、東京を世界で一番の都市にするんだ、この目標を掲げて戦ったわけでありますから、そのことに対する決意は既にしておりますし、それに向けての政策も、政策推進本部をつくって実行に移させていただいているわけであります。
 ここで改めてお伺いをするんですが、舛添知事が就任して一カ月、知事はもとより、理事者、そして十六万五千人といわれる都庁職員が同じ認識があるのかどうか。そして、東京世界一に向けて、知事の行政の責任者としての決意を改めて問いたいと思います。

○舛添知事 今お話しいただきましたように、東京世界一という私の公約は、自民党の都議選での公約と同じものであります。しかし、これは高木委員ご承知のように、簡単にはなし遂げられない、非常に高いレベルの目標であると思っております。
 したがって、私はこれを実現するために、知事である私のトップダウンのリーダーシップと、それから職員側からのボトムアップ、この二つをうまく融合させなければできないと思っております。まず、自分のところの職員の能力を引き出すと。そうしないと、これは宝の持ち腐れになってしまいます。それから職員に、公約実現のために大きな方向性を示します。
 そしてまた、安倍総理とも先般もお話をしましたように、国との関係も、きちんと協力関係を保ちますけれども、もし何らかの問題があれば、私が先頭に立って国との関係においては問題を調整していきたいと思っております。
 また、職員の皆さんも日々いろんな問題を抱えていると思いますけれども、これはよく議論をして、知事と職員との間のコミュニケーションがしっかりいかないと話になりません。私は、ほぼ毎日、幹部を初め、きょうここにおります職員と毎日のように議論をしております。
 そういう意味で、就任以来、私は職員の雰囲気、庁内の雰囲気も随分明るくなったなと、変わったなと、自分でいうのもなんですけれども、そういうような感想を持っております。
 それで、四月になりましたら今度は現場を見て、さらにいろんな意見を聞いた上で、世界一の都市東京を目指して頑張りたいと思っております。

○高木委員 大変力強いご発言をいただいたわけであります。ぜひ理事者の皆さん、そして職員の皆さんも、世界一を目指すんだ、改めてこの意識を持って一緒に新しい東京をつくっていきたいと、こう思います。
 さて、知事は施政方針演説で、まず三つの世界一を目指す、そう宣言をされたわけであります。その中で、第一の課題でありました安全・安心の中の防災対策について、まずお伺いをさせていただきたいと思います。
 東京のまちづくりというのは、明治以来、挫折の連続だったというふうに私は思っています。
 古くは東京市区改正、これは明治の時代でありますが、この市区改正も、縮小に次ぐ縮小で終わりました。そして関東大震災の後の帝都復興計画も、大幅に予算が削減をされる中で、骨格のみは実現をしたわけでありますけれども、東京の根本的な大改造というのはなされなかったわけであります。さらに、さきの大戦後の戦災復興計画も、GHQの占領政策もありまして、これも当初計画とはほど遠いものになってしまった。
 過去のこのような計画が、さまざまな制約の中で実現を見なかった部分が多いわけでございまして、現在の東京が抱える課題というのは、淵源はここにあるわけであります。その解決の処方箋というのも、実はこうした計画の中にかなり大きくちりばめられているし、網羅をされているといっても過言でないというふうに私は思っているわけであります。
 知事は、初めての都庁職員への訓示の中で、後藤新平東京市長の退任の挨拶を引用されて、訓示をされていたわけであります。そういう意味では、関東大震災の帝都復興計画にも知事は造詣が深いというふうに私は思っておりますので、このような過去のさまざまな行政計画あるいは都市計画に学ぶことが多いというふうに私は非常に強く思っているんですが、知事のご所見をお伺いしたいと思います。

○舛添知事 私は、内務大臣兼帝都復興院総裁として関東大震災の後の東京の復興に全力を尽くした後藤新平のことを大変尊敬しておりまして、ほとんど彼の書いたものは読んでおります。
 彼がまとめた帝都復興計画、これは今の日本のお金でいうと九十五兆円ぐらいですから、日本の国家予算一年分を出した。しかし、それが四割にカットされた。しかし、焼失面積の九割に及ぶ広範囲で区画整理が実施されて、主要な幹線道路、昭和通りとか靖国通りとか永代通り、これはそのときつくられたわけでありまして、震災復興公園、隅田公園などですね、それから橋梁も永代橋含めて整備されました。
 私は、都市づくりというのは百年の計だと思っておりますので、後藤新平は大きなグランドデザインをつくれた人だというふうに思っております。今、高木委員ご指摘のように、特に戦争が終わった後は、継ぎはぎでやらないといけないような状況があったと思いますけど、しかしこういう都市計画の先達に学んだ上で、ぜひ大きなグランドデザインで東京を大改造したいと、そういう決意でございますので、ぜひとも都議会の皆さん方と協議を重ねて、その方向で進めたいと思っております。

○高木委員 例えば今、東京でも苦労をしております木造住宅密集地域の問題があります。これは、実は帝都復興計画で予算的に手をつけられなかった地域に非常に多く点在をしています。当時区画整理を行った、例えば中央区や江東区の大部分などには、実はこの木密は存在していないんですね。
 ですから、あのとき、これは今振り返っても残念でならないというのは、予算が削減をされる中で、焼失地域のみがこの復興計画の中に押し込められたといいますか、それ以上のものを後藤新平は考えていたんですけれども、それができないで、実は今のこの課題になっているということを、私たちはやはり歴史から学んでいかなければいけないと思うんです。
 区画整理事業を、当時焼失地域の九割以上、約三千百十九ヘクタールといわれておりますけれども、これは世界の都市政策史上、こんなことをやったところはどこにもないんですね。ですから、この壮挙ともいうべき都市政策というものが、まず東京には一つあって、そして区画整理というのは基本的に何をするものなのかということを、都民的にその意味というのを共有していかなければ、私はいけないんだろうと思います。
 区画整理というのは、基本的に道路をつくって土地の区画を整えていくことが一つでありますが、そこに公共的なインフラを整備をすることと同時に、防災性を向上させるというのは、これはまさに区画整理の一つの肝だと思います。
 そして同じように、先ほど申し上げた木密なんですけれども、今東京都は、木密十年プロジェクトを行っております。この木密十年プロジェクトは、火災危険度の低減を目指したまちづくりを、二〇二〇年までという時限を切って集中的に行っていくものであります。中でも不燃領域率を向上させる、不燃化を促進をしていくために不燃領域率というものを向上させていくために、例えば特定整備路線の整備を図っていく。これは、命を守る道路として私は極めて重要な政策だと思っています。
 そこで、今、特定整備路線にしても、あるいは木密にしても、何かをやろうとすると、必ず反対だという方があらわれるんですね。それは、ある意味で仕方のないことだと思います。しかし、今も昔も同じなんですが、こうした都市計画というものは、私たちは今、過去の、私たちの先人が努力をしたその恩恵に浴して、今の都市生活があるんだと思います。
 ですから、今を生きる私たちは、先人の努力というものをやはり知らなければいけないし、そしてその恩恵に浴しているんだということを深くかみしめながら、次の世代にどういう町を残していくのか、この理念を、やっぱり東京都として、青臭い議論かもしれないけれども、一つ訴えていくということが、木密を解消する上では私は大事だと思います。
 例えば、過去の恩恵に浴している例で顕著なのは、今世田谷区ですけれども、かつての玉川村、この玉川村は、玉川全円耕地整理というのをやったんですね、村全体で。これは千二百九十九ヘクタール、全部耕地整理をしたんですよ。そして井荻町、今は杉並区が中心ですけれども、この井荻町も全町区画整理、八百八十八ヘクタールを大正の時代にやっているんです。こういうことをやって、今の高級住宅地といわれる、いわゆる東京の西側というのは、こういう先人の努力があって初めて成立をしているんですよ。ですから、私たちはこういうことを、やっぱり過去の事例を勉強する中で、そういう先人の努力をかみしめていかなきゃいけない、こう思っています。
 それともう一つは、例えば特定整備路線を事業化をしていこうということになりますと、必ず、いや、裏通りにだって魅力があるんだよという話が出るんですね。知事も何かのときにおっしゃっていたと思いますけれども、車の入れない道路がある町があってもいいじゃないかと。私もそのとおりだと思っているんです。私の地元にも、そういうところはたくさんある。ですから、裏通りの魅力はたくさんあるんですよ。
 だけれども、それには二つ条件がある。裏通りが輝くための条件というのは二つあります。一つは、表通りがあることなんですよ。裏がおもしろいところは、表がしっかりしているからなんですよ。その上に立って、裏通りが輝くためには、表通りのおかげで防災性が向上するということなんです。防災性が担保されていなければ、裏通りが輝くことはできないんです。
 ですから、裏通りばかりの町では、都市としての活力や、あるいは魅力というのは生まれない。このことをしっかり理解した上で特定整備路線も整備をしていく必要がある、こういうことだと思います。
 私は、そういう意味では快適な都市生活というのは、常に先人の努力の上につくられているものということをしっかり認識をする、それを学校教育でも教えていく。これは、例えば「江戸から東京へ」という副読本がありますが、その中にも多少書かれておりますけど、もう少し紙面を割いて、私は勉強したらよろしいんじゃないかなというふうにも思います。
 また、江戸東京博物館に都市計画の常設展示、例えばジオラマなんかを飾ってもいいんだというふうに思います。世界の大都市には、必ず都市計画の展示物があるんですよ。ですから、そういうものを、やはり学ぶべきところに置いておくということは、私は大事だろうと思います。
 先人の知恵に学ぶことというのは非常に多くて、帝都復興計画では、例えば復興小学校と復興小公園をセットで整備をするなんていうことがありました。ちょっと資料を配ってください。それから、橋のたもとには橋詰め広場というものを設置をしたということもあります。
 今、資料をお配りをさせていただいておりますが、一枚目の資料は、これは復興小学校と復興小公園のモデル図でございます。これは、現実に千代田区のある小学校がこのモデルに基づいてつくられて、今はなくなってしまったんですけどね、残念ながら。この計画でつくられました。これは何が貴重かといいますと、公園と小学校を同じところに配置をするというこの設計思想がしっかり確立をしていることなんです。
 これは、実はヨーロッパのコミュニティの中心は教会と広場なんですね。教会と広場がヨーロッパではコミュニティの中心。それを東京や日本に置きかえたときは何かといったら、学校と小公園だという設計思想で、これはつくられているんです。
 ですから、そういうことを私たちの先人はしっかりと実現をしたんですね。だけれども、今残っているところを見てまいりますと、学校と公園の間には厳然と柵がつくられているんですね。この図面にも出ているように、学校と公園の間には低木があるんです。これはすぐ乗り越えられるようになっているんです。今は、セキュリティーの問題で恐らく学校も柵をつくらなければいけないんでしょう。だけれども、この設計思想を考えれば、工夫によってそういうこともうまくできるのではないか。つまりそういうものがあった。なぜこういうものがつくられているかということを、私たちは理解をする必要があるんだろうというふうに思っています。
 そして、次のページを見ていただくと、橋詰め広場が出ていると思います。これはたまたま清洲橋の例をとりましたが、建設局から提供された資料でございます。
 橋というのは、これから私は非常に大事な都市の構造物であると思います。過去もそれは大事な構造物でありましたし、これからも大事な構造物であると思います。橋は、実務的に川を渡るということではなくて、景観や都市の潤いを演出をするということもありますし、あるいはこうした橋が、例えばテレビドラマの舞台になったなんていうことはたくさんあるわけでありまして、復興事業でつくられた橋というのは、そういう意味では、私たち東京の一つの誇りでもあるわけであります。
 その橋のたもとに、橋詰め広場というのを計画的に配置をしてきたのが、あの復興事業の一つの特徴だったわけであります。橋詰め広場がなぜこういうふうに配置をされているかというと、これは、やはり防災上の有効性を一つは考えているわけでございます。
 橋を渡る、あるいは橋のたもとで滞留をしてしまうということが、恐らく何かの災害があったときなどは起こってしまうんだろうと思いますから、こういう空間をつくっていくことが大事だと、これが橋詰め広場の意味であります。
 ちなみに、地図に書いてある橋の記号というのがありますよね。あれはハの字型みたいなあれですけれども、あのたもとが広がっているのは、橋詰め広場があるという意味でああいうふうになっているというのは、これは地図記号、最近私も知りましたけれども、これが実は橋詰め広場の意味は昔からあったということでございます。
 そこで、事例を二つ今引いたんですが、こうした先人の知恵に、私たちは改めて学ぶべきことがたくさんあると思いますし、東京の防災対策にこうした知恵を生かしていくことを考えてみてはどうかと思いますが、いかがでございますか。

○藤井東京都技監 お話のとおり、後藤新平の帝都復興計画では、関東大震災の際に公園が避難場所として大きな役割を果たしたことから、地域の核となる小学校と小公園とを一体的に配置いたしまして、防災の拠点といたしました。また、橋のたもとには、お話のとおり、かけかえのための空間として広場を設けまして、現在では、にぎわいや良好な都市景観の形成、防災性の向上などに大きく寄与しております。
 しかしながら、戦後の復興期におきましては、限られた財源の中で速やかな施設整備が求められたことから、これらの理念や計画は、残念ながら必ずしも十分に継承されてきませんでした。
 今後、防災都市づくりを進めるに当たりましては、防災公園やコミュニティ広場など、平時におきまして都市機能を発揮するだけではなく、災害時におきましても活用できる空間を確保するなど、先人の知恵に学び生かしていく所存でございます。

○高木委員 特定整備路線をこれから整備していく上でも、私の地元にも段差のあるところがあるんですが、例えばトンネルにしたり、あるいは橋にしたりということがあるのかもしれませんけれども、そういうところも、橋詰め広場などのこういう考え方をぜひ運用していただきたいと思うんですね。やはり危険を除去するためには、こういう広場が必要だと思います。どうぞよろしくお願いしたいと思います。
 私は、現在の防災計画の中で危惧していることがあります。それは、避難場所の問題です。先ほど復興小学校、復興小公園の例も出しましたけれども、避難場所はもう決定的に私は大事だと思っているんですが、私の地元を含めてJRの敷地が避難場所になっているところがあります。これは、現実的に柵があって入れないし、入ったとしても、中は線路で枕木で敷石ですから歩けないんです。ですから、こういうところは改善をする余地があるんではないかなと思います。
 また、荒川河川敷で、かつて三十年以上も避難場所であったところが、突然避難場所を取り消された場所があります。それは、津波が押し寄せたときに危険があるということで避難場所を解除されてしまったんですが、そうではなくて、そこを避難場所として使えるようにした方がいいと思いますよね、三十年以上も避難場所として指定されてきたんですから。
 ですから、私は命を守っていくための避難場所というのを、もう少し現実を直視した取り組みを行っていくべきだと思いますが、いかがでしょうか。

○藤井東京都技監 都は、震災時の火災などに対しまして住民の安全を確保するため、避難場所を指定しております。避難場所に適する公園などが周辺にない場合は、鉄道操車場を指定の対象とすることがございます。指定に当たりましては、鉄道事業者と十分協議いたしまして、鉄道施設としての使用状況を踏まえ、より安全な避難ができるように、その区域や避難方法などを定めております。
 また、お話の荒川等の河川敷では、首都直下地震等による東京の被害想定におきまして、津波の遡上による浸水のおそれがある区域を除外するなど、避難場所について見直しを行いました。
 今後とも、市街地状況の変化や人口の増減、防災に関する最新の知見などを踏まえまして、関係区と連携いたしまして、適切に避難場所の指定を見直してまいります。

○高木委員 適切に見直しを図っていただきたいと思います。いざというときに使えない避難場所では、私たちは困ります。どうかその点をぜひ考えていただきたいと思います。
 続いて、オリンピック・パラリンピックについて伺います。
 私は、オリンピック・パラリンピックを開催する都市として、東京はこれからどういう理念、哲学を持って取り組んでいくのか、このことをきょうは知事にぜひお伺いしたいと思うんです。
 一昨日、我が党の秋田一郎理事の質問に答えて、日本文化の発信でありますとか、さまざまな知事のご答弁がございました。私は、全くそのとおりだなと思って聞いておりました。
 過去の昭和三十九年のオリンピックを考えてみますと、戦争に負けて十九年でオリンピックができた。これは、やはり驚異的な私は復興だったと思います。ですから、そういう意味では急ごしらえであった昭和三十九年のオリンピックは、もちろん立派に感動も呼び、大変すばらしいオリンピックだったと思いますが、残念ながら私は生まれていなかったんですけれども、すばらしいオリンピックだったというふうに聞いております。
 昭和三十九年のオリンピックは、そういう意味では、全く蓄積のないところから全てをつくり上げてきた。だから、かなり無理しなきゃいけなかったんだと思います。その象徴は、やっぱり都市のインフラだったような気がしてならないわけでございまして、さらにいうならば、そのとき東京は、過度の過密都市としての高度成長を背景にして、人口がどんどんどんどんふえてくる、そういう都市でありましたから、交通問題も大変これは深刻であったわけであります。
 そういう中で、首都高速道路がつくられて、そしてさまざまな都市のインフラがつくられてまいりましたが、この昭和三十九年のオリンピックを今振り返ってみると、残念な例というのを、私は二つだけ挙げさせていただきたいと思うんです。
 一つは、資料にも出しましたが、隅田公園を縮小してしまったということでございます。この資料は、開設当時の隅田公園の写真であります。大変洗練をされていて、すばらしい景観だなと思います。同じころにつくられた横浜の山下公園と非常によく似ているような気がいたします。これが隅田公園が開設当時の、ちょうど昭和の初めごろの隅田公園の写真でございます。
 それともう一つは、明治神宮の内外苑連絡道路というのがございまして、この次のページに写真がありますが、内外苑連絡道路の一番鉄道側に乗馬道という馬車道があったんですね。馬の通り道があった。これが廃止をされて、それぞれ隅田公園の縮小は首都高速六号の向島線になり、そして内外苑連絡道路は四号新宿線の用地となったわけであります。
 私たちは、こうした事例を見るにつけ、昭和三十九年は仕方がなかったと私は思います。このことによって首都高速ができて、東京の交通利便性は格段に向上したと思いますが、しかしながら一方で、都市の潤いや品格を演出していくこうした緑や都市公園というような、そうした景観もやっぱり大事にしていく必要があるんだろうなと思います。
 だからこそ、私たちは知恵を使わなきゃいけないんだろうというふうに思いますが、知事は、六年後のオリンピック・パラリンピックを開催する都市として、都市計画あるいはスポーツ施設の新築、あるいは再整備、そうした広い意味でのまちづくりという観点から、東京をどういう都市に、そして東京の将来をどう描いていくのか、その理念と哲学について、もう一度語っていただけないでしょうか。

○舛添知事 先般申し上げましたように、やっぱり東京を世界一の都市にするというときに、日本文化のすばらしさを世界に発信したいと。東京にお客さんが来られてみて、ああ、そうだなと思うようないろんな、ハード、ソフト含めて整備をするということで、やはり我々は自然を恐れて、自然と共生すると、そういう知恵や経験があるわけですし、片一方では、スカイツリーを見てわかるように、最新鋭の技術を駆使することで超現代もあります。
 だから、そういうことと、昭和三十九年の例をおっしゃいましたけれども、確かにいろいろな制限はあったと思いますし、また、今反省すべき点もあったと思いますけど、やはり成熟した都市東京が今から何をやるかということにかかってくると思います。そのためには、まず何といっても大災害に打ちかたないといけない。私がいろんな世界一をいったときの一つですけど。
 それから、やはりこういう時代ですから、エネルギー問題を含めて再生可能なエネルギーとか低公害車、こういうものを導入する。それから、福祉都市であればバリアフリー化ということをやらないといけない。外国人にとっても言葉のバリアをなくすということをやらないといけないので、安心と希望に満ちた優しい、そういう東京をつくっていきたいと。
 それから、やっぱりスポーツというこの魅力というものを世界に発信できるような、例えば柔道を見てもわかりますけど、これは世界中のスポーツになりました。そういうメッカとしての東京をさらに発展させていきたい。
 将来、五十年後、百年後に振り返ったときに、二〇二〇年で東京、日本は大きく変わったなと、あのオリンピックはすばらしかったなと、パラリンピックはすばらしかったなと、そういう思いでやりたい。
 ただ、先般、IOCのバッハ会長ともお話ししたときに、六年あると思って安心しちゃだめだよと、六年しかない。私は、本当にもう時間は限られてきていると。六年といったって、一年前に完成しておかないといけないわけですから、五年でやるということで、ぜひ皆さん方の協力をお願いしたいと思います。

○高木委員 そのとおりだと思います。ですから、知恵と努力で切り抜けていかなければいけないんだろうと思います。
 オリンピックのレガシーというのは、これから残していくものはもちろんなんですが、過去から引き継いでいくものもしっかり引き継いで、それを後世に伝えていくというのが、今を生きる私たちの務めであろうと思います。
 私は、そういう意味では、都市政策としてのそうしたさまざまな施設としての、あるいはまちづくりとしてのレガシーと、もう一つ大事なのは、やっぱり都民、国民に対する心の中のレガシーだと思います。
 そこで、六年後の開催までの間の機運醸成に対して、具体的にどのように取り組んでいくのか。それが私は心のレガシーに当然直結をしていくものだと思いますから、そういうテーマについて今どのようにお考えになっているのか、お答えいただきたいと思います。

○中嶋オリンピック・パラリンピック準備局長
委員ご指摘のように、二〇二〇年大会の成功には、都民の機運醸成が不可欠でございます。そのため、都では、開催に向け、参加体験型のスポーツイベントなど、都民の誰もがスポーツに触れて楽しめる機会を継続的に実施いたしまして、スポーツへの理解と関心を高めてまいります。
 特にパラリンピック開催に向けまして、障害者スポーツへの理解促進にも一層力を入れてまいります。また、教育・文化プログラムや、外国人をおもてなしをするボランティアの育成など、多様な取り組みを積極的に展開してまいります。
 これらの実施に当たりましては、関係機関や自治体と十分な調整を図るとともに、メディアを活用した情報発信などを通して幅広く都民に参加を促すことで、都民と都が一体となって開催機運を盛り上げてまいります。こうした貴重な経験が、大会後のレガシーとして都民の心にいつまでも残るよう、全力で大会準備に取り組んでまいります。

○高木委員 どうぞ地元各区市町村とよく連携をして、自発的にいろいろなことをできるような仕組みを促していただきたいと思います。
 たまたま私の地元では、昭和三十九年のオリンピックのときに、区内の町会、自治会の一部の方々が自分たちで聖火をつくって、町会が次々と聖火を渡していくという、そういうイベントをやったようでございます。先日、そのお写真も見せていただきましたが、そういうことを通じて機運醸成をしていく。つまり、オリンピックを開催する都市の住民として、やはり自分たちが責任を持って外国の皆さんをお迎えをするんだというぐらいの、そういう機運醸成にぜひ努力をしていただきたいと思っております。
 次に、世界一の東京をつくるためには、やはり私は避けて通れないのは、東京の食の安全・安心であろうと思います。豊洲新市場の整備についてお伺いをしたいと思います。
 東京が食の都であることは内外から高く評価をされておりまして、ミシュランの星つきレストランの数の比較でも、ロンドンは五十五店舗、ニューヨーク六十二、パリ七十七であるのに対して、東京は二百四十二なんです。まさに桁外れの、桁違いの圧倒的な数値なんです。東京はまさに、そういう意味では世界一の美食の町であるというふうにいえると思います。
 昨年、富士山の世界文化遺産登録とともに、和食が世界無形文化遺産とされたことは、日本人にとっても大変喜ばしいことであったと思います。
 東京の食を支える市場は、築地市場を中心とした中央卸売市場にほかならないわけで、これまで長期間にわたって議論をしてきた結果、豊洲新市場への移転、再整備は、いよいよ二十七年度開場に向けて施設建設に入ることになったわけでございます。
 ところで、ここへ来て、業界と市場当局とのコミュニケーション不足が露呈をいたしております。第十五回新市場建設協議会が、二月二十一日におよそ一年三カ月ぶりに開催をされました。その議事録を先般読みましたけれども、議論は、施設の建設工事を既に発注している段階のものとは、ほど遠い感じが私はいたしました。
 そこで、お伺いをいたしますが、業界とのコミュニケーション不足がこうして露呈をする中で、業界と一体となって豊洲新市場への移転をどういうふうにして進めていくのか、市場長の決意を聞かせていただきたいと思います。

○塚本中央卸売市場長 委員ご指摘の新市場建設協議会の開催が一年三カ月ぶりになったことなど、市場業界とのコミュニケーションが不足していたことを改めて痛感しております。
 今後は、新市場建設協議会、新市場建設懇談会、その下部組織であります水産、青果などの各検討会を随時開催し、情報提供するとともに、業界が感じている新市場建設に対するさまざまな不安や疑問を真摯に受けとめまして、意見交換、集約を積極的に進めてまいります。
 また、移転への不安で一番大きなものは、資金面での問題でもございますので、市場業者への支援といたしまして、利子補給事業の充実、経営が厳しい市場業者等を対象にした組合転貸融資など独自の制度を創設するとともに、環境負荷低減、省エネルギー型設備を導入した際の補助や業界団体への融資を新たに実施することとしておりまして、これらを活用することにより、不安を軽減させてまいります。
 日ごろから意思疎通を密にすることによりまして一つ一つの課題を解決し、合意形成を図りながら、豊洲新市場への移転に向け、業界と一体となって取り組んでまいります。

○高木委員 次に、国際的にも通用する市場ということが、先般知事の本会議の答弁で出されたと思います。国際的に通用するとは、どのような基準なんでしょうか。

○塚本中央卸売市場長 豊洲新市場が目指す国際的に通用する市場とは、多種多様な食材が大量に集まり、国内外に幅広く流通していく拠点として高く評価される市場と考えております。
 都は、こうした認識のもと、温度管理機能を備えた閉鎖型施設による品質、衛生管理、十分な荷さばき場、さらに多様な顧客ニーズに対応できる新たな施設の設置等を掲げた施設計画をまとめ、先月、建設工事に着手いたしました。
 今後さらに、国際的な標準として世界的に普及が進展しているHACCPの考え方を取り入れた商品の取り扱いマニュアルの策定や、低コストかつ効率的な物流実現のための方策を市場業界と一丸となって進めてまいります。
 これらハード、ソフト両面の取り組みを着実に進め、豊洲新市場から流通する食材が、国内はもとより、海外からも豊洲ブランドとして評価される市場を実現してまいります。

○高木委員 ぜひ国際的に通用する市場をつくっていただきたいと思います。
 知事、ご存じでしょうか。今の築地市場の商品は、ヨーロッパでは流通できないんですね。これは安全衛生基準の問題です。ですから、そうしたものが世界一の市場から、世界一厳しい安全衛生基準のところでも流通ができる、そういう市場をつくるということが私たちの夢であったわけでありますから、ぜひその点をご留意いただきたいと思います。
 舛添知事になったからには、国際的にも通用するのは前提として、世界一の市場を目指してほしいと私は思います。世界一の美食の町東京を支えるのは豊洲新市場であるべきでありまして、知事の見解をお伺いしたいと思います。

○舛添知事 東京の豊かで多彩な食を支える卸売市場は、生鮮食料品の供給という役割を通じて我が国の食文化を発信することにより、東京の魅力を国内外にアピールすることができる存在であるべきだと考えております。
 現在の築地市場は、水産物では世界一の取扱高を擁し、日本全国、世界中の産地から旬の食材や珍しい食材が大量に集まり、それらの品質や価値を適正に評価する目ききの力などにより、国内外から築地ブランドと評価されております。
 豊洲新市場は、こうした築地市場の魅力を継承するとともに、国際的に評価される手法を取り入れた高いレベルの食の安全・安心の確保や効率的な物流の実現、多様なニーズへの対応を図り、将来にわたり質のよい多種多様な食材を広範に提供する市場としてまいります。
 豊洲新市場が、世界一の都市東京の食を支える卸売市場となるよう、今後も市場関係事業者と密接に連携しながら取り組んでまいります。

○高木委員 ぜひよろしくお願いしたいと思います。
 続きまして、国家戦略特区についてお伺いをいたします。
 国家戦略特区は、ぜひ進めていただきたい政策の一つでありますが、私はこうした戦略特区は、東京全体に幅広くメリットが行き渡るように取り組みを進めていかなければいけないんだろうと思います。国家戦略特区について、知事の考えをお伺いいたします。

○舛添知事 国家戦略特区は、地域を限定し、先行的に大胆な規制、制度改革を行って、民間企業が事業活動しやすい環境を整備して、その効果を広く全国に行き渡らせようというものであります。
 これまでの取り組みでは、誘致しました外国企業と都内の中小企業との業務提携による新しいビジネスの動きも出ており、その効果は、特区内に限らずにあらわれております。安倍政権と軌を一にして、国家戦略特区を実のあるものとするため、庁内メンバーによるタスクフォースを先日立ち上げました。東京が日本を牽引する機関車の役割を果たすために、この特区を最大限に活用したいと思っております。

○高木委員 最後に、産業政策について伺います。
 女性・若者・シニア創業サポート事業というのを、先般の代表質問でご答弁をいただいたと思います。この女性・若者・シニア創業サポート制度は、これから期待をされる創業支援でありますので、この中身について詳しくご説明をいただければ幸いであります。どうぞよろしくお願いします。

○塚田産業労働局長 来年度開始する女性・若者・シニア創業サポート事業では、信用金庫や信用組合が地域に根差した創業を目指す有望な女性、若者、シニアに対して創業資金を融資いたします。都が融資原資を拠出するとともに、そのリスクを負担することで金融機関の積極的な資金供給を促します。
 また、融資利率も上限一%以内と低い水準とし、最長三年まで元本の据え置きを可能とするなど、事業が軌道に乗るまでの創業初期の返済負担を極力抑える内容といたします。
 さらに、金融機関と連携して事業プランなどへの助言を行う地域創業アドバイザーを設置し、経営面からの手厚いサポートも提供いたします。地域の金融機関が資金と経営の両面から支援するこの新たな枠組みを通じて、多くの創業を生み出してまいります。

○中屋副委員長 高木けい委員の発言は終わりました。(拍手)

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