調査報告

サンパウロ

サンパウロ市内

 10月13日、金曜日、成田からニューヨークを経由し、赤道を越え25時間でサンパウロに到着。時差はちょうど12時間。建国500年のブラジルである。

 人口は1億8000万人、面積は851万1965平方キロメートルと日本の23倍もある。首都ブラジリアよりサンパウロの方がビジネスの中心になっており、日本の商社企業が400社も進出している。ブラジルの国花イッペーの黄色い可憐な花に迎えられる。沿道では、物売りが信号待ちのわずかな時間に停車する車のミラーに、お菓子の袋を掛けていく。仕事がないのだろうか。ブラジルにおける格差は、仕事・健康・医療面に現れ、低所得者は十分な医療が受けられない状態であり、かなり深刻であると思われる。ちょうど、大統領選挙の最中であり、両陣営が競って大旗を振り、通行車両にアピールする姿が見られた。

ブラジルへの日本人移民

 ブラジルでは、奴隷制廃止後の代替労働力として移民の受入れが始まった。

 1908年の笠戸丸に始まる日本人移民の軌跡を紹介する日伯文化協会ビル内の「ブラジル日本移民歴史資料館」を視察した。日伯文化協会ビルの周辺は東洋人街と呼ばれ、サンパウロと大阪市が姉妹都市であることから大阪橋と名付けられた橋には、赤い鳥居が架かっていた。街灯は提灯の形をしていて、日本情緒が各所にあふれ、ひらがなや漢字で書かれた名前の飲食店が並び、店には日本国内のスーパーと同じ商品が陳列されており、正にリトル東京であった。

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 2008年に日本人移民100周年を迎えるが、ここでは日本人移民の生活と社会背景を学ぶことができる。慣れない土地で苦労と工夫を重ねて生み出した生活が、当時のままに残されていた。他国からの移民に比べ、日本人は行儀がよく、無駄口を利かず、整列し静かに食事を待つ姿にブラジル人から高い評価を受けたそうである。現在でも、「日本人は信頼できる」としてブラジル人の信頼度が高いそうである。滞在中不快な思いをせずにいられたのは移民の皆さんのお陰であり、日本を離れ、異国の地で苦労を重ねた日本人移民の方々に頭が下がる思いである。日本に暮らす私たちが、日本人がかつて持っていた勤勉で奥ゆかしい部分を、時代の経過とともにどこかに捨ててきてしまったのではないだろうか。日本の良き文化がブラジルには残っていた。

 伯国東京都友会の永田氏と高木氏による「ブラジルの環境問題及びバイオエタノールについて」の講演で、今回の視察目標の一つである環境問題について、現地在住者の視点での話を聞かせていただいた。その後、東京都友会の皆さんともご一緒させていただき、資料館で見た移民の方々の当時の様子に加え、実際に子供のときに日本からブラジルへ移民されたご本人の生の声を伺うことができた。日本からの移民は150万人で、サンパウロにはそのうちの90万人が生活、沖縄県出身者が多く、移住は1973年まで続いていたとのことである。

 「45日の長期にわたる航海で大変だったでしょう。」と伺うと、「船の中はまだ夢があり、楽しかった。上陸してからが苦しかった。今は幸せだから、過去を語れるが、父と母は苦労の積み重ねだった。着るものも食べるものもなかった。だが、ブラジルの農業の発展には大きく貢献した。」と語られた。店に並ぶ果実はイチゴも柿もりんごも日本のものと変わらないが、現在の果実を完成させるのには多くの日本人移民の方々の苦労があり、日本人移民が、単一農業から近郊農業へというブラジルにおける農業改革を行ったのである。

 第二次世界大戦後は、敗戦を認識した「負け組」と敗戦を信じない「勝ち組」とに分れ、日本人移民同士が反目しあったというつらい時期もあり、農業とは違う苦しみも経験されたそうである。

フォース・ド・イグアス

 10月14日、土曜日、午前中サンパウロを出発し、昼頃イグアス空港に到着。エネルギー施策・観光振興施策など調査のためフォース・ド・イグアスを訪れた。

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 フォース・ド・イグアスにあるイタイプー水力発電所は、中国の三峡ダムに次いで世界第2位の発電能力を誇る巨大ダムである。1975年に着工し、1982年に完成、貯水面積1350平方キロメートル、貯水量290億立法メートル、最大発電能力1万4000メガワットというスケールである。2年前までは18基のタービンであったのを、昨年2基増設して計20基のタービンが稼動している。現在は、ブラジル南部、南東部及び中西部の消費電力の28%、さらにパラグアイの消費電力の実に72%もの電力を供給しているという。この水力発電所はブラジルとパラグアイ国境に位置することから、そもそもパラグアイ側はそれほど乗り気ではなかったものの、ブラジル側が熱心であり、結局両国が半分ずつ出資し、1974年に契約、翌年着工したとのことである。

 フォース・ド・イグアス市は現在人口28万人ほどだが、ダムの出来る前の1960年代は3万3000人ほどで、イタイプーの工事が始まる1970年代に10万人ほどに増えたという。また、イタイプーとは、先住民の言葉で歌う石という意味で、水が岩の島にあたる音を聞いてそう呼んだそうである。建設時には、約4万人もの労働者が働く一方で150人もの方が亡くなり、また、建設に使用した鉄やコンクリート、掘った土砂などの量は想像もつかないくらいという。そして、現在は、1日に約1500人、年間では50万人ぐらいが、このイタイプー水力発電所を訪れるとのことである。

 当初、私たちが懸念していた環境への影響については、悪影響よりも、恩恵の方が多いという現地の方々の評価であった。しかし、その懸念に応じるかのように、自然保護にいかに配慮しているかという側面が強調されていた。例えば、魚道を徹底的に確保したり、その地に植わっていた種類の木を植林したり、生態系を保護したり、エコミュージアムとしても活用しているといったように。

ダム湖はまるで海のよう

 その後、バスでダムの正面に向かう。正面から見るダムは、直径10メートルぐらいの巨大な放水管が並ぶ巨大なコンクリートの壁のように見える。両側は岩盤で、所々に植えられている木には、一本一本ネームプレートを貼りつけて、どこの誰が植えたのかが分かるようになっている。巨大なコンクリートの塊の前では、世界第2位の発電量といってもピンとは来ない。ただただ大きいのみである。

 バスは、何本もの送電線の脇を通りながら、パラグアイ側からダムの最上部へと進んで行く。大きな湖に見えるが、しかし更に進んで行くと、反対側の川幅は100メートルぐらいなのに、完全に海のようである。貯水を始めてわずか2週間で琵琶湖の2倍の水量が貯まり、はるか170キロメートル上流まで、このダム湖が続いているというのである。もちろん遠くはかすんでいて見えないし、想像力を働かせるしかない。さらに、両側には見渡す限りの原生林が連なっている。

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 この超巨大ダムによって起きていると思われる環境への負荷については、ブラジル政府も神経質になっているようで、ビデオシアターでの説明では、自国やボリビア産の天然ガスを燃料とした火力発電所や、風力発電にもわずかだが取り組み、発電の多面化を進めているということである。

 翌日は日曜日で、クリチバへの移動日ということもあって、世界的に有名な観光資源であり、世界遺産でもあるイグアスの滝を訪れ、いかに自然環境を守りつつ、かつ観光振興を図っていくかについて調査した。

 アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルと3国の国境に位置するこの滝は、面積18万ヘクタールのイグアス国立公園内に位置し、幅約4キロメートルで、流水量は世界一である。

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 ブラジル側では、木造の建物がこのイグアスの滝への入口になっている。周囲は亜熱帯雨林で、至る所で樹木にはコケが生え、日本でも観賞用に栽培されているランの仲間やクジャクサボテン、ヒモサボテンの仲間やパイナップルの仲間がぶら下がったり着生したりしている。哺乳類もシカやバクなど75種類、ヘビが40種類、チョウやガなどは合わせて800種類、鳥類も350種類ほどいるとのことである。以前はこの入口からマイカーで入れたそうだが、近年は自然環境保護のため、一般観光客はバスで、また、旅行社などの手配した方々は車で遊歩道の入口まで行くようになっている。

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 イグアスとは先住民の言葉で巨大な水の意味だそうだが、近くを見ても遠くを見ても大小様々な滝だらけである。滝の幅は約4キロメートル、落差最大90メートル。断崖沿いの遊歩道では、あちこちをアナグマが歩き回り、全長60センチメートルぐらいのトカゲもチラホラ見られる。また、様々な鳥の鳴き声がし、木立ベゴニアの原種や日々草の原種なども見られ、あえて言えば小笠原の母島の原生林の風景に似ている。遊歩道のカーブを曲がるたびに新しい滝やそれまで見ていた滝が角度を変えて見え、水は所によって白く、所によっては黄色く、また、岩がゴロゴロしていて、川底の砂は激しい流れのため溜まっている所はほとんどない。

 ちょうど春の繁殖シーズンで、鳥の巣が目につく。どの巣も日本でよく見るようなお椀型の巣ではなく、ブラジルを代表するオオハシというくちばしが長い鳥が天敵のためか、それが届かないよう奥まで深い構造になっている。

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 アルゼンチン側は、ブラジル側の崖沿いの遊歩道とは異なり平地に造られた遊歩道である。途中、トロッコに乗り換えて10分ほど林の中を走り、さらに各ポイントごとに、「ゴミを分別してゴミ箱へ」、「自然に手をつけるな」といった注意書きの掲示板がある遊歩道を2キロメートルも進む。

 遊歩道以外には足を踏み入れることができないよう工夫されており、地面に降りてもよい休憩スポットとは明確に区分されていて、原生林を保護している。また、上流のサンパウロ市内を流れ、まっ黒に汚れ腐敗臭が鼻をつくような川の水が、同じ川の下流であるこのイグアスの滝に流れ込んでいるとは信じられないほど、比較的澄んだ水であった。

 この地はヨーロッパにありがちな滞在型の観光の地ではなく、1泊か2泊ほどで、慌ただしくイグアスの滝を訪れて帰るという人々がほとんどであると聞き、少しもったいなく思った。イタイプーには年間50万人、イグアスの滝には年間100万人もの人々が訪れるが、その大半がブラジル国内及び南米諸国からであって、1から2割程度がドイツ、アメリカ、スペイン、フランス、イタリア、日本などの国々からということである。

 世界遺産であるがゆえにというか、恐らくその中でも最も迫力ある風景のイグアスの滝であるため、特別に宣伝しなくても人は来るというが、様々な人の興味を引きつける自然であるにもかかわらず、その興味を満足させるコースや滞在型の観光コースをもっと創造すべきではないだろうか。もっとも、他の国から観光に来る人々は、アマゾンやリオ・デ・ジャネイロなど他のブラジルの地や南米の様々な拠点を巡っているため、滞在型の観光というのは実際には困難なことかも知れない。いずれにせよ、この豊かな生態系を持つ世界遺産は、少々観光客が増してもビクともしない強さと奥深さも感じさせてくれた。

 その点では、東京都の目指している小笠原の世界遺産への登録は、比較にならないぜい弱さの中にある。しかも、小笠原には絶海の孤島であるがゆえの貴重さがあるけれども、既に侵された原風景を回復するのは極めて困難である。グリーンアノールやアフリカマイマイなどの移入種やアカギなどの移入植物の駆除は、気の遠くなるような作業ではあるが実現せねばならない。また、観光振興という観点からは、滞在型の観光を目指すべきであり、一方その自然のぜい弱さのために、ただむやみに観光客を増やすといった方向も目指すべきでない。そして、東京全体の観光都市としての充実という点からみると、イグアスの滝がそうであるように、他国から観光に来る場合、東京にというよりは日本に観光に来る人々も多く、短期滞在に留めさせないような観光スポット充実の必要性を強く感じた。

クリチバ

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 10月15日、日曜日にイグアスからクリチバへ向かい、翌16日は終日、クリチバで環境・交通施策や都市計画などの調査を行った。

 クリチバはサンパウロから南西に飛行機で約1時間、人口200万人弱のパラナ州の州都である。クリチバは、この20年あまり、市を挙げて計画的な街づくりを進めてきた。その結果、「ラテンアメリカで最も美しい街の一つ」と言われるようになり、ブラジルにおける都市計画の模範とされている。

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 ブラジルの他都市と違い交通渋滞がない、スラムがない、ゴミがない、落書きがない、これらがクリチバに着いた時の感想である。それは、この地の都市計画が他の都市と大きく違うところを目指し、そして成功したからであろう。

 クリチバの都市計画、これに深く関わった日本人がいる。中村ひとし氏である。彼は、1969年、日本の大学で造園学科の修士課程を終え、自然林を保護しながら都市造りをやりたいと単身ブラジルを訪れた。語学の壁を越え、その技術と知識をかわれて市役所に就職、やがて市の環境局局長、ついでパラナ州の環境局局長になる。今回は、この中村氏と、当時のクリチバ市長であったジャイメ・レルネル氏に相当の時間を頂き、クリチバにおける都市計画の特徴などについて、実地調査を含め丁寧にご教授頂いた。

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 都市計画というと、どうしても首都のブラジリアという名前が浮かぶ。ブラジリアは、A地域で遊び、B地域で眠り、C地域で働き、D地域に政府官公庁があり、それを高速道路で結ぶといった計画都市であった。1970年代には、21世紀の都市とも呼ばれ、理想の都市と信じられていたという。しかしながら、現在では非常に評判が悪く、計画都市の一つの失敗例として評価されている。その理由としては、人間は、職業の時間、食べる時間、遊ぶ時間、眠る時間というように24時間を単純明快に分けられないものであったということであり、結局は、人間を主軸においたものではなく、自動車社会や都市の機能性ばかりを主軸に置いた都市であったからであるという。

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 1970年代はまた、世界的に都市の交通混雑が問題となった時期でもある。ニューヨークや東京でも、車道を地下に潜らせる、ハイウェイとして高架に持ち上げるなど、いろいろな試行錯誤が行われた時期であり、多くの都市で都市の再開発が計画され始めた時期でもあった。つまり、都市の基準が人間から車へと移り、次第にヒューマンスケールからずれていってしまったのである。

 しかし、このクリチバは、都市は車のためではなく人間のためにあるべきだという理念の下で、世界の他の都市とは完全に反対の方向を選択したのである。

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 まず、繁華街を歩行者だけの公園街にしようという計画を打ち出した。当然、ものすごい反対が起こった。繁華街は車を乗り付けて買物をするところという考えが徹底していたからだ。しかし、歩行者天国にしてみたら、結果的に売上げが伸びた。古い電車の車両を置き、そこにいつも保育士がいるようにしたら、お母さんが、子どもを遊ばせながら安心して買物ができるようにもなった。

 20数年前、クリチバも大変な交通渋滞による大気汚染やスラムの増加に悩んでいたという。交通整備をするためには地下鉄建設が理想ではあるものの、建設技術も予算もない。そこで考えたのがバスの整備である。

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 第1に徹底したバスの専用車線の確保である。本来6車線であった道路は、中央の2本を往復のバス専用車線とし、緊急車を除き一般車は一切入れず、残り4車線は一般車用として開放した。また、本来4車線であった道路は、2車線を往復のバス専用車線とし、残り2車線を一方通行として一般車用にした。さらに本来2車線であった道路は、1車線をバスの一方通行用の専用車線とし、残り1車線を一方通行の一般車用とした。要するに、幹線道路の約半分を終日バス専用道路に造り替えたのである。ここまで徹底した道路のバス専用車線への改造により、朝夕のラッシュ時でもバスが遅れることはなくなった。

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 しかし、電車に比べ、一人ずつ料金を支払いながらのバスの乗降には、時間が掛かる。そこで第2にプラットホームの設置である。道路上に電車の駅のようなプラットホームを造り、切符の自動販売機と検札機を設置。バスの運転手はドアの開閉だけを行う。バスの扉も大きなドアが複数あり、3両編成のバスも多く見られる。電車のように一斉に乗り降りするわけだから長くても停車時間はわずか10秒ほどであるという。

 第3に3本の環状線と4本の放射状道路をつなぎ、交差する乗換え地点では大きなターミナルを造っている。また、2路線以上が交わる道路ではプラットホームが接続されている。そのため、ターミナルやプラットホームから外に出ない限り1枚のチケットで乗換え自由で、どこへでもほぼ時間通りに移動することができるバスシステムとなった。現在は、どの場所からでも20分程度で都心へと行けるという。そして、これにより多くの人々が自家用車ではなくバスを使うようになった。結果として市の収入も増え、排気ガスも減少したという。また、運営を委託している民間のバス会社に対しては、乗客数に応じるのではなく、運行総距離による代金の支払をしており、利用者の減少による赤字路線という考え方はない。これぞ公共交通のあるべき姿であるといえよう。

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 交通網が整備されたことで、土地利用の計画も変わった。高層ビルの建設は放射状の4本の道路沿いのみに許可するようにした。高層ビルの下は店舗となり、周辺の住民は都心に出なくても買物ができるようになった。日本のようにオフィスが都心に集中し、住宅は郊外に伸びるというのではなく、住宅とビジネス地域、商店街とが同一円周上に平均して発展していくようになり、働く人にとっても職住近接が実現した。人々が暮らし全体を楽しむための街であって、都市の機能性ばかりを追及した車主体の街ではない。そうなると自然と人が集まるようになり、自然と街が出来始めるようになった、と中村氏は熱弁された。

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 市は、中村氏を中心に次々と都市整備計画を実行した。洪水の頻発していたバリグイ川周辺の湿地帯は池のある公園にした。もともと湿地帯だったため、雨水が池に溜まるようになり洪水が起きなくなった。ビオトープ効果により、巨大な池で排水も浄化されるという予期せぬ効果もあった。しかも、公園が誕生したことで、周辺の土地が高級住宅街に変貌した。土地への税収で土地買収の費用や公園の建設費、整備費用などはすべて回収できた。結局、一番安上がりで快適な都市計画は、自然のあるがままに行うことなのだと分かったという。1110箇所もあった私有自然林に税免除などの特典を与えることで、宅地造成に不向きな所を中心に公園緑地を増やしていった。結果的に市の管理する公園緑地面積は市民一人当たりに換算すると、1970年代の0.9平方メートルから2002年には55平方メートルと、なんと60倍以上にも増加している。

 中村氏が市役所に就職した際は、ゴミ処理場があと半年も持たないだろうという状態で、新しい土地へのゴミ処理施設の建設を承認しようとするところであったが、中村氏は、まずゴミの内容を調べることから始めた。台所から出るゴミの量はそれほど多くはなく、紙、缶、プラスチックなどが主であると分かったが、これらは再生できる資源である。当時のブラジルではゴミの分別は一切行われておらず、釘や紙、プラスチックがバナナの皮などの生ゴミと一緒に捨てられていて、再生できる物も生ゴミなどが付き、汚くなってしまっていた。これらを処理施設で分別しようとしても30%しか分別できない。そこで家庭で分別してもらうことを考えたが、日本のように「燃えるゴミ、燃えないゴミ」という分別ではなく、「再生できるゴミ、再生できないゴミ」と分けることが大切だと考えた。再生できるものを集めれば資源が節約でき、自然保護にもつながる。混ぜればゴミ、分ければ資源。このことを徹底してキャンペーンを行い、市民の協力を得たという。

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 最初は学校教育の場を活用した。分別することは木を救うことだ、環境保護につながると教えこんだ。「木1本を救うためには50キログラムの紙を分けよう」と単純でわかりやすく説明し、その観念を広めた。子どもは純真だから素直に理解し実行した。また、子どもたちが家庭で家族に話すことで家族や地域住民にも浸透していった。さらに再生できるゴミのほとんどはスーパーマーケットから出ていることに目をつけ、再生できるものはスーパーで野菜と交換できるという活動を展開した。市が補助金を出し、スーパーに専用の屋台を作ってもらった。また、スーパーからも売上げが増えたと感謝された。

 クリチバでは、他のブラジルの都市同様スラムの問題も抱えていた。農村で暮らせなくなった人が都市に不法侵入して暮らす。そこにスラムが発生する。ゴミは捨てっぱなし、病気も発生しやすくなる。1989年には赤ちゃんの死亡率が急激に上がった。そこで実行したのが市の予算でゴミを買うという施策であった。スラムは密集していて収集のトラックが入れないため、反対にトラックのところまでゴミを持ってきてもらう。本来トラックに支払うべきコストを、ゴミを持ってきてくれた人にゴミ代として払う。市はプラスチック袋を準備して、袋一杯になった再生できるゴミをバスのチケットと新しい袋に交換する。実際にやってみたら好評であった。ゴミ出しが生活の足しになる。しかも周辺が清潔になっていく。赤ん坊の病気が減っていく。いままでゴミの山だったところがきれいになると、そこで野菜でも育ててみようかと考える。自暴自棄になっていた気持ちにゆとりがでてくる。

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 しかし、ここで問題が発生した。バスのチケットだとお父さんがどこかで売ってお酒に変わってしまう。子どもやお母さんに栄養が行かない。一方で農村も困っていた。不況が続き、野菜や果物の消費量は半分に減ってしまっていた。近郊の農家では売れない野菜を捨てていた。一方では飢え、一方では食料を捨てている。そこで、市役所がスーパーの半値以下で定期的に捨て野菜や卵を買い、バスのチケットの代わりにゴミ代として渡すようにした。週に4回くらいしか食べていなかった子どもたちも空腹で泣かなくなり、うるさいと怒鳴っていたお父さんも優しくなっていったという。やがて、スラムに居住していた人々は自信を取り戻し、独立してスラムを出て行くようになった。やがて、クリチバの街にスラムは存在しなくなった。そして、結果的には、新たなゴミ処理施設を建設する必要のない状況が続いている。

 交通政策、公園緑地の拡大政策、ゴミ政策から多種多様な子どもに対するプログラムなど、市民に自分たちの日々の生活が大切にされているという意識を持ってもらうことが重要である、と当時の市長であり建築家でもあるジャイメ氏は話された。自分の街を愛しているかという調査結果をみると、サンパウロ市民の11%に対し、クリチバ市民は94%となっている。またジャイメ氏は、日本の建築技術はすばらしいが、街全体を考えてはいないとも指摘され、2011年に東京で開かれる建築学会への出席が楽しみだとも話された。

 次の世代のことも真剣に考えた大都市東京の未来像をしっかり見据えつつ、この街の都市再生を今後とも参考としていきたい。

再びサンパウロ

サンパウロ州環境局訪問 ヒアリング
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 10月17日、火曜日、午後クリチバから再びサンパウロへ向かう。その足でサンパウロ州政府環境局を訪問し、局長補佐官、エンジニアや弁護士の方及び環境技師のオスワルド・ルーコン氏らから、ブラジルのエタノール生産などについてヒアリングを行うことができた。

 それによると、エタノール生産は、30年ほど前、ブラジル国家アルコール計画に基づき、ガソリンにアルコールを添加するところから始まった。2004年にはCO2の年間700万トン削減を目標に、エタノール生産量を世界の3分の1、ブラジル国内の60%とした。また、エタノール生産に補助金は出されないが、フレックス車の普及は200万台を超えたという。さらに、エタノール工場では発電もし、コジェネレーションも行うなど、徹底した環境対策がとられており、さらに今後レベルアップをしていくという。そして、その方法として、〔1〕 改良技術を海外へと輸出する、〔2〕 気候変動への影響を考え複数のエネルギー源を取り入れリスクを回避する、〔3〕 植林造林でサンパウロの森を守ることで、今後CO2を600万トン吸収させる、などの対策を行っていくという説明を受けた。

 また、日本で行う場合には、10%のアルコール添加が良いのではないか、さらに、5%以下の添加では車の改造の必要はないが、できればフレックス燃料専用車がよい、2008年にフレックス車を発売すれば、2018年までにはすべてフレックス車になるだろう、そして、エタノール生産は雇用拡大にもつながる、燃費は1リットルあたりガソリン12キロメートル、アルコール10キロメートルと差は小さい、など思わず身を乗り出して聞き入るほどの熱弁であった。ブラジルは、特に環境問題に関しては、日本よりも先進国であるという印象を受けた。

COSANサトウキビ工場視察
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 10月18日、水曜日、サンパウロから150キロメートルのピラシカーバ市にあり、今、注目のバイオエタノールを生産するサトウキビ工場を視察した。

 ここでは、クリーンエネルギーで石油消費・地球温暖化に歯止めをかける取組がされている。1936年砂糖工場としてスタートし、ISO14000取得のエコ工場は、遠景から見ると当時の面影そのままのようなレトロな雰囲気であるが、お話を伺うと、サトウキビ生産は1位、サトウキビの搾り量は2位の3600万トンと他を大きくリードしており、アルコールは2位、砂糖は3位と最大級。

 コンセプトは会社経営だけでなく、世界・地球人類のためにクリーンエネルギーを生産し続けることであるとのこと。サトウキビを搾り、ジュースにした後、マーケットの動向をにらみながら、砂糖にするかアルコールにするか決定していくという。1トンのサトウキビから平均85リットルのエタノールができるが、90から95リットルもできることもある、世界消費量も年々伸びており、クリーンエネルギーの需要は拡大していくだろう、今後はより効率的に生産していく、などいろいろなお話を伺うことができた。

 世界規模の生産をしている工場とは思えない雰囲気と実態とのギャップに驚かされた。工場の労働者が皆、サボるでもなく、明るく楽しそうに仕事をする様子を見て、これが世界一自殺者の少ない国の理由かと思わされた。

東山農場
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 10月19日、木曜日、調査最終日は東山農場を訪問し環境・農業施策などの調査を行なった。当日は、東山農場取締役塚本恭子氏に案内していただき説明を聴取した。その説明内容は東山農場取締役社長岩崎透氏の論文「東山農場 80年の歴史とさらなる飛躍をめざして注釈と一部重複するため、同論文の内容を参照しつつヒアリング内容を報告する。

 東山農場の歴史的経緯については、

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「東山農場の起源は古く18世紀半ばに遡る。当時、サンパウロ奥地開拓者(通称バンデイランチス)の一部が、カンピーナス郊外に定着、農耕を開始した事に端を発し、その中で砂糖黍生産での成功者の地方豪族が、1798年にポルトガル皇帝よりセズマリアのタイトルで4,400ヘクタールの農地所有を認められ、Fazenda Ponte Alta を創設したのが原点といえる。(中略)その後、1927年に創設者孫未亡人などより3箇所に分割された土地3,700ヘクタールを岩崎久弥が購入、東山農場(Fazen da Monte D’este)が創設されたが、第二次世界大戦中には敵国資産として、一時期ブラジル政府に接収される憂き目も見たが、初代農場長・農学博士山本喜誉司の天敵によるコーヒー害虫駆除、ユーカリ植林などの功績も評価され、戦後比較的早い時期に返還された。」

とのことである。

 今日の東山農場については、

「現在、東山農場では総面830ヘクタール弱、内274ヘクタールにて126万本のコーヒー樹栽培、年間400から500トンの精選コーヒーを主体に生産すると共に、ブラジル最大都市サンパウロより120キロメートル、百万都市カンピーナスよりは僅か12キロメートルの近郊の本格的な生産農場として、小中学生の社会化勉強を含む国内外よりの多数の見学客をも受け入れ中。」

とのことであり、生産のみならず、農場の歴史や取組を広く社会に伝えることにより、社会貢献にも努めていることが伺えた。

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 また、防犯のための鉄条網設置は芳しくないとして雑木林が農場を囲んでおり、ブータンタン毒蛇研究所の調査によると、この雑木林には、タランチュラをはじめ毒虫や毒蛇などがいて、人の侵入を防いでいるのだという。それらを排除するのではなく、人との棲み分けがきちんとできているそうである。

 東山農場の企業姿勢は、安全な作物の生産、自然環境の保護、社会への貢献を使命としており、単に経済面の追及だけではない点を大きく評価したい。

注釈 岩崎透、「東山農場 80年の歴史とさらなる飛躍をめざして」、社団法人日本ブラジル中央協会発行、同協会会員向け隔月刊誌『ブラジル特報』2005年11月号。全文は添付資料1として巻末に収録。引用中の表記は原文のまま。

サントス

 東山農場に続き、日本人移民が多く上陸した港であるサントスへと向かう。その後、空港へ向かい、深夜の飛行機で帰国の途に着くという強行軍である。

 マナカやデイゴの花を左右に眺めながらサントス港へ向かう。途中、イミングランチス街道沿いの丘にはファベーラと呼ばれるスラム街などが見える。日本では、一般に小高い丘は高級住宅地となるが、ここでは丘一面がレンガや廃材で作られた低所得者向けの住宅である。

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 人口42万人の都市サントスは、コーヒーの輸出貿易港であるとともに、夏には100万人にも膨れ上がるリゾート観光の町でもある。倉庫群の2分の1は民営化され、13キロメートルに及ぶ世界5位の広大な港湾施設を有している。ビーチと道路の間には花が植えられ、ギネスブックにも載るという7キロメートルの最長のガーデンが続いている。サントス出身のサッカーの神様ペレは有名で、サントスフットボールチームには2万1000人収容のスタジアムがある。古き良き時代の街並みを残しつつも、観光やリゾートでの収入を得られるような取組がされていた。

ブラジルにおける環境・エネルギー政策

 最後に、ブラジルにおける環境・エネルギー政策について、日本貿易振興機構(JETRO)の大岩 玲氏が社団法人日本ブラジル中央協会発行の隔月刊誌の中で、簡潔に紹介注釈1しているので、参考資料としてこれを紹介したい。

《参考資料》:『世界の注目を浴びるブラジルのサトウキビ・エタノール注釈2
(以下引用)
最初の契機は石油ショック

「サンパウロの空港に降り立つと、ほのかに甘い匂いがした」。こんな言葉を、1980年代にブラジル駐在経験のある諸先輩から聞くことがある。ブラジル政府は、73年に発生した第一次石油危機に起因する原油価格高騰、当時の高い石油輸入依存率対策として、自動車燃料のガソリンからサトウキビ・エタノールへの代替を促進する『国家アルコール計画(プロアルコール)』を75年から実施していた。ポルトガル人がサトウキビの栽培を始めた16世紀前半より、ブラジルには原料となるサトウキビは豊富に存在した。さらに30年代以降の輸入代替工業化政策の中で、国家主導で工業技術を向上させていたブラジルでは、80年に100%含水エタノールで走行する自動車が開発、販売されるに至った。85年にはブラジルのエタノール生産量は順調に1,000万キロリットルに達し、国内を走行する自動車の96%がエタノールを燃料とするようになる。モータリゼーション社会サンパウロが、サトウキビの甘い香とともに記憶に残っても不思議ではない。

 しかし、その後の石油価格安定、サトウキビの不作、多額の政府補助を要するプロアルコールの根拠法廃止(91年)などにより、燃料ニーズの変化に対応できなかった当時のエタノール自動車は姿を消していく。多くの場合、砂糖とエタノールが同一のUsina(プラント)で製造されていたため、国際価格が上昇した砂糖の生産に切り替えられたという背景もあった。また、気温の低い日にエンジンがかかりにくい、車内もエタノール臭がして快適さに欠けるなどの欠点があり、消費者に手放しで歓迎された製品ではなかったようだ。

注釈1 但し、同氏の同論文が掲載されているウェブサイト、BizPoint Brasil(http://www.bizpoint.com.br/jp/reports/oth/ro0511.htm、日本ブラジル中央協会のサイトから同論文へのリンクもここに貼られている)では、「本文中の意見、見解は、JETROの公式意見を示すものではない」とされている。

注釈2 大岩 玲、『世界の注目を浴びるブラジルのサトウキビ・エタノール』、社団法人日本ブラジル中央協会発行、同協会会員向け隔月刊誌『ブラジル特報』2005年11月号。

「燃料選択の自由」に飛びついた消費者

 1990年代初頭、自動車燃料としてのエタノールが、ブラジルで再び脚光を浴びる。ロバート・ボッシュなど進出自動車部品メーカーが、エタノールが混合されたガソリンとアルコールをどの様な比率で混合しても走行可能な自動車、『フレックス車』用のエンジン開発に着手する。当初は、各完成車メーカーは市場受容性を見極められず採用を見送っていたが、2003年3月にVWがフレックス車第1号を販売した。以降、欧米各社が同車を開発し、ブラジル自動車製造業者協会(Anfavea)によると、05年8月にはフレックス車の販売台数は国内の月間新車販売の61.7%(9万334台)を占めるに至った。同シェアは03年が3%、04年が33%で、05年は1から8月で46%に達しており(各卸売りベース)、通年でも5割を超えるとみられる。ブラジルは06年中に石油の自給国になるとされており、エタノールの国内消費増はその要因の一つといえよう。なお、Anfaveaは05年9月、同年の自動車生産見通しを234万台から245万台に引き上げた。これは前年比11%増となる数字で、実現すれば過去最高記録を更新することとなる。

 現在は、VWに加えフィアット、GM、フォード、ルノー、プジョーの計6社がブラジルでフレックス車を生産、販売しており、日系企業ではトヨタとホンダが06年中に生産開始と報じられている。VWは、06年までに生産における同車のシェアを100%にするとしており、フォードは、エタノールを25%混合したブラジルの通常のカソリン(E-25)、エタノール、天然ガス、そして100%ガソリンの4種の燃料に対応可能な『Tetra-Fuel(テトラ・フューエル)』車を06年より販売する予定であるが、これは燃料事情の異なる外国への輸出用として出荷できる点が注目されている。

ブラジルならではの価格競争力

 フレックス車は、見事にブラジル市場に受け入れられたといえよう。その主な要因として、〔1〕燃料コスト、〔2〕少ない車自体の価格差、〔3〕車種の増加を挙げることができる。

 イラク戦争、米国のハリケーン災害などによるガソリン価格高騰により、地域差はあるもののエタノールとの差が大きくなっている。サンパウロ市内の通常のガソリンスタンドで、1リットルあたりエタノールは1.2から1.3レアル、E-25ガソリンは2.3から2.4レアルと二倍近い開きがある(05年10月3日時点、1ドル=2.23レアル)。こうした状況では、ガソリンに燃費で若干劣るものの、フレックス車を100%エタノールにして走行させる消費者も現れる。ブラジルのエタノールは、サトウキビ栽培・精製の技術改良、安い労働コスト、広大な土地を活かしたスケール・メリットなどにより、政府による補助金なしでも十分な競争力を有している。車自体の価格差については、VWのGol.10の場合、フレックス車は2万4415レアル、ガソリン(E-25)専用車は2万3980レアルと価格差はわずかである(http://www.webmotors.com.br/ 05年7月)。車種についても、例えばVWは小型車からピックアップトラックまで9種類の多様なフレックス車を販売している(05年10月時点)。この他、個人向け融資の大幅な増加なども、フレックス車の好調な販売を牽引しているといえよう。

 フレックス車の”完成度の高さ”も見落とすことはできない。80年代のエタノール車と異なり、フレックス車は低温下での発進時にもエンジントラブルを起こすことはない。これは、フレックス車のエンジンが18度以下での始動用にガソリン供給スペースを備えているためだ。また、エタノールの腐食作用により車が長持ちしないと考えられがちだが、各社はこの点もクリアしている。車内がエタノール臭くないことはいうまでもない。

温暖化対策へも効果を発揮

 バイオマス燃料としてのエタノールに目をつけているのは、ブラジルだけでない。米国では、オクタン価向上剤MTBEが環境面への配慮から2004年以降使用中止になるにつれ、ガソリンへのエタノールの直接混合が進んでいる。すでに全米で使用されている自動車400万台でトウモロコシ・エタノールがガソリンに混合され使用されており、ブラジルは不足分として自国のサトウキビ・エタノールの輸出拡大を狙っている。インド、欧州でもオクタン価向上剤ETBEとしての使用や、ガソリンへの直接混合が進んでいるほか、中国でも、急激な自動車の普及にともない政府主導でガソリンへのエタノール混合が進んでいる。中国ではトウモロコシ・エタノールが主流だが、サトウキビやマンジォカのエタノールへの関心も高くなっており、ブラジルは技術指導や輸出で商機としたい考えだ。ブラジルの2004年のエタノール輸出量は前年比3.6倍増の215万キロリットルで、最大の輸出相手国はインドであった。こうした国内外の需要増に対して、サンパウロ州サトウキビ農工業連合会(UNICA)は、ブラジルのエタノール用のサトウキビ作付面積は266万ヘクタール(04年)で、『セラード』(サバンナ地帯)、転用可能な牧草地など、森林破壊に拠らない未利用の多目的可耕地が3億2000万ヘクタールあるため、今後も増産への対応は可能としている。その一方、陸送、港湾インフラの未整備、国内に300以上あるUsinaの配給能力が限界に達しつつあるといった問題も指摘されている。また、ブラジルでのフレックス車の一層の普及やレアル高の継続により、輸出よりも国内向けが重視される傾向が強まっていくとの見方もある。

 各国は、石油価格の高騰、中東情勢の緊迫化などから代替燃料としてエタノールに注目しているとみられるが、地球環境への配慮という点も見落とせない。オーストラリアの民間研究機関によると、ガソリンにエタノールを10%混合することで、一酸化炭素の排出量が32%削減される。UNICAは、サトウキビは栽培中も大気中の二酸化炭素(CO2)を吸収しているので、最終的に1リットルの無水アルコール使用が、二酸化炭素2.7キロ分の削減効果になり、京都議定書発効により先進各国に課された温室効果ガス削減義務の観点からも重要としている。このほか、サトウキビの搾りかす(バガス)を用いたバイオマス発電は、クリーン開発メカニズム(CDM)の案件として有望とされている。

 ブラジル政府はエタノールの対日輸出開始も熱望している。日本政府は、04年よりE-3ガソリンの流通実験を行っているほか、サトウキビ・エタノールを原料とするETBEの供給安定性、安全性などに関する実証実験に取り組んでいる。日本のエネルギー政策においても、ブラジルの重要性はますます高まっていくといえよう。

まとめ

 今回の一連の調査を通じ、ブラジルにおける環境・エネルギー施策のほか、観光振興施策、交通・都市計画施策などについて、様々な観点から詳しく学ぶことができた。今後、様々な議会活動などを通じ、それらを東京都における政策立案などの上での参考としていきたい。

添付資料1

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