調査報告

はじめに

(アテネ班)左から、崎山知尚団員、櫻井孝次JOC理事、ナジール・メイン運営センター責任者、山崎孝明団長、近藤やよい団員、中嶋 義雄団員 (ロンドン班)左から、服部ゆくお団員、谷村 孝彦団員、野村有信団長、石森たかゆき団員、藤井 一団員

 東京都は、2016年夏季オリンピック競技大会招致を目指し、平成18年8月30日に開催された国内立候補都市選定委員会で、国内立候補都市に決定した。

 次なるステップは、2009年にコペンハーゲンで開催されるIOC総会において、開催地として勝ち抜くことであるが、これと軌を一にして、東京都議会でも、平成18年3月にオリンピック招致決議を採択、10月にはオリンピック招致特別委員会を設置するなど、招致活動を本格化させることとなった。

 今回の調査においては、東京都議会を中心に、東京オリンピック招致本部、日本オリンピック委員会(JOC)の三者が一体となり、アテネ、ロンドンの2班に分かれ、それぞれの班において、総合的な観点から様々な調査を実施した。

アテネ班

(1)ドバイ
アラブ首長国連邦データ
人口 432万人(2004年)
首都 アブダビ
公用語 アラビア語
宗教 イスラム教
面積 8万3600平方キロメートル
通貨 ディルハム
民族 アラブ人(アラブ系、アジア系も多い)
歴史 <概略>
紀元前3000年頃の居住痕が存在
7世紀、イスラム帝国、のちオスマン・トルコ、ポルトガル、オランダの支配を受ける
18世紀、アラビア半島南部から移住した部族が基礎を作る
1892年、英国の保護領
1968年の英国のスエズ以東撤退後、1971年アブダビ及びドバイを中心とする6首長国(翌年1首長国参加)が統合して、7首長国による連邦制が成立、現在に至る
経済 主要産業:石油

(外務省ウェブサイトなどにより作成)


ジェトロ・ドバイ事務所訪問及び臨海開発工事現場視察

パーム・ジュメイラ完成予想図

 ドバイでは、それほど遠くない将来に予想される資源枯渇に備え、石油資源への依存から、アジアでの香港やシンガポールのように、中東での金融取引や流通拠点としての脱皮を図るべく、インフラ整備が急ピッチで進められている。

 今回、ジェトロ・ドバイ事務所を訪問し、皆木所長から近年の中東の経済情勢やドバイで行われている急速な開発状況について、お話を伺った。

 市内での移動中も多数の高層建築現場が目に付いたのだが、説明によると、1980年代以降行われた大きな政策転換や、外的環境として、湾岸地域におけるオイルマネーの集中的な投資などがあり、現在、ドバイにおいて世界で最も急速な開発が行われているということであった。街中の至る所にクレーンが林立し、建設現場では、多くの外国人労働者がその任に就いている。

 開発の規模、速度共に日本では考えられない開発の様子に非常に感銘を受けた。高容積率のオフィスビルの建設や、入り江に運河を引きオアシスを造るなどの高級別荘地としての開発、さらには海を埋め立て、人工島を造り世界の投機筋などに売却するという。ちなみに、サッカーのベッカム選手などもこの地で別荘を取得済みとのことである。

 その後、臨海開発工事現場視察を行った。椰子の木をかたどった人工島であるパームジュメイラの地下トンネル工事現場では、建設コストで比較すると、当然橋を架ける方が建設費が安いが、帆船のマストが橋脚に当たってしまうため、地下トンネルの発注であったということであった。

アテネ

ギリシャ共和国データ
人口 1094万人(2001年)
首都 アテネ(人口約300万人)
(行政単位としてのアテネ市と、地域としてのアテネ(大アテネ)の2通りの捉え方がある。)
公用語 現代ギリシャ語
宗教 ギリシャ正教
面積 13万平方キロメートル(日本の約3分の1)
通貨 ユーロ
民族 ギリシャ人(その他トルコ系、ユダヤ系など)
歴史 <概略>
古代よりミノア文明、ミケーネ文明多数の独立した都市国家(ポリス)が存在、戦争が絶え間なく続く
紀元前2世紀にはローマ帝国の属州に
ローマ帝国分裂後は東ローマ帝国に属する
1453年、東ローマ帝国が滅亡。以後オスマントルコの統治下に置かれる
1821年の独立戦争でトルコ軍を撃退、1830年に独立を達成。その後共和制、王政、軍事政権などを経て、1974年、国民投票で君主制廃止、共和制となり現在に至る
経済 主要産業:海運、観光、農業、軽工業、製鉄、造船(農業では、オリーブ、綿、葉タバコなど)

(外務省、ギリシャ政府観光局ウェブサイトなどにより作成)

決定までの経緯

 アテネは、近代オリンピック開催100周年を記念して、1996年大会に立候補したものの、結局はアトランタに敗れた。6都市が立候補した開催地決定投票では、第2回投票までアテネがトップ。第3回投票で、アトランタがトップに並び第4回投票で逆転。第5回の決選投票でアトランタ51票、アテネ35票という結果となりアトランタに決定した。このとき、オリンピックの原点回帰という理念を訴えるアテネに対し、多くのスポンサー獲得が期待できるアトランタが勝ったことで、オリンピックは空前の商業主義的な大会となり、「理念より商業主義の選択」との批判もあるなど、その行き過ぎが問題となった。

 そして、再びオリンピック開催を目指し、2004年大会に立候補したアテネは、1997年のIOC総会で、11都市から5都市へと絞られた開催地決定投票で終始トップを走り、第5回の決選投票では66票を獲得。41票のローマを抑え、アテネでの108年ぶりのオリンピック開催が決定した。

2004年夏季オリンピック大会開催地決定投票結果
都市 1回目 2回目 3回目 4回目 5回目
アテネ ギリシャ 32 38 52 66
ローマ イタリア 23 28 35 41
ケープタウン 南アフリカ 16 62 22 20
ストックホルム スウェーデン 20 19
ブエノスアイレス アルゼンチン 16 44

開催までの準備

 2004年のアテネオリンピック成功の立役者として、二人の女性なくしては語れないといわれている。ヤーナ・アンゲロプス アテネオリンピック組織委員会会長と、ドーラ・バコヤンニ アテネ市長である。

 1997年の開催地決定から、2004年のアテネオリンピック開催までの7年間のうち、最初の3年間は、ほとんど手付かずの状態であったが、2000年にアテネオリンピック招致委員会の会長であったヤーナ・アンゲロプス女史をアテネオリンピック組織委員会の会長に任命したことによって、開催に向けての準備が一気に加速した。そして、実質的には、残りの4年間での突貫作業であったといわれている。

 しかし、オリンピック開催が間近に迫っても、メインスタジアムなどの競技場や、路面電車、地下鉄、郊外鉄道などの交通機関も建設中であったことから、メディアによって大会準備の遅れが大きく報道され、開催自体を危ぶむ声もかまびすしかったという。特にIOCのロゲ会長からは、ギリシャ政府に対して準備の遅れへの懸念が指摘され、開催まで5か月に迫ったときには、IOCから、就任間もないギリシャの新首相に対し、工事の遅れを指摘する施設のリストが渡され、2週間の期限付きで回答を求められるなど、事実上警告ともとれる通達を突きつけられた。

 そして、様々な問題を乗り越えて、1日約60万人の観客を移動させるために必要なインフラの整備は、開催直前のぎりぎりのところでなんとか完成をみたという。

ギリシャオリンピック委員会(HOC)訪問

 ギリシャオリンピック委員会(HOC)を訪問し、持参したキリアコウ会長あての石原知事の親書を、山崎団長から、ツサローハ事務局長に手渡した。

 その後、アテネオリンピックについての説明と質疑に入った。その中では、HOCのスタッフは約100名で、アンチ・ドーピングや医・科学などの研究者などもスタッフに含まれるなど、非常に充実した陣容となっていることがうかがえた。ここでは、担当者から会場の配置や各施設の詳細などについての様々な話を伺うことができた。

ヘレニコン地区視察

 ヘレニコン地区は、選手村から約25キロメートルの距離に位置するアテネオリンピックの会場の1つで、旧アテネ国際空港の跡地を利用して整備され、スラローム、野球、ソフトボール、バスケットボール、ホッケー、フェンシングなどの競技場が配置されている。

 アテネ市内からは1時間半あまり、足を踏み入れての第一印象は、「兵どもが夢の跡」。人の気配がまったく無く、風がとても冷たく感じられた。ここでは、施設管理者の案内により会場内を視察した。説明によると、市内からは離れているということもあって、現在は、音楽祭などの催しなどに使用される程度で、ほとんど使用されていないという。特に、野球やソフトボール会場については、ギリシャ国内に競技者がほとんどいないため、まったく使用されていないとのことであった。ここにはトラムの車両基地はあるが、付近は人影もまばらで、中心部からの足が少ない遠隔地におけるスポーツ施設の後利用の難しさというものを感じた。隣接するセーリング会場も視察したが、施設が巨大であるため、維持管理は非常に難しいのではないだろうか。アテネは、東京などと比べると、後背の人口が著しく少ないことから、このような施設を維持し、適切に管理していくのは厳しいことと思われる。

アテネオリンピックスポーツコンプレックス(OAKA)視察

 アテネオリンピックスポーツコンプレックス(OAKA)は、2004年大会当時のメインクラスターで、開・閉会式や陸上競技などが行われたメイン会場や自転車・水泳・テニスなどの競技会場を配していた。ここでは、施設管理者からオリンピックスタジアムの説明を受けた。

 元々は、1996年のオリンピック招致のために建設された施設であるが、そのときはアトランタに敗れたため、この間、世界陸上などの大会にも使用された。設計は、スペインのサンティアゴ・カラトラヴァ氏。オリンピックスタジアムは、7万5000人収容であるが、35箇所もの出入口があるため、観客は10分ほどで入場が可能とのことであった。特徴として、選手や観客を直射日光から保護する目的で、天井の屋根にポリカーボネートが採用されている。ちなみに、2007年5月23日、欧州サッカー連盟(UAFA)のチャンピオンズリーグで決勝戦会場となる予定である。

開催期間中のアクセス

 アテネオリンピックの開催国として、ギリシャ政府が最も頭を悩ませたのは渋滞対策であった。ギリシャには、車庫証明制度が無いため、朝夕のラッシュ時はもちろんのこと、日常は道路の両脇にびっしりと駐車車両が縦列しており、アテネ市内は慢性的な交通渋滞であった。また、アテネ市民の交通マナーは、決して良いとは言い難く、交通死亡事故の割合は、EUではポルトガルに次いでワースト2位だそうである。今回の調査でも、平日の午後とはいえ、市内にあるギリシャオリンピック委員会の建物からヘレニコン地区まで、実際のバスでの移動には約1時間半も要した。説明によるとオリンピック開催期間中は、駐車車両の徹底した取締りのほか、幹線道路にはオリンピック専用レーンを設け、一般車両の通行を厳しく規制したとのこと。また、オリンピックに間に合わせて整備された高速道路によって、選手村から各競技施設までは30分以内での移動が可能となるなど、結果としては、懸念された渋滞もなく、大会運営上の問題はほとんど無かったようである。

 また、観客の移動については、開幕に間に合わせて整備された地下鉄やトラム、バスなどの公共交通機関を、観戦チケットを持っていれば無料で利用でき、この他、運行の許可されたオリンピック指定タクシーなどもあったということである。

選手村

 アテネオリンピックスポーツコンプレックス(OAKA)から10キロメートルほどに位置する選手村の跡地については、車窓から視察した。選手村は3から4階建ての低層建築物で構成されており、大会の終了後に低所得者向けに分譲されたとのことである。碁盤目に区画整理されており、現在は住宅街となっているが、街路樹もまだ若木で、街並みや時折見かける住民の雰囲気など、新興住宅地とはいえ、どことなく活気に乏しい感がした。

五輪史上最高レベルのテロ対策

 2000年のアメリカ同時多発テロ以降、初のオリンピック開催であり、テロ対策に要した経費は、12億ユーロ(約1600億円)にまで達したという。さらに、アテネオリンピックの警備に関わったギリシャ軍兵士は約5万人、警察官は約7万人にも上った。オリンピックの警備は公安省の管轄であり、当初は、ギリシャ軍の支援計画は3500人であったが、その後、7000人、1万人と徐々に増強されていき、最終的には、当初計画の約15倍に膨らんだことになる。ギリシャ軍は領海や領空の安全確保のほか、鉄道や空港、港湾、競技会場の警備や要人警護なども担当し、オリンピックの警備のために、合わせて234機の軍用機やヘリコプター、51隻の艦艇、地対空誘導弾パトリオットなどを含む28基もの対空ミサイルなども配備するなど、史上空前の態勢でのテロ対策となった。

空席の目立った観客席と空きホテル

 アテネオリンピックでは、大会期間中の観客席の空席が目立ったという。大会直前の2004年6月23日時点で、大会のすべてのチケット530万枚のうち、売れたのはわずか190万枚であったという。地元紙の世論調査によると、大会期間中は、バカンス時期であるということもあり、郊外に出掛ける人も多く、また、低所得層などは、無理をして高額なチケットを手に入れるよりも、自宅や保養先でテレビ観戦するなどとして、約6割もの人がチケットを買わないと答えていた。また、オリンピック組織委員会の分析によると、スポンサーの割当てチケットがあまり利用されなかったことも、空席の理由とされている。

 一方、宿泊施設についてもその不足が予想され、アテネ市内及び近郊を含めた付近一帯のホテルの収容規模は、2万7000室、5万7000ベッドであった。これに加えオリンピックのために建設されたのは、わずか2000室、4000ベッドであり、宿泊施設不足への対策としてクルーズ船11隻を停泊させ、3300キャビンを確保するなどした。また、民泊プログラムを策定し6000軒の確保を目標としたが、各種条件が満たされず確保できたのは約1000軒のみであった。このため、アテネ市の中心部から90キロメートルも離れたホテルを組み込んだパッケージツアーが販売されるなど、宿泊施設の不足が深刻であった。そして、これによりホテルの宿泊代金は高騰し、中クラスのダブルベッドクラスでも500ユーロ(約6万6000円)に達したという。

 しかし、これは旅行代理店とのミスマッチともいわれているが、結局、市内のホテルでも空室が目立つ結果となった。地元紙の報道によると、『ホテルに空きがあるのは確か。でも市場に出すのが遅すぎた。』という旅行会社のコメントが掲載されたそうである。

オリンピック開催のための予算と総経費

 オリンピック開催のための予算は、46億4000万ユーロ(約6125億円)であったが、その一方で実際の総経費は120億から130億ユーロほどと言われている。(ちなみに2005年5月頃の現地報道では約89億5000万ユーロと伝えられていた。)ただし、実際の経費の詳細については公開されていないとのこと。競技場を始め交通機関などのインフラの建設費や、テロ対策費などへの出費が、大幅に経費を膨らませたことの要因とされる。

 結局は、オリンピック開催が、ギリシャ政府のアテネオリンピック開催後の財政を逼迫させる要因ともなった。EU加盟国においては、財政安定成長協定で、財政赤字を国内総生産(GDP)比の3%以内とすることとされているが、ギリシャにおいては、2005年にはそれが6.1%にまで達し、これが2年連続の協定違反となったため、EUから厳しい財政再建が求められたという。ギリシャ政府は、財政赤字をGDP比の3%以内に縮減するための復興計画を立てて、これを現在実施中であるとのことである。具体的な対策としては、様々な歳出削減策と増税や公共料金の値上げ、徴税の強化などの歳入増加策に取り組んでいるというが、一方で、インフレ率の上昇によって、教員や公務員のストライキが頻発するなど、国民の家計には大打撃となっているという。

108年ぶり、発祥の地の聖火台に燈が灯った

 1896年、アテネで開催された第1回近代オリンピック大会から108年、これまでの商業主義が批判され、サマランチ会長に代わりジャック・ロゲIOC会長の就任後初めての大会となったのが、2004年のアテネオリンピックである。

 新たな課題として、肥大化するオリンピックに歯止めをかけるための競技種目の絞込みや、地球環境に配慮した大会などが求められてきたなかで、人口1100万人余りの小国であるギリシャにとって、オリンピック開催は、財政的に大きな負担となったようである。また、招致が決まってからも、開催を反対する意見や、準備の遅れ、テロの危険性などもあって、メディアを中心としたネガティブな報道がなされ、イメージダウンは避けられなかった。しかし、批判される負の遺産を差し引いてみても、世界的なイベントであるオリンピック開催の成功は、ギリシャ国民にとって、自信と誇りとを再び取り戻す大きな機縁となったことを確信した。

進まない施設の跡地利用

 アテネオリンピックの施設で、唯一その跡地が有効に活用されているのは、住宅地となった選手村のみといえる。その他の施設の利用については、いまだ確たる跡地利用計画もなく、早期に入札するなどして決定したい旨の説明があったが、その見通しについては、不透明であるような感触であった。結局は、開催が決定し、組織委員会をつくり、開催に向けた態勢を整え、無事大会は成功させたものの、肝心な大会終了後の跡地利用計画については、なおざりにされてしまったかのようである。

北村駐ギリシャ大使との懇談

 アテネでは、北村大使と懇談させていただく機会に恵まれた。今回の調査に同行したJOCの櫻井理事と北村大使が知り合いであるということもあり、始めから非常にリラックスした雰囲気で始まった。

 こちらからは、東京都が2016年の開催を目指し招致活動を行っていくオリンピックの概要及び計画などについて説明を行い、協力を要請した。これに対し、北村大使からは、機会のあるごとに東京の招致への協力はいたしましょうとの快諾をいただいた。

 また、北村大使から、当地で開催されているアテネマラソンへの日本人ランナーの一層の参加促進についての協力要請があり、これに対し、山崎団長から、来年2月の東京大マラソン祭りでブースを設け、これに参加してみてはどうかという提案を行うなど、終始和やかな懇談となった。

 後日談として、この懇談でのやり取りが、平成19年2月16日、17日の2日間にわたって、東京マラソン2007のプレ・イベントとして東京ドームで開催された「東京マラソンEXPO 2007」におけるアテネクラッシックマラソンの紹介ブースの出展につながり、アテネマラソンの積極的なPR活動が行われるとともに、アテネマラソンと東京マラソンの連携に結びついたのである。

ドーハ

カタール国データ
人口 74万4000人(2005年)
首都 ドーハ
公用語 アラビア語
宗教 イスラム教
面積 1万1427平方キロメートル
通貨 カタール・リヤル
民族 アラブ人
歴史 <概略>
18世紀から19世紀にかけてクウェート、アラビア半島内陸部の部族構成が成立
1916年、英国の保護下に入る。
1968年の英国のスエズ以東撤退後、1971年独立を達成、現在に至る。
経済 主要産業:石油
(外務省ウェブサイトにより作成)

ドーハアジア大会組織委員会(DAGOC)訪問

 ドーハでは、まさに開催直前のドーハアジア大会組織委員会(DAGOC)を訪問し、山崎団長から、石原知事の親書を手渡した。その後、ナジール・メイン運営センター責任者から、大会運営の準備状況についてお話を伺った。この組織委員会の事務所では、様々な国籍の人々が働き、実に活気のある様子であった。

大会のマスコット

<ドーハアジア大会について>
【概要】
名称:第15回アジア競技大会(2006/ドーハ)
期間:2006年12月1日から15日(15日間)
開催地:カタール・ドーハ
主催:アジアオリンピック評議会(OCA)
運営:第15回アジア競技大会組織委員会(DAGOC)
参加国:45の国と地域
実施競技・種目数:39競技・423種目

これまでのアジア競技大会一覧
開催期間 開催都市 参加国 参加選手数 競技数
月日
1 1951  3月 4日から 3月11日 ニューデリー 11 約500 6
2 1954  5月 1日から 5月 9日 マニラ 18 1241 8
3 1958  5月24日から 6月 1日 東京 20 1692 13
4 1962  8月24日から 9月 4日 ジャカルタ 17 1527 14
5 1966 12月 9日から12月20日 バンコク 18 約2000 14
6 1970 12月 9日から12月20日 バンコク 18 1802 13
7 1974  9月 1日から 9月15日 テヘラン 25 2672 16
8 1978 12月 9日から12月20日 バンコク 27 2876 19
9 1982 11月19日から12月 4日 ニューデリー 33 4635 20
10 1986  9月20日から10月 5日 ソウル 27 4786 25
11 1990  9月22日から10月 7日 北京 37 6122 27
12 1994 10月 2日から10月16日 広島 43 6828 34
13 1998 12月 6日から12月20日 バンコク 41 9780 36
14 2002  9月29日から10月14日 釜山 44 約9900 38
15 2006 12月 1日から12月15日 ドーハ 45 12500 39
16 2010 11月12日から11月27日 広州 - - -

敵情視察となったドーハ

 ドーハ滞在中に、東京が開催を目指す2016年夏季オリンピック招致に、カタールが名乗りを挙げることに前向きであるという一報が入り、今回の調査は、敵情視察の様相も呈することとなった。今回のドーハでの調査を通じて、アジア大会開幕を目前にして、本大会運営の成功という実績をもって、オリンピック開催能力があることを国際社会にアピールするため、カタールが国家プロジェクトとして取り組む姿勢というものを強く感じた。

 ナジール氏の説明によると、ドーハアジア大会組織委員会(DAGOC)のスタッフは、現在約3000人で、うちカタール人は360人、その他は外国籍であり、聞くところによると、数多くのイベントを手がけ、世界中を渡り歩くエージェントの専門スタッフらの手によって大会運営がなされているとのこと。これはアジア大会に限らず、オリンピックを始め世界的なイベントでは常識的なことだそうである。さらにメディアセンターも開設し、選手村も完成したばかりで、開会を3週間後に控え、準備も着々と整いつつあると述べるなど、大会成功への自信がうかがえた。

選手村

選手村の様子 選手村の様子の写真

 車窓から視察した選手村は、広大な敷地に真新しい低層建築が広がっていた。街の至る所にアジア大会の看板やバナーが飾られており、街を挙げて盛り上げようという雰囲気も伝わってきた。港には大型豪華客船が停泊しており、大会期間中の宿泊場所として活用されるということであった。ドーハは、街の規模がとても小さく、都市機能でみると、必ずしも国際大会を十分運営できる規模とは言えないため、それを克服するための様々な手段を講じているようであるが、インフラの絶対数が不足しており、大会開幕後の相当な困難が予想された。

交通アクセス

バスヤードの様子 バスヤードの様子の写真

 鉄道のないドーハでの唯一の交通手段は、車である。市内では乗合バスもほとんど目に入らず、せいぜい労働者を輸送する小型バス程度であった。

 しかし大会期間中は、1万人を超える選手・スタッフの移動には専用バスが用意され、2箇所あるバスヤードには、それぞれ370台と500台もの車両が配置され、その輸送に対応するとのことである。

スポーツセンター視察(アスパイアドーム、ハリファ競技場など)

 施設担当者の方の案内で、ドーハアジア大会のメイン会場であるアスパイアドームとハリファ競技場を視察した。

 このうちアスパイアドームは、サッカーグラウンドやプールなど7つの競技施設を有する全長240メートルを誇る巨大な体育施設である。この施設は、世界に通用するアスリート養成を目指して創設されたアスパイア・アカデミー内にある。その一部についてはいまだ未完成であり、目前に迫った開幕に間に合わせるため、急ピッチでの工事が進められていた。大会終了後は、青少年のスポーツ育成施設などとして活用されるとのことであった。

 また、ハリファ競技場は、アジア大会のメインスタジアムであるが、ここは、観客席とグラウンドが至近となった設計で、非常に立派な施設であると感じた。しかし、まだ完成には至っておらず、あちらこちらで工事が行われていた。

 中ではちょうど開会式に向けたリハーサルが行われていた。なにやらアラビアンナイトをモチーフにしたアトラクションのようで、槌音が響き、とても活気がある様子であったが、内容は開会式まで非公開であるとのことで、写真を撮ることは許されなかった。

在カタール日本大使館訪問、堀江大使表敬

 在カタール日本大使館に堀江大使を表敬訪問し、ドーハアジア大会を目的としてカタールを訪問する邦人支援などについてのお話を伺うとともに、東京都の目指すオリンピック計画について説明し、協力を要請した。

 堀江大使からは、カタールの国情についての説明もあった。面積は、秋田県ほどの小さな国であるが、豊富な天然資源を背景に欧米の石油・天然ガス資本の誘致を積極的に進めているという。また、質の高い教育や青少年のスポーツ振興にも積極的に取り組み、アメリカの大学や研究機関を誘致するなど、人材の育成に巨費を投じている。そして訪問中は迷彩服や軍の車両などはまったく目に付かなかったが、イラク戦争中に報道機関に対し連日ブリーフィングを行っていたのが、カタールの米軍基地だそうである。特に驚いたのは、ドーハには中東の衛星テレビ局アルジャジーラの本部も置かれていて、低い建物であるが、大きなパラボラアンテナが設置されており、中東の地から絶妙のバランスによる全方位外交を展開しているのだそうである。

東京オリンピック招致に向けて

 約50年ぶりの開催となるオリンピック招致に向けて、東京都は本格始動した。今回の調査は、東京都が開催都市となるために必要な条件整備や、オリンピックの仕組みなどを知る上で貴重な調査となった。東京オリンピック招致本部や日本オリンピック委員会(JOC)と一体となった調査を実施できた点、ギリシャ及びカタールで駐在大使との面談の機会を得ることができた点、また、調査団の中でも招致運動の進め方について議論したり、的確で有益なアドバイスを得ることができた点なども大きな収穫となった。

 世界最大のイベントであるオリンピックには、単なるスポーツ競技ではなく、商業主義の見直し、環境問題などへの新たな対策が求められており、オリンピックには単なるスポーツの祭典にとどまらない要素が付加され続けているともいえる。

 オリンピック招致に当たって、これらすべての要請に応えるのは至難の業ではあるが、周到な検討や準備で答えを出していく必要がある。また、2009年、コペンハーゲンでのIOC総会における開催地決定を目指して、総力を挙げて招致活動に取り組まなければならない。

 そして、東京都議会としての役割は、IOCにおける選考の帰趨を左右するといわれる都内・国内の招致機運の醸成にあるといえる。都民・国民の賛同を得るためのあらゆる方策をとることが肝要である。

ロンドン班

(1)ロンドン
英国データ
人口 6021万人(2006年)
首都 ロンドン(人口約719万人、2001年)
公用語 英語(ウェールズ語、ゲール語使用地域あり)
宗教 英国国教など
面積 24万3000平方キロメートル(日本の約3分の2)
通貨 スターリング・ポンド
歴史 <概略>
44から410年、ローマ帝国の支配
1066年、ノルマンディ公ウイリアムの征服
1707年、スコットランド・イングランド両王国合併
1801年、グレートブリテン及びアイルランド連合王国成立
1952年、エリザベス2世女王即位
1973年、拡大EC加盟
1997年、ブレア労働党内閣成立
経済 主要産業:航空機、電気機器、エレクトロニクス、化学、金属、石油、ガス、金融
(外務省ウェブサイトにより作成)

ロンドンオリンピック決定の経過

 2005年7月6日、シンガポールで開催されたIOC総会初日に行われた投票において、ロンドンが2012年の第30回夏季オリンピック開催地に決定した。

 当初、この大会に立候補していた都市は9都市であったが、2004年に行われた第1次選考で、イスタンブール・ハバナ・ライプチヒ・リオデジャネイロの4都市がふるい落とされ、ロンドン・パリ・マドリード・ニューヨーク・モスクワの5都市による、この日の開催地決定投票となった。

 投票前の大方の予想では、パリが最有力とされていたが、ふたを開けてみると、決選投票に持ち込まれるという激戦の末に、わずか4票という僅差でロンドンがオリンピック開催の栄冠を手にした。

2012年夏季オリンピック大会開催地決定投票結果
都市 1回目 2回目 3回目 4回目
ロンドン イギリス 22 27 39 54
パリ フランス 21 25 33 50
マドリード スペイン 20 32 31
ニューヨーク アメリカ合衆国 19 16
モスクワ ロシア 15

 投票の前に行われた各都市によるプレゼンテーションは、いずれの都市についても優劣をつけがたいぐらいというすばらしい内容であったと伝えられているが、このときのロンドンの勝因については様々な点が挙げられる。

トラファルガー広場でロンドンの勝利を祝う人々 トラファルガー広場でロンドンの勝利を祝う人々の写真
上記の写真は、いずれもロンドンオリンピック組織委員会ウェブサイトによる。(http://www.london2012.org/

 ロンドンは、そのスローガンとして、『オリンピックを契機とした青少年へのスポーツの奨励』を掲げ、当時荒廃が進んでいたロンドン郊外のストラットフォード地域の再開発に絡めたコンパクトな主会場構想や、オリンピック閉会後の施設利用計画などが高い評価を得たとされている。

 また、IOC総会にサッカーのデービッド・ベッカムを送り込んだり、ブレア首相自らがシンガポールに赴いて、活発なロビー外交を行うなど、国を挙げての招致合戦を繰り広げたことも勝因の一つとされている。

 ロンドンでのオリンピックの開催は、2012年大会で3回目となり、同一都市における3回もの開催は、史上初ということになる。1964年の第18回大会以来実に52年ぶり2回目のオリンピック開催都市を目指す東京にとってみると、このロンドンの勝因をつぶさに分析して、今後の招致活動や開催計画に反映させていくことこそが、2016年の東京オリンピック開催実現の近道といえるのではないだろうか。

ロンドンオリンピック組織委員会(LOCOG)訪問

 ロンドンでは、3つの主要な競技エリアとなる、オリンピックパーク、セントラルゾーン、リバーゾーンそれぞれの現地視察を行い、その後、ロンドンオリンピック組織委員会(LOCOG)を訪問した。

 ここでは、ロンドンオリンピック組織委員会セバスチャン・コー会長あての石原知事の親書を手渡した後、ロンドンオリンピックの計画部門の責任者であるマイク・パワー氏及びマーケティング部門のクリス・デニー氏らによりロンドンオリンピック計画についての説明を受けるとともに意見交換を行った。

ロンドンオリンピックの開催計画

会場

 ロンドンオリンピックの競技会場は、主要な競技エリア3地区、計33会場で構成され、そのうちの18会場については新設されるということである。

 このうち、ロンドン中心部から約10キロメートルに位置する主会場となるオリンピックパークには、8万人収容のメインスタジアムを建設するとともに、この場所に隣接して、1万7800人(9450部屋)を収容できる選手村が整備される。

 結局、ロンドンオリンピックでは、26会場が30キロメートル圏内に位置することで、全体の約80%の選手が競技場まで徒歩でのアプローチが可能となり、全体的に見ると、選手にとって、より利便牲の高い競技場の配置計画となっている。

オリンピックパーク(メイン会場)

 当初の計画では、オリンピックの各施設は、東部ロンドン地区全体の活性化や開発の促進を狙って、中心部に近く、新規施設の建設に必要な空地も多いという理由もあり、かなり広範囲となるリーバレー地区全体に配置される予定であったという。そして、様々な検討の末、再開発計画が具体化してきたストラットフォード地区に、施設を集中的に配置したコンパクトで効率的な会場の配置計画とオリンピック開催による周辺地域全体の開発促進の相乗効果を狙い、この地区をメイン会場にすることが決定した。

 ストラットフォード地区は、主に港湾労働者向けの住宅地として発展したものの、荒廃が進んでいた。今回のこの地区における開発計画は、オフィス、商業施設、住宅などによる総合的な複合開発計画であるが、新設の大型商業施設の計画許可の取得が難しいとされるロンドンにあって、既に大型商業施設の建設許可を取得しており、計画の実現により交通の便もはるかに向上するとみられることから、東ロンドン地域の経済活動の核となる、実に将来性のある開発計画といわれている。この都市全体の再生計画が、オリンピック開催決定に際し大きく評価された一つの理由である。

 大会のメイン会場であるオリンピックパークの特徴として、各種競技施設や選手村、プレスセンターなどの主要施設を集約するとともに、会場全体を高さ5メートルもの塀で囲み、会場内に約1000か所もの金属探知機を設置するなど、セキュリティ確保の面でも万全を期している。

 また、河川、運河を公園として整備するとともに、最寄り駅と各競技施設などを結ぶ緑地と一体となった歩道を整備するなどしており、各競技施設の前には観客の待機・退避スペースなども十分確保する計画内容となっている。

交通

 このオリンピックパークヘのアクセスは、道路については、混雑緩和のため選手及び観客の専用道路となり、他の目的での使用は不可能となる。

 計画では、来場者すべてを公共交通機関で輸送するとしており、鉄道の乗り入れ本数は10路線、うち9路線はすでに完成済で、現在着工中の新幹線は、ロンドンと会場の最寄り駅とを所要時間わずか7分、英仏海峡トンネルを通ってパリまでも2時間15分で結ぶというものである。

 また、地下鉄はオリンピックパーク内の3つの駅のいずれかから15秒ごとに運行するほか、大会期間中はオリンピックの各競技の観戦チケットを持っていれば、ロンドン市内のすべての公共交通機関を無料で利用できるという特典もある。

 さらに、空からの玄関口となるヒースロー空港についても、3000万人が乗降可能な第5ターミナルを建設予定である。

大会終了後

 そもそも、オリンピックパークの施設計画は、オリンピック終了後を見据えた総合的な都市計画である「マスタープラン」を前提に策定されているが、それによると、8万人収容のメインスタジアムは、恒久的な利用施設として適切な規模である2万5000人程度の収容規模に改修するという。

 また、メディアセンターなどの付帯施設は、業務施設もしくは大学などとして整備をし、地域の業務核としての整備を進め、住宅供給を行い域内での通勤率を将来的には50%にしたいとしている。

(ストラットフォード地区の様子)
現状 オリンピック期間中 オリンピック終了後

東京オリンピック招致に向けて

 ロンドンオリンピック組織委員会(LOCOG)訪問では、招致活動をする上で、IOC委員に対して、いかに他の強豪国との違いを示せるか、また、最もオリンピック開催にふさわしい都市であるかを印象付けるための入念な準備やリハーサルが非常に重要であるというアドバイスを受けた。

 また、IOC委員に対してもさることながら、特に選手たちに対して、東京で開催されるオリンピックに行きたい、ぜひ参加したいと思わせるような計画の内容やアピールを行っていくことが必要となる。

 ロンドンの計画の場合、立候補ファイルの作成については、政府はあまり関与せず、むしろ様々なノウハウなどを十分に持ち合わせた民間の団体などに作成を依頼し、また、立候補ファイルの作成後には計画のあらゆる弱点を洗いだすとともに、徹底した説明資料の作成で計画を補強することが非常に重要であったとのことであった。

 例えば、ロンドンの弱点の一つとして交通網の問題があり、定刻どおりに運行され、信頼できる公共交通機関がほとんどないということが挙げられるが、他のライバルの国は、ロンドンのそのような弱点をついてくるので、そのような弱点の克服に重点を置くのと同時に、もし弱点を指摘されたとしても、事前に、それに対するしっかりとした回答について、入念な準備をしておくことが大切となる。

 IOC総会において開催都市決定の投票権をもつIOC委員に、直接接触できる機会というものは非常に限られているため、東京のオリンピック招致では、国際大会などの数少ない機会を積極的に活用して、できうる限り「東京」を売り込むことが大変重要であり、相手に好印象を持ってもらうという意味でも、例えば、世界的に有名な選手を全面に出したPR活動を行うなど、限られたチャンスを有効に使うということが大事である。

 そういった意味でみると、特に、2008年に開催される北京オリンピックは、IOC委員に直接接触できる数少ないチャンスの一つとなる。この機会を利用して、実際には大々的なプロモーション活動などは禁止されているものの、可能な範囲で「東京」の良さや他の立候補都市との相違点などについて大いにPR活動をした方がいいというアドバイスなどもいただいた。

 また、IOCに立候補ファイルを提出した後、IOC評価委員会による各立候補都市への現地視察が実施されるが、これは、7週間ほどという短い間に5つもの立候補都市を回るという非常にハードな日程のため、短期間でいかにその都市の好印象を評価委員に対し残すことができるかということも、勝敗の分かれ目となる。

 例えば、ロンドンの場合、評価委員がバッキンガム宮殿で夕食会をしたときには、女王陛下も見えて一緒に食事をしたという。また、評価委員による様々な質問に対応するため、事前に想定される1000通り以上もの質問への回答を用意して、いつでも速やかに回答できる準備をしたということである。

 いずれにしても、2016年オリンピックの開催都市は2009年10月に行われるIOC総会での投票において決定することになるが、必要な準備のための時間が非常に限られているため、東京オリンピックの招致に向けた今後の課題としては、都民・国民の招致に対する理解や支持の拡大はもちろんのこと、立候補ファイルの作成などを始めとする招致活動の全般において、マーケティングなどに優れた、様々な分野からなる民間人による組織を立ち上げて、進めていくことが重要のように思われる。

フランクフルト

ドイツ連邦共和国データ
人口 8245万人(2005年末)
首都 ベルリン(人口約339万人)
公用語 ドイツ語
宗教 キリスト教(カトリック、プロテスタント)
面積 35万7000平方キロメートル(日本の約94%)
通貨 ユーロ
民族 ゲルマン系主体のドイツ民族
歴史 <概略>
378年、ゲルマン民族の侵入
962年、神聖ローマ帝国成立(から1806年)
1701年、プロイセン王国成立(から1871年)
1871年、ドイツ帝国成立
1918年、ドイツ革命・ワイマール共和国成立
1933年、ヒトラー首相に就任
1949年、西独基本法、東西ドイツ成立
1961年、ベルリンの壁構築
1989年、ベルリンの壁崩壊
1990年、東西ドイツ統一
経済 主要産業:自動車、化学、機械、電気、鉄鋼
(外務省ウェブサイトにより作成)

ドイツオリンピック委員会(DOSB)訪問

 フランクフルトでは、ドイツオリンピック委員会(DOSB)を訪問し、陸上競技の選手としても活躍されたDr.カレン・フェルススポーツ局長、並びに同じく陸上で近代五種の選手であったサビン・クラプフ選手強化部長らにお会いし、バッハ会長あての石原知事の親書を手渡した後、説明を受けるとともに意見交換などを行った。

ドイツでのオリンピック国内選考を巡って

 実は、ロンドンでの開催が決定した2012年オリンピック招致に向け、ドイツ国内においても4都市から応募があったということである。そして、その1つとしてフランクフルトも応募したというが、結果は残念ながら国内選考からは漏れてしまった。(結局、ドイツからはライプチヒが立候補したものの、最終的には開催地決定投票に臨める5つの候補都市としては残れなかった。)しかし、この経験で得たものも大きかったということである。

 まず、フランクフルトは、人口60万人という比較的小さな都市であり、必ずしもIOCが希望するふさわしい開催都市と言えるものではなかった。しかし、周囲をライン川とマイン川が流れるフランクフルト近郊には数多くの市町村が存在し、これらが一体となって大きな連合体を形成しているため、広域的な地域としてみると、400万人ほどの人口となり、これはロンドンにも匹敵する規模である。

 日ごろからこの地域は互いに協力し合い、学校建設や交通網の整備などの地域の課題に共同で取り組んでいる。そうしたなかで、広域的な地域として協力して何かをしてみようという話が沸いて出たのが、オリンピック招致であったという。

 オリンピック招致に向けては、IOCの示す評価基準をクリアしなくてはならないのは言うまでもないが、宿泊施設の整備、次いでインフラ整備、そして競技施設・選手村などと数多くの課題がある。そして、現時点ではまだ整備されていなくても、今後このようにして整備をしていくというきちんとしたプランを提出しなくてはならない。

 フランクフルトでは、空港の隣にある広い敷地を選手村とすることを前提としたプランが立てられ、それを踏まえて、バスや一般乗用車用の駐車場確保など、細部にわたり具体的な形でIOCの基準に沿ったプランを作成したということである。

 そして、招致を成功させるには、IOC総会でのプレゼンテーションが大きな意味を持つという。例えば、2012年大会の招致を振り返って見ても、パリは何回目かの立候補であるのに対し、ロンドンはたった1回の立候補で決定した。そして、その要因はプレゼンテーションの仕方が上手であったのではないかということである。また、ドイツがオリンピック招致を目指す政治的判断として、東西ドイツの統一がなされたということも大きな要素であったようである。しかし、いずれにしろ、応募都市の中からふるいに掛けられ、一つ一つと都市が落とされていく、そんな背景を省みると、国内選考にはコストが掛かりすぎたし、精神的にも色々と大変なことも多く、また、長い期間が費やされるなどの様々な課題が残ったとも言っていた。今後は、国内選考を簡素化するべきであるという意見も出てきているようである。

 その一方で、2000年にオリンピックが開催されたシドニーのように3回、4回とIOCへの立候補を重ね、ついに招致が現実のものになったというケースもあり、今後、2024年大会の招致に向けて、フランクフルトも立候補への検討を重ねていくという可能性は残されているようであった。

 いずれにしても、IOCの選考の基本は、まず国際的な都市でなければならないということが前提条件であるように感じられた。

ミュンヘン

オリンピック開催後の施設の活用
ミュンヘンオリンピックの記念品

 ミュンヘンでは、オリンピック開催後の施設の活用策などについて、経営責任者であるオリンピックパーク社のシュプロング社長から説明を受けた。

 それによると、1972年のミュンヘンオリンピック開催時のメイン会場であったオリンピックパークは、オリンピック終了後、その施設の活用や維持管理のために有限会社が設立され、その100%の株をミュンヘン市が保有しているとのことである。

 大会が閉幕し、選手たちが帰った後の施設をどのように活用していくかを考えるのは大変重要なことであるという。例えば、2004年のアテネオリンピックの場合をみると、最初からオリンピック開催後の施設活用についてのコンセプトというものがなく、大会終了後の施設をどのように活用していくかということが大きな問題となっている。

 オリンピック開催後の施設活用についての選択肢としては、例えば、個々の施設の維持管理を自治体が行う方法や、民間会社に委託するなどの方法があるが、ミュンヘンの場合は、後者の方法を選択し、マネジメント会社であるオリンピックパーク社が設立された。

 そして、ミュンヘン市とオリンピックパーク杜との間で契約を締結し、必要な投資などがあれば、市がある程度の資金を出資するという条件になっており、現在も、周辺道路の整備費用や施設内の池や湖などの維持費用などについて、市が支出しているとのことである。

 また、大会の終了時点で残った6000万ユーロを基金として積み立てることができたということが重要な要素であるという。当初の計画では15年ほどと言われていたが、実際には30年にわたり基金がなくなることはなかった。その理由としては、銀行に預けるなどして利子が出るよう工夫し、一時は1億1000万ユーロまで増えたこともあるらしい。しかし、結局は、2001年のオリンピックスタジアム改修工事に用いたため、基金はゼロになってしまったという。

 そして、競技施設を多目的に活用するためには、マネジメント会社でもいろいろと改良などの工夫を行っていく必要があり、施設利用についても、生き残りを図るため、陸上競技を始めとしたスポーツイベントだけでなく、コンサートなどのショービジネスなども積極的に取り入れていく必要があったという。現在では、全体の90%がコンサートや地域スポーツなどのイベントで利用されている状況であるとのことであった。

 メインスタジアムについては、昨年までは地元の人気サッカーチームが試合をしたり、ヨーロッパ選手権などが開催されたりするなどし、さらにはプレゼンテーションや会議などの場としても活用されるなど、会社としても経営努力をし、成功を収めていったとのことである。

 しかし、1974年のサッカーワールドカップの決勝戦をはじめ、1988年のサッカーヨーロッパ選手権や2002年のヨーロッパ陸上選手権などが開催され、2006年のサッカーワールドカップ会場としても予定されていたメインスタジアムであったが、技術上の問題が生じ、別の場所に新たなサッカー専用のスタジアムが建設されるなどしたため、結局、この場所での開催には至らなかった。その理由としては、建設当時の契約で、このメインスタジアムを設計した建築家が生きている間は、その建築家の承諾なしには変更や改築などができないというものがあったということである。

 さらに、新しいサッカースタジアムができたことで、地元サッカーチームにも使用してもらえなくなったため、会社の収入は500万ユーロ減となってしまい、この不足分を別の形の収入として増やさなければならなくなった。そこで、経済的に非常に困難な状況を抜け出すために、2つの方法を選択したという。一つは、これまで以上のイベント内容の拡大であり、例えばロックコンサートや新体操をスタジアムでやってもらう。そしてもう一つは、新たな集客施設の建設である。現在では、集客のため水族館を作り、そこには半年で約50万人が訪れるという。また、アイススケート場を作り、現在はスケートのショートトラックの競技場になっている。さらには地元サッカーチームの試合が抜けてしまった穴埋めとしてフットサル競技場を設け、現在のところその利用率が90%近くとなっているなど、運営は好調であるということである。

おわりに

 今回の調査は、東京都議会、東京オリンピック招致本部、日本オリンピック委員会(JOC)が、立場や役割の違いこそあれ、共通の目的である2016年東京オリンピック招致に向けた一つの取組である。

 東京都は、現在はまだ国内立候補都市として決定しただけであり、長く厳しい国際的な招致レースのスタートラインに立ったばかりである。また、今後の立候補ファイルの作成や招致活動に向けた様々な課題も山積している。東京都がこのレースに勝ち抜き、見事開催地の栄冠を手にするためには、過去のオリンピック開催都市や惜しくも開催に至らなかった立候補都市の勝因や敗因についてつぶさに調査し、分析するとともに、これを参考や教訓として取り入れ、活用していくことが非常に重要となるであろう。

 そういった意味で、今回行ったような三者が一体となった調査が、共通の目的を目指す上での道しるべとなれば幸いである。

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