平成17年度東京都議会海外調査団は、東京都議会自由民主党の田代ひろし(団長)、村上英子、きたしろ勝彦、田中たけし、早坂 義弘、坂本たけしの6議員と、都議会公明党のともとし 春久(副団長)、長橋 桂一、東村 邦浩の3議員の計9名をメンバーとして、2006年2月6日から15日までの10日間の日程で、アメリカ合衆国のシカゴ市、ニューオーリンズ市、ワシントンDC、ニューヨーク市の4都市を訪問し、調査を実施した。
今日、ハリケーン、大地震、津波など大規模な自然災害が続き、テロ攻撃などの危険性も世界的に高まっているなか、大都市・東京における防災・危機管理対策に資するため、2005年8月末にアメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズ市を中心に未曾有の被害をもたらしたハリケーン「カトリーナ」被害への対応を中心に、アメリカにおける災害対応や危機管理対策の現状を調査した。
あわせてニューオーリンズ市に対し、東京都議会自由民主党、都議会公明党からの見舞金を贈呈した。
この調査の結果を、今後の政策形成、都議会における審議に大いに役立てていきたい。
なお調査団には一部の日程を除き、行政側から、鴫原浩(総合防災部防災対策課長)、新谷景一(建設局河川部総合治水低地河川防災計画担当副参事)、小林英樹(港湾局港湾整備部環境対策担当副参事)、細田進(警視庁警備部災害対策課都市災害警備係長)、阿出川悟(東京消防庁防災部震災対策担当副参事)の5氏が同行した。また現地では、丹羽恵玲奈氏(自治体国際化協会ニューヨーク事務所次長)が同行し、様々な調整にあたった。
シカゴ・オヘア空港は、アトランタ・ハーツフィールド空港と並びアメリカのハブ空港として位置づけられている。乗降客数、離着陸回数とも世界で2番目に多く、滑走路本数7本の国際空港である。これまで、オヘア空港は離着陸回数で、トップにあり、「世界で最も忙しい空港」と言われていたが、会社更生手続きを申請したデルタ航空が、リストラの観点からハブ空港機能をハーツフィールド空港に統一したため、順位が逆転した。しかし、これまで長く「世界で最も忙しい空港」であり、9・11以降テロ対策が実施され「世界一セキュリティー強化されている空港であろう」との考えから、今後、羽田空港の再拡張が行われ、国際化されるに当たり、万全な安全対策、危機管理体制を築くに当り、先進事例として最も相応しい調査対象としてシカゴ・オヘア空港を視察先に選定し、調査を実施した。
乗降客数順位 | 空港名 | 都市名 | 滑走路本数 | 乗降客数(千人) | 離着陸回数(千回) |
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1 | ハースフィールド | アトランタ | 4 | 78786 | 981.9 |
2 | オヘア | シカゴ | 7 | 69509 | 972.2 |
3 | ヒースロー | ロンドン | 3 | 63208 | 457.1 |
4 | 羽田 | 東京 | 3 | 63143 | 285.9 |
17 | JFK | ニューヨーク | 4 | 32570 | 272.0 |
シカゴ・オヘア空港は、シカゴ市の中心部から北西約30キロメートルに位置する。1955年シカゴ市が建設し、使用開始され、1958年に改称してシカゴ・オヘア国際空港となった。現在シカゴ市空港局(DOA:City of Chicago,Department of Aviation)が管理運営している。オヘア空港はアメリカ第二の都市であるシカゴ市内にあり、またアメリカ本土の中央に位置しており、その地理的優位性からハブ空港としての役割を果たしている。ユナイテッド航空、アメリカン航空の利用乗客の約70%がシカゴでの乗り継ぎである。旅客ターミナルは、第1から3及び第5ターミナルあり、各ターミナルの間を無料、無人シャトル(Airport Transit System)で結ばれており、各ターミナル間の乗り継ぎがスムーズに行われている。179のゲートがあり、2万2千730台の駐車スペースが確保されている。貨物量も大変多く、世界15番目である。その貨物の輸出先は日本が一番多く、その日本から調査に来たことの意味合いは大変に大きいと感じた。直接の空港業務で働いている人は、約5万人おり、周辺業務も含めると約45万人の人々が働いている。今後、更なる輸送量の増大に対応するため、7本の滑走路を8本に、ターミナルも4ターミナルから7ターミナルへ拡張する計画が進められている。拡張に合わせて現在のオヘア空港の滑走路がそれぞれ交差するように配置されているものを、並行に配置し、機能及び効率性の強化も図られる。更に、この滑走路の配置を換えることにより、周辺へ及ぼしている航空機騒音の減少も図られるようである。また、滑走路本数の増加により、着陸待機するために上空で旋回する飛行機の数も削減でき、騒音対策にもつながるようである。現在周辺住民への騒音に対する対応は、65デシベル以上の家庭に対して、防音対策を講じる費用を負担している。空港拡張の財政に関しては、空港建設コストより経済効果の方が大きいため、数年で建設コストをペイできると試算されている。
2000年 | 2001年 | 2002年 | 2003年 | 2004年 | |
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国内線便数 | 817765 | 824139 | 845562 | 844473 | 901585 |
国際線便数 | 91224 | 87778 | 77255 | 84218 | 90842 |
合計 | 908989 | 911917 | 922817 | 928691 | 992427 |
一日当り便数 | 2483 | 2498 | 2528 | 2544 | 2719 |
国内線乗客数 | 61682 | 57913 | 57627 | 60198 | 64685 |
国際線乗客数 | 10463 | 9535 | 8939 | 9311 | 10849 |
合計 | 72145 | 67448 | 66566 | 69509 | 75534 |
一日当り乗客数 | 197 | 185 | 182 | 190 | 207 |
ハブ空港になると、発着便数が大変多く、それに伴い多くの乗客が空港を利用することになる。そのため、セキュリティーには万全の対応が求められている。
アメリカに入国する際、人差し指の指紋の読み取りと顔写真の撮影が行われた。これは、US-VISIT(Visitor and Immigrant Status Indicator Technology)プログラムにより行われたセキュリティー管理である。US-VISITプログラムは、2004年1月5日より実施され、指紋及び顔写真の情報取得、照合により本人確認を行う出入国管理プログラムである。ターミナル内にも、US-VISITプログラム用の端末機があり、この端末機を使い、指紋、顔写真を撮影し、そのデータ採取した証拠となるレシートの提出により手続きを行うこともできる。
手荷物検査は、最新の手荷物検査機を導入し、短時間で大量の手荷物がチェックできるよう体制が整備されていた。手荷物検査は、入出国者の手荷物だけではなく、乗り継ぎ客の手荷物も同一のセキュリティー基準でチェックできるような体制となっている。今回の視察に際し、手荷物に施錠しないよう強く指示をされた。最新の手荷物検査機器の導入だけではなく、疑わしき手荷物はすぐに直接現物チェックしているのかと、その検査体制、テロ警戒体制を改めて認識させられた。
空港関係者及び空港内業者に対して厳しく管理されている。それぞれの立場や役割に応じてセキュリティー・レベルが異なり、IDカード、カードの色、暗証番号により、入室可能範囲が規制制限されている。また、IDカードも定期的に更新されており、その都度、再登録、再チェックが行われている。エレクトロニック・コントロール部門では、IDカードの登録、発行、暗証番号管理などを行っている。空港内には1200台のカード読み取り機があり、間違った操作をすると、アラームがなる仕組みになっている。今でも、ケアレスミス(暗証番号間違い、更新忘れなど)も含め、1日に3000回もアラームが鳴っているようだ。
オヘア空港の警備は、シカゴ市長のもと航空警察部がシカゴ市警と連携をして実施されている。空港警察部とシカゴ市警との役割分担は、航空警察部はオヘア空港内を、シカゴ市警は空港周辺を管轄し、両者が連携し、全体のセキュリティー対策を行っている。アメリカは連邦国家であるため、セキュリティーに関しても、連邦政府がその共通ルールを示し、具体的対応は、市が独自に立案した条例に基づき実施されている。
検疫検査は、伝染病のアメリカ国内への拡大防止に対応するために行っている。航空会社には、発病した人の名前、住所、病状などの報告義務があり、行動履歴の調査に役立てる。入国数日後に発病したら、それまでの経過を調べ、今後の拡大、予防の対応を取る。入国先のリスクレベルに応じて対応を代えている。例えば、膠原病がはやっているケニアからの入国者は、厳しくチェックを行っている。しかし、今までに隔離をしたケースはない。
今回、特別に管制塔内の視察も許可された。今回視察したのは、サブの管制塔であったため、セキュリティーも容易であり、管制塔内もフランクな対応をしていただいた。
我々調査団が宿泊したのは、オヘア空港に隣接しており、部屋から空港を離発着する飛行機が間近に見ることのできるホテルであった。しかし、室内は飛行機の騒音は全く聞こえず、防音対策は完璧であった。技術的には騒音対策は可能であり、狭隘な立地条件の中で建設されている、日本における空港騒音問題も近い将来解決される思いがした。また、オヘア空港には拡張計画があり、用地取得が進められているが、日本における反対運動のような状況には全くなく、土地などに対する私権の制限が相当強くなされているものと思われた。一方の見方として、空港拡張に伴う経済波及効果も相当見込まれているために、その期待感から拡張計画にも前向きな姿勢で臨まれているとも考えられる。
ニューオーリンズ市では、ハリケーン「カトリーナ」=Hurricane KATRINAの現地被災調査を行った。「カトリーナ」とは、2005年8月末にアメリカ合衆国ルイジアナ州を中心に、未曾有の大きな被害をもたらしたハリケーンである。
21世紀を迎えた今日、発展途上国での大規模自然災害(例えばインドネシアでのスマトラ沖地震=2004年、ジャワ島地震=2006年など)ならいざしらず、先進国であるアメリカにおいてこれほどまでに甚大な被害が発生した原因はいったい何なのか。発災前の準備策=preparedness、被災直後の対応策=response、災害復旧=recoveryと復興=mitigationのどこに問題があったのか。さらにこれと比較し、同じく先進国であるわが国の災害対策のとりくみはどうなっているのか。
カトリーナで最も大きな被害を受けたニューオーリンズ市での現地視察を中心に、カトリーナで実際にみられた災害対策とその後の状況に焦点をあて、わが国の災害対策のあり方を総合的に調査した。
8月23日にバハマ南東で誕生した熱帯性低気圧は、その後成長を続け、25日にカテゴリー1のハリケーンとしてフロリダ半島マイアミ付近を通過した。その後、メキシコ湾上で北に進路を変え、28日に最大のカテゴリー5に達した。29日朝にニューオーリンズを襲来し堤防が決壊、未曾有の被害をもたらした。
カテゴリー | 風速 | 中心気圧 |
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TD | > 毎秒18メートル | tropical depression |
TS | 毎秒18メートル から 33メートル | tropical slarm |
C1 | 毎秒33メートル から 42メートル | 980ミリバール > |
C2 | 毎秒43メートル から 49メートル | 979ミリバール から 965ミリバール |
C3 | 毎秒50メートル から 58メートル | 964ミリバール から 945ミリバール |
C4 | 毎秒59メートル から 69メートル | 944ミリバール から 920ミリバール |
C5 | 毎秒70メートル < | < 920ミリバール |
ニューオーリンズ市のネーギン市長は被災直後の8月31日、マスコミからの取材に対し、同市の死者が「おそらく数千人だろう」と述べ、また市内のおよそ8割が冠水していることから「今後2から3ヶ月間、都市機能は麻痺したままだろう」と述べた。ルイジアナ州のブランコ知事も9月1日、死者は「数千人」と述べている。
2万人が避難した市内のコンベンションセンターや2万5000人が避難したスーパードームでは、著しく治安が悪化し数十人が殺され、暴行、略奪が横行する無法地帯の様相だとの報道が数多くなされた。テレビでは洪水により孤立した家の屋根の上から助けを求める人達の映像が繰り返し放映され、現地の混乱ぶりを印象付けた。
しかしながら結果としてカトリーナによる死者はおよそ1300人であった。略奪は相当数行われたようであるが、殺人が多発していると思われていたスーパードームでは、殺人は1件もなく1人が自殺、1人が麻薬中毒死、3人が過労死であった。このことは被災当時、実際には現地が落ち着いていたことを示しているのではなく、むしろ混乱の極みにあったからこそ、州知事・市長のレベルにまで不確かな情報が錯綜したのだと考えるべきである。「50万人近い住民の8から9割が避難し、1万人を超えると想定されていた死者が1000人余だったことをみれば、(避難誘導が)『失敗』と断じるのは酷だろう。伊勢湾台風級の台風が接近した際、大阪でこれほど大規模な避難を実施できるかと問われれば、首をかしげざるを得ない。」とする論もあるようだが、これはあまりにも当初の誤った情報に影響を受けすぎたものだといえる。今日の先進諸国において、自然災害による死者が1000人を超えるようなことがあれば、仮にどのような手段が講じられ死者がその数にまで減ることがあったにせよ、それは甘んじて、予防策も含めた意味での防災活動の「失敗」と総括されるべきものだと考える。また後述するように、カトリーナの場合には、そもそも適切な避難誘導が行われなかったことが大きな課題になっており、その点からもこの論はあたらない。
現地で幾度も、当時の混乱ぶりを尋ねたが、どの人もこのことに関しては言いよどんでいた。災害復興があるレベルまで達しない限り、その時の状況を進んで話すようにはならないだろうと感じた。
ルイジアナ州ニューオーリンズ市は、ミシシッピ川の河口部堆積地上に発達した都市である。ジャズ発祥の地として世界的に知られている。鹿児島県の種子島あたりの緯度に位置し、メキシコ湾の海水温が高いためハリケーンの勢力が衰えないまま上陸しやすい。市の北側に位置するポンチャントレン湖(堤防の高さ標高5メートル=砂丘による高地)と、南側に位置するミシシッピ川(堤防の高さ標高7メートル=自然堤防)とに挟まれた部分は「スープ皿」と呼ばれ、市内の7割が海面より低い。最も低いところは、海抜マイナス6メートル。地下水の汲み上げや沖合いでの天然ガスの採掘などにより、過去100年間で1メートル近くも地盤沈下した。したがって市は堤防と排水施設により水害から防御されている。
ポンチャントレン湖は東京湾と同じくらいの広さだが、水深は4メートル程度であり非常に浅い。メキシコ湾とつながっているので、海水湖である。そのポンチャントレン湖から流れる運河の堤防が、カトリーナにより19箇所で決壊。越水、破堤、洗堀(堤防の土塊ごと堤の内側に横ずれ)などにより、市街地が壊滅的な状況に陥った。排水ポンプが冠水し、機能しなかったことも被害を拡げた原因のひとつである。市の8割が冠水、場所によってはその状況が1ヶ月以上も続いた。30度以上の気温が続いたため水面が藻で覆われ、ドブ川のような臭いが立ち込めたところも多かったという。衛生面でも危険な状態が発生した。また浸水戸数は16万戸にのぼった。ミシシッピ川の堤防には被害はなかった。
現地ではニューオーリンズ市警察(Carlton L Lewis , Sergeant , New Orleans Police Department)の案内で、最も被害が大きかったとされる17 Street Canal とLondon Avenue Canal を調査した。被災後5ヶ月以上経過しているにもかかわらず、現地は爆心地のような状況で、街の復興はまったく進んでいないように感じられた。われわれの帰国後(3月6日)にも被災地の住宅の屋根裏部屋から遺体が見つかった。CNNによると、医療当局者の話としてさらに300から400人が被災地域で死亡したまま発見されないでいる可能性があるとのことである。 わずかに、破堤した堤防の修復が小規模に行われているのを見ただけで、住民の帰還は皆無であった。わが国の三宅島噴火で島民が帰還できたのは、およそ3800人の島民が全島避難をしているあいだに41基の砂防ダムの建設を進めたからである。同様に、ニューオーリンズの住民帰還において最も必要なのは、再度災害に耐えうる堤防の建設であろうが、このことに関する議論については後段(土地利用計画は市民の権利侵害か)で述べる。
アメリカにおける堤防の建設は、陸軍工兵隊(US Army of Corps)の任務である。被災後(6ヶ月後の2006年3月)に工兵隊自らが堤防決壊の理由を調査、報告している。それによると、堤防の土壌が緩く、大きな力を支えることができなかったことが最大の原因であった。土壌が緩いので、大きな高潮が来ると堤防を支える土壌が水を含んでグズグズの状態になり、堤防の強度が半減したのである。
わが国の堤防は大規模に盛土をして立体的に水を受け止める構造になっているが、現地で実際に見たニューオーリンズの運河堤防は僅かな盛土に薄い矢板を打ち込むだけの「I」工法で成り立っていた。
近年のニューオーリンズの堤防強化は、1969年の巨大ハリケーン「カミーユ」に由来する。カテゴリー5の「カミーユ」はニューオーリンズの直撃は免れたが、その教訓からカテゴリー3に対応できる堤防建設計画が作られた。このことは、2005年9月4日に東京都杉並区を中心に時間雨量100ミリを越す大雨が降り甚大な被害をもたらし、その後の対策が現行の時間雨量50ミリのものを急ぐ程度にとどまっているわが国の対応と似ている。想定されるなかで最も大きな被害に備えるという対策をとらず、予算との相談で一定程度の対策にとどめるという、現実の対応がである。
ところで災害対策においては、土木工学的ないわゆるハード対策を優先すべきか。それとも避難誘導などのいわゆるソフト対策を優先すべきか。
1995年に発生した阪神・淡路大震災の被害を調査した兵庫県監察医の報告によると、死者の96%が地震発生後14分以内に死亡、すなわちほぼ即死であった。このことはわが国における防災の「常識」である備蓄食料や避難訓練が、災害から(少なくても大地震から)、生命を守ることの本質的対策ではないことがわかる。主な死因は圧死・窒息死・打撲・内臓損傷などである。これらを整理すると、死に至った原因の83%が建物倒壊・家具転倒による関連死であると総括される。このことは、災害対策を考える上で最も大切なことであるが、災害そのものの大きさ(地震ならマグニチュード、あるいは震度)は変えることができなくても、それを防御するハードの整備如何によって、被害の大きさはコントロールすることが可能であることを示している。阪神・淡路大震災の例でいえば、家屋が崩れ、あるいは家具が転倒し、その下敷きになって死亡したのが83%なのであるから、地震発生前に家屋をしっかり耐震補強工事をしておき、あるいは家具をしっかり固定しておけば、死者を大幅に減少させ、財産に対する被害も大幅に減少させることが出来たのである。今回のカトリーナは大地震ではなくハリケーンによる被害であるが、事前に充分なハード対策(この場合は堤防と排水施設の整備)が行われていれば、同じ理由でこのような甚大な被害をこうむることはなかっただろう。最も大切なハード対策を、限られた予算の中でどの程度まで整備するか(何千年に一度の災害に備えるのか、それとも何百年か何十年か)が為政者の行う災害対策のポイントであるといえる。現にオランダでは1953年の大洪水をうけ、1万年に一度といわれる規模に対応する洪水対策に取り組んでいる。どれほど巨大な災害にでも100%、耐えられるようなハードの整備はありえないが、被害を社会が許容できる程度にまで軽減するという意味で、最も優先すべきはハード対策である。それで不十分な部分を、ソフト対策(例えば居住地域の制限や避難誘導など)で補完していくのが最も好ましい対応であろう。現地の貧弱な堤防と排水施設を調査し、防災はまず最低限のハード整備からだと確信した。ニューオーリンズではそれが構築されていなかった。
被災後の、住民に対する調査では、政府の対応の悪さが上位に挙げられやすい。今すぐに食べるもの、今夜寝るところに不自由した住民からは、被災後の救援策への不満が大きくなるのは当然だ。しかしながら最も考えなくてはならないのは、どうしてそのような被害が生じてしまったのか(被害を減らすことができなかったのか)という、発災前の備えの部分である。今まさに困っている被災民の救済はもちろん大切であるが、災害が発生する以前に被害が少なくなるような備えをしておくことにこそ、災害対策の本質がある。しかしながら本質の解明よりも、目先の救援策に人々の関心は集まりやすい。そして関心の集まっているところでの対応を誤ると、本質の解明どころではなくなってしまうという側面も同時に理解しておかなければならないだろう。
カトリーナの被災後の新たな再度災害防止策は、運河の入り口に水門を設けることである。これにより、ハリケーンの襲来が予想されれば水門を閉じ、急激な水位上昇を防ぐことができるようになる。水門を閉めると、運河内の水を排水できなくなってしまうことにもなるため、水門付近への排水ポンプ設置がセットで行われる。毎年6月からがハリケーンシーズンに入るとされているが、これにあわせたより強固な備えは、調査時点では極めて遅れているように感じた。
突然、揺れに襲われる地震と違い、ハリケーンは発生から被害を受けるまでに時間的な余裕がある。災害対策はまず何よりもハード対策であることは前項で述べたが、それで及ばない部分はソフト対策で補う必要がある。つまりハード対策が脆弱であっても(あるいは脆弱であるからこそ)適切なソフトにより対処することで、被害を減らすことは充分可能であったはずだ。にもかかわらず1300名以上の死者が出た。これは適切な避難誘導が行われなかったからだといえる。
2000年に行われた国勢調査では、市内でおよそ12万人が自家用車を持っていなかった。避難に関しての状況を時系列で整理すると、以下の通りである。
結果として自ら避難する手段を持たない貧困層が取り残され、1300名の死者が発生した。老人ホームに取り残された30人以上の水死体も発見されている。いくら避難命令を出そうとも、市民がそれを実現する手段を持っていなければ、政府は責任を果たしたことにはならない。かねてからニューオーリンズのハリケーンに対する脆弱性は指摘されていた。にもかかわらずこのような市民に対する有効な避難計画をあらかじめ策定しておかなかったのは、明らかに政府の失策である。
1995年から堤防の再強化計画が進んでいた。この10年間での支出総額はおよそ5億ドルであり、これを年間の平均にならすとおよそ5000万ドルである。しかしながら2003年からはイラク復興支援に予算が取られ、2004年度は3650万ドル、2005年度は1040万ドルと大幅に減額されていた。さらに堤防がカテゴリー4もしくは5に耐えうるかの調査費として工兵隊が要求した400万ドルには、予算はつかなかった。
限られた予算をどこに配分するかは、政府と議会の判断である。9・11テロ以降、予算をテロ対策に傾斜配分することに対しては、国民的合意があったと理解していいだろう。
2006年6月現在、連邦両院で審議中であるが、メキシコ湾岸での石油採掘に課税し、湾岸地区の各州がそれを災害対策費として受け取るという法案が可決の見込みである。これにより年額20億ドルもの予算が毎年継続的に災害対策にあてられることになれば、抜本的な対策が恒常的に講じられることになる。
まず、時系列で一連のうごきを整理する。
ブッシュ大統領や多くのホワイトハウス高官が夏休み中だったということもあり、ホワイトハウスの初期対応には明らかに遅れが見られたというのが、マスコミの一致した論調である。少なくとも26日に州レベルでの非常事態宣言が発令された時点で、ワシントンDCに戻るべきであった。9月1日の、堤防決壊は予測できなかったとの発言をみると、事態の深刻さが大統領に十分には伝わっていなかったと思われる。
しかしながらカトリーナの被害から半年が経過した2006年3月1日、AP通信が当時のスクープ映像を放映し、事態の解釈が一転した。カトリーナ上陸の前日(8月28日)、FEMAのブラウン局長がテレビ会議で、夏休み中のブッシュ大統領に堤防決壊により救援が手遅れになる恐れがあるとの報告をしていたのである。これに対し大統領は質問せず、準備はできていると応じた。この映像がどこからリークされたのかは不明であるが、このスクープによりブッシュ大統領の支持率は、ウォーターゲート事件で辞任したニクソン大統領と同じレベルまで下降した。
共和党のブッシュ大統領に対し、ブランコ州知事は民主党保守派に属し、両者の関係はもともと良くなかった。9月2日の指揮権移管拒否は、9・11以降中央集権を目指す大統領と州兵への指揮権を維持したい知事との対立との説のほかに、そのような事情が関係しているとする説もある。9月5日にルイジアナ州都、バトンルージュで避難所になっている集会所を訪れた大統領は、同時に集会所を訪れていた知事とは全く別行動だった。知事によれば、大統領の訪問については一切知らされていなかった。
米国においてもわが国においても、災害対策は第一義的には地方自治体の任務である。しかしながらそれが国家的な危機に及ぶようなものである場合には、国家が主体的に乗り出す必要がある。1995年の阪神・淡路大震災でも村山冨市総理の対応の遅れが大きな批判を受けた。同様に、カトリーナにおいても大統領の判断の遅れが、被害を拡大したと評価できる。
カトリーナがルイジアナ州に再上陸した時間(8月29日午前6時15分)からおよそ5時間後に、FEMA(連邦危機管理庁)のブラウン局長は、その上部機関のDHS(国土安全保障省)のチャートフ長官に、48時間以内のFEMA職員1000名の現地派遣を報告した。このことは、本来なら事前に派遣すべきであったにもかかわらず、初期対応に明らかな遅延があったとの大きな批判の対象になっている。その後ブラウン局長が現地視察を行った際、「こんな状態とは知らなかった」と発言するなど、FEMAは初期の段階において十分な状況を把握していなかったといえる。マスコミの報道により被災地の壊滅的状態が周知の事実である時に、このような発言をすることは国民感情を逆なでするもの以外の何物でもない。ブラウン局長は9月9日に事実上の解任をされ、12日に辞任した。
FEMAのニューオーリンズ現地本部(Tony Robinson , Response & Recovery Division Director , FEMA , USDHS,Keala J Hughes , Intergovermental affairs , Hurricane Katrina Area Field Office , FEMA , USDHS)と、ワシントンDCの中央本部(Linda W Carpenter , Program Specialist , Office of International Affairs , FEMA , USDHS)の両者を訪ね、どちらでも「なぜ1300人もの犠牲者が生まれたのか」と尋ねた。いずれの担当者からも「われわれ(FEMA)は避難勧告をした。にもかかわらず避難をしなかった住民の自己責任(their choice)だ」と、言い切った。重ねて「ではなぜブラウン局長は更迭されたのか」との問いに、「それは政治的な理由(であり、失策があったわけではない)によるものだ」と、両者からまた同じ答えが返ってきた。中央本部では、FEMAの役割についての問いに対し「被災後に、連邦の予算を適切に配分するためのアセスメントを行うことであり、そのために現地に部隊を派遣している」との説明があった。
FEMAは2003年にテロ対策強化のために新設されたDHSに統合され、閣僚級だった局長は次官級に格下げされた。それまでFEMAの任務は災害対策が99%でありテロ対策は1%であったが、統合後はテロ対策に大きく重点が移っている。
また、FEMA執行部の経験不足も指摘されている。ブラウン局長はもともとはオクラホマ州弁護士として活躍し、国際アラビア馬協会理事に就任した。その後、大学時代のルームメイトであるオルボー氏が、2000年の大統領選挙でブッシュ選対の責任者を務め、2001年にFEMA局長に就任すると、ブラウン氏も相談役としてFEMAに招かれた。2003年にオルボー局長が退任すると、その後継者としてFEMA局長に就任したのである。FEMAのホームページでは、ブラウン局長はオクラホマ州で危機管理に従事していたとの記載があるが、実際にはほとんど経験がなかったようである。
ブラウン局長を含むFEMA執行部8人のうち、5人がFEMA以前に災害対応の経験がほとんどなかったことも、報道で明らかになっている。2003年の組織改革で、FEMAがDHSに統合された際、FEMAのスタッフが大量に流出したという指摘もある。
FEMAは生活支援のため、1家族あたり2000ドルのデビットカード(即時決済のキャッシュカード)を支給した。これにより1万1000世帯が受給されたが、GAO(連邦会計検査院)が2006年2月に発表した報告書によると、このうちおよそ5000世帯が不正に二重取得をしていた。また家屋の修繕や生活費といったこのカードの本来の目的通りの使用以外に、1100ドルの結婚指輪や450ドルの刺青代、さらにはギャンブル代や娯楽代に使われた例も報告されている。連邦司法省は2006年2月現在、救護資金を不正に入手した220人をすでに告発し、40人が有罪判決を受けている。
わが国では阪神・淡路大震災を受け、1998年に被災者生活再建支援法が議員立法で成立。さらにこれが2004年に改正され、最高で200万円の支給が可能になっている。支援法は、自然災害によりその生活基盤に著しい被害を受けた者であって経済的理由などによって自立して生活を再建することが困難なものに対し、都道府県が相互扶助の観点から拠出した基金を活用して、自立した生活の開始を支援することを目的としている。対象となる被災世帯は、改正前は全壊世帯とされていたが、改正により大規模半壊世帯にまで拡大された。支援金の支給額は世帯の年収、世帯主の年齢および家族数により異なり、内容は大きく生活関連経費と居住関連経費のふたつに区分されている。大規模半壊世帯はこのうち居住関係経費のみが支給対象になっている。
わが国で住宅本体の再建に対する公費投入の是非については、議論が分かれている。是とする立場の主張は、生活の基盤は住宅本体であり、これが再建されない限り家庭も地域コミュニティーも災害から立ち直ることができないというものである。他方、非とする立場の主張は、国民の税金を個人財産の補填に投入することはできないというものである。わが国では大災害が発生するたび、必ずといっていいほど国や自治体による被災者支援が手厚くなっていく。そのこと自体は素晴らしいことであるが、それがあまりにも進みすぎると災害が発生する前に、個人あるいは国、自治体が自らの努力でハードを整備し、被害を減らしていくという努力が失われることに繋がりはしまいか。「大災害が起きて家が崩れたら、国が家を建て替えてくれます」ということでは、耐震補強などで家を強くすること、あるいは風水害に備えて堤防をしっかり作ることなど、被害そのものを減らしていく努力が皆無になるのは必定だろう。長期的に見れば、住宅再建に対する公費投入は亡国の策であるとも考えられる。
わが国で被災者生活再建支援法により支援金を受け取る場合には罹災証明書が必要であるが、その発行のためには家屋の被害判定調査を要する。国が定めた基準により、屋根、外壁、基礎などの7項目について被害の程度を点数化する。国のほかに県や市などの自治体独自の見舞金制度もある。新潟県中越地震を例に、新潟県長岡市に居住する年収500万円以下の世帯の場合、国・県・市のすべてを合計すると以下の通りである。
被害の判定によって、支援金にこれだけの差があるのである。このことを知った多くの市民が自分の家の判定結果を確認し再調査を要求するのは理解できる。被災した住宅のほとんどは留守であるために、外観調査とならざるを得なかったが、市民からすれば内部を見ていないのに判定結果を出され、その結果(とりわけ1から2点差で下のランクに含まれる場合)で判定されていれば、再調査を頼みたくなるだろう。また再調査によって点数(とランク)が上がった実例が出てくると、噂がうわさを呼ぶように再調査依頼が殺到し、収拾がつかなくなった。長岡市内だけでおよそ8万戸の建物がある。また実際の被害と上記の4区分は、説明書を読んでもイメージがなかなか合致しない。このように被害判定調査は極めて困難な作業である。長岡市長の森民夫は、被害を4区分するのではなく単純に、被害点数×単価で支給額を決定させることを提案している。そうすれば被害の程度と支給額との関係がより公平になり、しかも住民も納得しやすいからである。被害判定調査の合理化は必要なことであろう。
2006年3月現在、ニューオーリンズでFEMAに申請されているトレーラーハウスの希望は8万2000戸で、そのうち5万2000戸が設置されている。FEMA運営法により、FEMAが設置できる仮設住宅は「移動可能のものに限る」とされており、わが国の仮設住宅と違い、トレーラーハウスが多用される。これはFEMAが一般住宅業界の競争相手にならないようにするためである。トレーラーハウスが設置できる場所に関して、洪水地区には禁止であると法で定められていることもあり、希望者になかなか行き渡らないのが実態であった。トレーラーハウスの設置には1戸あたり7万5000ドルの費用がかかる。風が吹けば揺れる簡素なつくりで、もし再びハリケーンに襲われれば真っ先に避難する必要がある。
トレーラーハウスは、まとまった土地に設置することになるが、「トレーラーハウス村」の建設には、高級住宅地などから反対運動が起きている。トレーラーハウスの利用者が、黒人が多く含まれる低所得者層から成り、環境が悪くなるとの危惧からである。いわゆる迷惑施設に対する、NIMBY (Not In My Back Yard)問題である。これに関しては、ニューオーリンズ市長選挙の再選挙にあたり、未帰還市民からの得票が大きな課題であった現職のネーギン市長が4月に、これまで禁止していたトレーラーハウス村に関しての協議をFEMAと始めたことで、設置に向け事態は大きく進んだ。
FEMAは、家屋賃貸やトレーラーハウス供給が行われるまでの期間、ホテル滞在費の負担を行った。ルイジアナ州とミシシッピ州のあわせて7400室が、3月15日まで負担が延長された。それ以外の州の3000室は3月1日に支出が停止された。ピーク時にはおよそ8万5000室分を負担。支払い総額はおよそ5億6200万ドルにのぼっている。
わが国の仮設住宅で問題になるのは大きく4点に集約される。これは阪神・淡路大震災、雲仙普賢岳噴火災害、有珠山噴火災害に共通した傾向である。
これ以外の項目は、大きなウエイトを占めていない。仮設住宅は建築基準法により、2年以内の期限に限り使用が許可されている。躯体そのものは解体と再利用が優先され居住性が犠牲になっている傾向が、上記の4点からも伺える。プライバシーのない体育館などの避難所生活から比較すればましではあるが、今後仮設住宅を考える上では、入所者の構成(バリアフリー)、地域性(断熱対策や、雪下ろしをした雪の置き場所を考えた隣棟との間隔)なども鑑みる必要があるだろう。新潟県中越地震では、新潟県がおよそ3000戸の仮設住宅を建設した。 建設費は寒冷地対策費を含めて1戸あたりおよそ350万円だった。いずれ取り壊す仮設住宅にこれだけの費用を掛けるなら、これを必要最小限に抑え公営住宅や民間の賃貸住宅などにその費用を振り分け、それを被災者用住宅として活用するべきだという議論が起きるのは当然である。また入居にあたって、公平性を重視するあまりに抽選で入居先を決めるなどして住民(特に高齢者)があちこちの仮設住宅に分れてしまうと、従来のコミュニティが崩壊し、孤独死が増加することはよく知られている。わが国においては阪神・淡路大震災での仮設住宅における孤独死など様々な問題点を教訓に、三宅島噴火災害では避難民だけを集住させることをせずに、既存のコミュニティに存在する仮設でない住宅に集住させたことが成功を収めている。
2006年5月20日、ニューオーリンズ市長選挙の決戦投票が行われた。現職のネーギン市長(民主党=黒人)が52%の得票率を得て、ランドリュー・ルイジアナ州副知事(民主党=白人)の48%を僅差で破り、再選を決めた。
そもそも市長選挙は2月4日に実施される予定だったが、カトリーナの影響でおよそ3ヶ月間延期され、4月22日に行われた。24人が立候補し、ネーギン市長・ランドリュー副知事・フォーマン自然保護協会会長(白人)の有力候補3者のうち、ネーギン市長が39%、ランドリュー副知事が29%、フォーマン会長が17%を獲得、いずれも当選に必要な50%に達せず、上位2者による決戦投票が行われた。
市外に避難した有権者にも選挙権があり、実際、多くの市民が避難しているジョージア州アトランタ市、テキサス州ヒューストンなどでも候補者による演説が行われた。
ネーギン市長は、これまでの黒人政治家に多かったキリスト教会や公民権運動出身ではなく、ケーブルテレビのCEOという、実業界出身である。
ランドリュー副知事は、父親が1978年まで、白人最後となるニューオーリンズ市長を務めた。姉は上院議員という名門。
フォーマン会長は、事業家としてニューオーリンズ動物園や水族館を成功させた。夫人はネーギン市長のブレーンだったが、夫の市長選出馬に伴い辞任した。
ネーギン市長は、連邦の祝日であるマーチンルーサーキング誕生日(1月16日)のパレードで、貧困層の多い黒人市民の60%以上がニューオーリンズ市に戻っていないことに関して「ニューオーリンズは黒人が過半数の街であり、神がそう作ったのだから、帰還していない黒人が帰還して、黒人と白人がよく混ざったチョコレートシティーにまた戻さなければならない」と発言。これが不必要な人種問題発言だとして多くの非難を浴びていた。前回の市長選では、ネーギン市長は白人票も多く獲得したといわれ、この発言により苦戦が予想されていた。また24人の立候補者のうち、ネーギン市長だけが黒人であったので、決選投票ではその他の候補者が共闘するだろうとされていた。にもかかわらず僅差ではあったがネーギン市長が再選したのは、彼の楽観的な姿勢に対する市民の期待によるものだとの分析がある。われわれ調査団がネーギン市長(C Ray Nagin , Mayor , City of New Orleans)に面会し、義捐金を手渡したのは本選挙の3ヶ月前にあたる時期だったが、「日本からの調査団が市長を訪問した」として多くのマスコミに囲まれた。ネーギン市長は極めて陽気で、大災害に直面している深刻さを全く感じさせなかった。再選挙の当選の挨拶で、ネーギン市長はブッシュ大統領への謝意と、ブランコ知事(民主党)との関係修復について述べた。
カトリーナ以降、市役所の職員の半分にあたる3000人がレイオフされ、市はその機能を大幅に失っている。再選されたネーギン市長のリーダーシップが、ニューオーリンズ市の将来に極めて大きな影響を及ぼすことに疑いを持つ人はいない。
カトリーナの被害により家を失った市民は、安全を確保した上で一日も早くそこに家を再建し、以前と同じ生活を送りたいに違いない。しかしながら都市計画を考える上では、災害の常習地には家を建てるべきではない。
2006年1月、市長の諮問機関であるニューオーリンズ市復興委員会は整合的な災害復興を行うため、市内を13の地区に分けそれぞれの地区から住民自身による再建計画を4ヶ月以内に提出するよう求めた。地区に戻る住民が過半数に達しない場合や再建計画を策定できない場合には、ハリケーン前の実勢価格での土地収容を認めるという内容だ。われわれ調査団は、坂戸総領事(坂戸勝 在ニューオリンズ日本国総領事)からこの土地利用計画の説明を受けた。
この計画は最低でもこの時点から4ヶ月間(つまり被災後、8ヶ月間)、家が建築できない、すなわち戻ってこられないということを意味する。被災した住民は猛烈に反発している。前ニューオーリンズ市長で現全米都市連盟のモリアル会長の発言がそれを代弁している。すなわち「市民に再建を禁止するのはかわいそうだ。4ヶ月間再建してはならないということは、戻ってくることはできないと言っていることである。ほとんど全ての物を失った市民に対して、僅かに残っている物まで奪うことを意味している。大規模な土地収用を包み隠した計画である」との発言である。
しかしながらその土地が私有財産であっても、そこに災害が発生すれば政府は税金を使って救援しなくてはならない。自己責任だから放っておくという訳にはいかない。その意味で、その土地は自分ひとりのものではないのである。災害の常習地の土地利用に制限が掛かるのは当然のことであると思う。いうまでもないが、それは何よりも土地利用者自身の安全という利益にかなうものであるし、政府の役割は国民の生命と財産を守ることにあるからだ。
熊野灘に面した三重県度会郡大紀町は、想定される東海・東南海・南海地震により最大8メートルの津波が発生し、およそ1000戸のうち700戸が全半壊、死者は260人にのぼるとの被害想定がなされている。これを受け、大きな津波被害を受ける可能性のある550戸に対して、安全な高台へ移転させる被災前復興計画が2006年5月から進められている。被害の未然防止を目的に住宅の移転計画が策定されるのはわが国で初めてである。移転地の選定や費用負担には、モデル地区として国や県の補助を受けたい意向だ。しかしながら町が1月に実施したアンケートでは「津波被害が予想されても現在の場所に住みたいか」との問いに、「そう思う」「どちらかというとそう思う」との回答が61%あった。
生命と財産を守るため、という明確な目的に関してすら、利害に直面した関係者に理解してもらうことが極めて困難なことは、ニューオーリンズでもわが国でも同じだと強く感じた。こうした場面で世論を導くことは、われわれ政治家の果たすべき役割である。
災害対策は、限られた条件の中でとりわけ厳しい選択を迫られるという特徴を持つ。今、目の前で困っている被災者への救済は急務であるし、将来の再度災害防止に向けた抜本的な対策も重要だ。どちらか一方だけの満足な手立てすらも、混乱した状況と限りある予算のなかでは困難だ。しかしながら同じように両者を全うさせなくてはならない。短期的利益と長期的利益はしばしば矛盾するが、その相克こそが災害対策の要諦である。ニューオーリンズの被災現場を視察しながらいつもこのことが頭から離れなかった。一般に、前者への取り組みは目に見えて多くの被災者から喝采を受けやすく、それゆえに後者への取り組みは後回しになりがちである。政治家は選挙というかたちで有権者からの評価を受ける。同時に、その政治家が何をなしたか、歴史からの審判も受ける。繰り返しになるが、そのどちらもが大切であり、両者を全うさせなくてはならない。
ニューオーリンズの被災地を訪れ調査したことは、政治家が情熱と責任感を持って判断していくことの重要性を痛感させられる、極めて貴重な機会であった。
[組織概要]
大規模災害に対応するアメリカ合衆国連邦政府機関。
洪水、ハリケーン、地震、原子力災害などに際して、連邦政府、州政府、その他の地元機関の業務を調整するとともに、家屋や工場の再建、企業活動・行政活動の復旧を資金面から支援を行う。
以前は、大統領直属の独立の連邦機関として他の連邦機関に対する強力な指揮命令系統を有し、世界的に緊急事態対策の手本とされてきたが、「9・11」以降、国土安全保障省の一機関となり、権限、規模が縮小された。
「8月29日に大統領が連邦大災害宣言をしたにもかかわらず、FEMAの対応が非常に遅れたという報道などがある。なぜ救援対策が遅れたのか。」という質問に対しては、「政治の問題である。」「FEMAは、被災後に連邦の予算を適切に配分するためのアセスメントを行うことであり、そのために現地に部隊を派遣している。」という回答が帰ってきた。
この意味は、各方面の関係者から話を聞いて始めて理解できた。アメリカの現状は、連邦政府が、共和党の大統領であり、州知事は民主党、市長は、民主党員であるが、大統領選では、ブッシュ大統領を支持したため州知事とのコミュニケーションがうまくいっていない。この政治のねじれが、連携を悪くし、FEMAへの要請が遅くなった。
しかし、専門家は、それだけではないという。「9・11」以降、FEMAは国土安全保障省の一機関となり、権限、規模が縮小されたことや、FEMAの上層部に緊急事態対応に経験のない人が多すぎたという声がある。「9・11」以降、アメリカ連邦政府の政策が、テロ対策にシフトし、自然災害対策が大きく後退したことは否めない。
また、「亡くなった人や行方不明の人の大部分は、避難をしたくてもできない経済的に厳しい住民や高齢者であると報道されている。これらの住民に対して何らかの救援策はとれなかったのか。」という質問に対しては、「住民への避難勧告が出ているので、避難するかどうかは、本人の自己責任である」という回答が帰ってきた。アメリカという国の国民性か、それとも責任逃れか、いずれにせよ、日本では考えられないことである。
視察日時:2月10日(金曜日)12時30分
視察場所:米国国際開発局本部(USAID)
対応者 :ジャック・ホーキンス(ディレクター)
医師、看護士、教師、エンジニアなど専門能力を有するアメリカ人ボランティアを海外の発展途上国に派遣し国際協力にあたらせる組織。
2003年5月、ブッシュ大統領がUSAフリーダム・コープスの新しい活動としてスタートさせたもので、米国国際開発局に属している。
今回のハリケーン「カトリーナ」の被災地でも、ボランティア活動を実施。
アメリカの場合、ボランティア組織が、体系だって組織化されており、ボランティア活動をコーディネート、支援する機関である「USAフリーダム・コープス」の会長をブッシュ大統領が努め、本部もホワイトハウス内にあるというように、政治と密接な関係を持って進められていることに日本との違いを考えさせられた。
われわれ調査団は、米国国防総省総司令部を訪れた。庁舎の建物の形から「ペンタゴン」(五角形)と呼ばれている。2001年9月11日に発生したテロ事件の舞台のひとつである。ワシントンDC発ロサンゼルス行きのアメリカン航空77便が、アフガニスタンのテロ組織「アルカイーダ」によりハイジャックされ、離陸から78分後、ペンタゴンに高速のまま突っ込み爆発炎上した。乗員乗客のすべてと、189人のペンタゴン職員が死亡した。機体がほとんど原型をとどめないほどの甚大な被害であった。激突時にはラムズフェルド国防長官がペンタゴンの執務室にいたが、ちょうどその反対側に激突したため、幸いにも長官に被害はなかった。ペンタゴンにはホワイトハウスのような防空装備が準備されていない。
ペンタゴン自身によるテロ後の様々な調査で明らかになったのが、ペンタゴン内部での避難誘導サインの成功である。テロにより火災が発生し大勢の職員が屋外へ避難したが、内照式の避難誘導サイン(いわゆる非常口灯)は停電により全く機能しなかった。一方で、蓄光式の避難誘導サインはその性質上、ある一定時間以上蓄光すれば、避難に必要な一定時間にわたり光り続けるので、これが極めて有効に機能した。また煙は天井から徐々に下降してくることと、実際の避難行動時には足元を見ながら避難することから、サインの取り付け位置は、天井付近の高い位置ではなく、むしろ足元に近いところへの取り付けが有効であることが、調査で判明した。これを受けペンタゴンでは蓄光式による低位置の避難誘導サインの全館取り付け工事を実施している。蓄光式の避難誘導サインは、一定間隔で設置されるのではなく、避難経路に沿って、ラインで設置されていることが目を引いた。これは実際の避難行動時には、飛び飛びのサインではなく、ラインによるサインの方が圧倒的に安心感があるからだとの説明を受けた。「安全がすべてに優先する」という方針により、ペンタゴンの再整備が行われている。
(館内および近隣地区での写真撮影が禁止されていたため、資料写真なし)
視察日時:2月13日(月曜日)9時30分
視察場所:危機管理室事務所(ブルックリン)
対応者 :レベッカ・オヤマ(プラン・マネジメント・コーディネーター)
市長直轄の局長のもとに体制が組まれており、危機管理のスタッフだけでなく、消防、警察、環境などの専門家もメンバーに含まれる。」
緊急事態の際には、ニューヨーク市危機管理センター(EOC)を立ち上げ、市、州、連邦の各部局、FEMA,FBIなどの専門機関、さらに民間企業や非営利団体などの危機管理に必要なセクションの代表が危機管理局長のもとに一堂に集まり、情報の調整・救援要請・意思決定のための中央情報センターとしての役割を担う。
ニューヨーク市の危機管理のレベルの高さに考えさせられることが多々あったが、何よりも、危機管理という最もセキュリティを必要とするところに、民間の資金・技術を活用しようとする発想に驚かされた。
NewYork City Government , Buildings
James P Colgate , Executive Architectの案内により、ニューヨーク市建設局の避難誘導サインに関する事物を視察した。
ニューヨーク市建設局では2006年7月1日を期限に、75フィート以上の高さの建築物に対して、蓄光式の避難誘導サインの取り付けを義務付けした。これは新築の建築物のみならず、既存の建築物にも適用される。これによりニューヨーク市内にある90万棟の建築物のうち、7階建て以上の1800棟が新たに蓄光式の避難誘導サインを取り付けることになる。規定によると、この蓄光式サインは暗くなった避難通路に十分な光量を提供するためのものではなく、避難者が暗闇の中でも避難ルートが認識できるような蓄光標識、および避難通路のアウトライン、階段、手すり、障害物を表示するものである。このサインは現在使用されている内照式(バックアップ電源付きの電気式サイン)に替わって設置されるものではなく、それらに追加して設置される。蓄光式サインは、輝度・耐水性・毒性・放射性・難燃性などの厳しい基準が設けられている。全米で最も厳しい建築基準を持つといわれていたニューヨーク市では、「9・11テロ」をきっかけに高層ビルの安全基準が見直され、その結果、古いビルにも適用される蓄光式避難誘導サインの導入が決まった。
42丁目のタイムズ・スクエアから8番街までの地区は、ポルノや麻薬取引、犯罪が氾濫する地区で、かつていくつかの劇場があったが、多くは閉鎖したままで荒廃がひどかった。この状況を改善するために、1981年に「42丁目再開発プロジェクト」が発表され、歴史的な劇場建築を活用した文化の薫り高い地区の形成を目指した活性化が推進されようとした。
総額25億ドル余のこのプロジェクトは、州の開発公社(Empire State Development Corporation : ESDC)と市の経済開発公社(Economic Development Corporation : EDC)によって、42ndストリート開発公社が設立され進められた。1980年代の開発は必ずしもうまくいかず、多くの問題を抱えた。1990年になって、開発の前提条件が見直され、オフィスの建設よりも、商業やレストランなどの建設を優先させることとなったが、それでも1993年までは開発計画は思うように進まなかった。
1993年にディズニー社が州と市から2500万ドルの低利融資を受け、アムステルダム劇場を修復し、ミュージカルに使うこと、そしてディズニーショップを開設することを発表すると、状況は一変した。レストランやエンターテイメントビジネスが触発され、主要な再開発ビルが次々に建設され、劇場の修復再生も急速に進んだ。犯罪の発生率も1993-96年にかけてほぼ半分以下にまで減少した。
エンターテイメントだけではなく、オフィスや商業施設、ホテルなどの開発も始まった。特にオフィスでは、ナスダックのインフォメーションセンター、ロイターの本社ビルなどが整備され、新たな情報ビジネス機能の拠点化も進行している。ここへの企業移転には様々な税の優遇措置が用意されている。
42丁目再開発計画では、既存の古い劇場を修復して利用し、新たな開発を加えつつ、一度は荒廃したエンターテイメントの拠点を復活させることを大きな柱に推進された。その指針に沿って、ESDCとEDCは、劇場の修復と修復後の運営を受け持つ非営利団体The New York 42nd Street Inc.を設立した。The New York 42nd Street Inc.は、州知事と市長に任命された芸術やビジネス分野の専門知識を持つメンバーで運営されている。The New York 42nd Street Inc.は、当地区内にある9つの歴史的建造物の指定を受ける劇場を修復した。また青少年のための様々な文化育成プログラムを実施している。
市では、1995年に風俗産業の集中を禁止するゾーニングを制定し、この規制により、学校、教会、住宅地域を中心に半径500フィート(約150メートル)以内の地域では、成人向け娯楽施設の営業が不可能になった。そして、商業スペースの40%以上が成人向け娯楽に使用されている場合、もしくは約900平方メートル以上のスペースが成人向け娯楽に使用されている場合には、成人向け娯楽施設と指定され、ゾーニングの適用を受けることとなった。この規制により、タイムズ・スクエア周辺の環境が大きく変化した。
民間からの地区の環境整備の体制作りが進められたことも重要である。1992年にタイムズ・スクエアを中心とした地域にタイムズ・スクエアBID(Times Square Business Improvement District)が結成された。これはニューヨーク市内に49ヵ所あるBIDのうちの1つである。タイムズ・スクエアBIDでは、地区の安全確保、清掃の他にウォーキングツアーや観光案内所の運営、毎年数十万人が参加する大晦日のカウントダウンイベントの開催を行っている。
BIDシステムは、州によりその呼称も異なるが、現在少なくとも40州が制度を持ち、活動しているBIDは430以上ある。BIDは、主に商業地域の資産所有者が中心となって設定される。そして彼らはBID運営団体(NPO)を設立する。住宅が多く含まれるエリアでは、住民代表も役員に加わることもある。 市は、当該地区内の資産所有者たちから特別評価税(スペシャル・アセスメント)という賦課税を加算して徴収する。その資金100%を地区のBID運営団体に還元し、それによりBIDの諸事業を行うのである。具体的にはBIDにより内容は大きく異なるが、地区内の清掃、警備、歩道整備、花壇設置、イベント開催などが行われている。大規模BIDでは、都市整備への支出、例えば駐車場の整備、道路状況の変更などを行う場合もある。
ニューヨーク州は1981年にBIDの設立を可能とする法律を制度化し、その第一号となるBIDは1984年に創設された14丁目ユニオンスクエアBIDであり、現在では44のBIDが存在している。
これらのBIDの具体的な活動としては、ストリートスケープの改善(ゴミ箱の設置、ニュースボックスの設置、ストリートサインの設置、建物ファサードの改修、花壇やフラワーボックスの設置、街路樹の手入れなど)、マーケティングプロモーション活動(様々なスペシャルイベントの実施、宣伝広告活動、地図の配布や警備員による道案内など)などが挙げられる。地域コミュニティへの様々な支援もBIDの活動に含まれている。
BIDが正式に認可されるまでには、大変複雑なプロセスを経ることが要求される。また、設立後も頻繁に資料、報告書の作成提出が義務づけられている。これは強い権限を付与されるBIDに対して、運営体制の信頼性、地域サービス計画の妥当性、地域商業者や住民の理解と指示、さらに運営の透明性を担保するための措置である。
まず、BIDの設立には地域の不動産所有者、商工会などが単独で、あるいはコミュニティ・ボード、市議会、市長などと連携して立ち上げ組織を作ることから始まるのが一般的である。立ち上げ組織は市のデパートメント・オブ・ビジネス(DBS)に創設の意図、計画しているBIDの境界などを記した書類を提出するとともに、地域に対するBID作成に向けた行動、情報開示の計画を作成しなければならない。
続いて、市長からディストリクト・プランの作成が許可される。ディストリクト・プランは各BID活動の根拠となる基本計画であり、BIDの対象地域の境界、サービスの内容、予算やアセスメントの内容、メンバーの内訳、役員会の構成などについて規定している。
ディストリクト・プランの作成では、地域内の全ての不動産所有者、小売業者、居住者などに対して必要な情報を伝達し理解を得るまでに2年ほどかかるケースもある。作成プロセスには都市計画などの専門家が参加し、行政、不動産所有者、地域住民などの関係者が協議しながら進められるのが一般的である。
作成されたディストリクト・プラン案はDBSに提出されレビューされる。レビューが始められるためには、60%以上の不動産所有者の支持を示す資料や、きちんとした地域への伝達が行われたことを示す資料の添付が必要となっている。続いて市長、市の会計責任者、その地域の市議会議員、都市計画局、その他関連機関などによるレビューミーティングが行われる。こうしたレビューの後さらに都市計画委員会による公聴会、市議会の承認、州レベルでの審査などを経て最終的にBIDの設立が認められることになる。
BIDの運営を直接担当するのはディストリクト・マネージメント・アソシエーション(DMA)である。DMAはディストリクト・プランを施行する責任を課せられた組織としてBID法で規定されている。DMAはNPOである。DMAは理事会と実務を担当するスタッフで構成されている。
理事会は選挙によって選ばれ、最低13名以上、その過半数は地域内の資産所有者でなければならず、一人ずつのビジネスオーナー代表、住民代表も参加していなければならない。これらに加え、市長、対象地域選出の市議会議員、市会計責任者、さらに議決権を持たないメンバーとしてコミュニティ・ボードから代表が参加することになっている。
DMAは年一回のミーティングを開催し、財務状況、サービスの実施状況、次年度の計画などについて報告を行うことが義務付けられており、年次報告書としてまとめられDBSに提出される。
BIDには独自財源を確保する権限が与えられている。これはBID地域内の不動産に対して課される一種の受益者負担金である。
ディストリクト・プランには地域内の対象不動産に課されるスペシャル・アセスメントの算定式が記されている。主な算定方式には、建物の正面の長さから計算する方法、市財務局の固定資産課税評価額を参考とする方法、建物容積から計算する方法の三つがあり、これらを組み合わせてBIDで独自に算定してよいことになっている。アセスメントの上限として、BID内の全不動産に課せられたその年の市税総額の20%が目安として設けられているが、これまで限度一杯まで認められたケースは無い。
アセスメントは商業系の不動産所有者、テナントに対して課せられ、住居には原則的に課せられない。徴収は市税の徴収と同時期に、市によって行われる。アセスメントとして徴収されたお金は、市がいったん保持し、DBSが窓口となりBIDに定期的に支払われる。
BIDはその対象地域をビジネス、商業系集積地区を中心に定めていることが一般的であるが、BIDはあくまで地域の総意を代表するものでなければならず、一部の事業者ばかりで話を進めることは許されない。この観点から理事会にはコミュニティ・ボードからの代表が必ず参加しており、商業環境の改善だけでなく周辺地域の現状も理解した地域づくりの取り組みが可能となっている。
BID地域内の居住者にはアセスメントの支払い義務はないので、受益者負担の原則から言えば居住施設地区への清掃やパトロールなどは行う必要がないが、実際には地域のためのボランティア活動として実施されている。これはBIDが地域住民を大切にしていることの表れであり、地域住民の支持を得る上で大きな効果を上げている。
自らの考え、責任で地域作りを行っていくBIDの仕組みは大変興味深いものであるが、わが国で実際に導入するためには、三つほどの大きな課題が見える。
それでは、わが国では、BIDはまだ無理かというとその可能性がないわけでもない。わが国では商店会や商工会がまちづくりの一端を担ってきた歴史があり、コミュニティ・ボードに相当する役割を自治会や行政区が担い、商工会などと連携してまちづくりを行ってきた例も多数ある。日本の既存の枠組みを生かしたかたちでの導入してみることが検討できるのではないだろうか。その際にはDBSのような立ち上げ段階における行政からの十分な支援、経営、都市計画などの専門家の適切な参加も併せて考慮される必要であろう。また、透明性のある組織運営と、その監視体制も必要である。
行政のあり方から見た場合、BIDは市のサービスに加えられものとして位置づけられており、BIDが設置されても既存の市のサービスが低下することはあってはならないとされている。市の財政が逼迫しているから地域に肩代わりさせるといった考え方は排除されなければならない。
2001.9.11のテロによるワールドトレードセンター(WTC)事件後のダウンタウン再建を、市民の側から見当していくために、2001年10月に、80余の民間の非営利団体からなるこの市民連合(Civic Alliance)は発足した。
会員となっている団体、組織は、コミュニティ団体、労働団体、ビジネス団体、計画団体、環境団体、文化団体、教育団体、法律団体、ボランティア団体、各種財団、大学等々、非常に多彩である。この団体をとりまとめているのが、地域計画協会(Regional Plan Association)であり、ニューヨーク大学、プラット大学、ニュースクール大学の3大学が運営をサポートしている。
直接的な運営資金は、会員のうちいくつかの財団から、運営そのものは、各団体のボランティア的な人的提供によっている。
Civic Allianceの最初の大きな活動は、2002年2月に開催されたListening to the Cityであった。このイベントには約700人が参加して、初めて市民の意見を集約した。
2002年2月に開催されたこの市民ワークショップは、様々な市民の参加を得て具体的な議論をする試みであった。約700人の参加者を70のグループに分け、それぞれのグループはできるだけ多様な構成となるように配慮された。各グループにはCivic Allianceのメンバーからボランティアが1名ずつ進行役として配置された。
Civic Allianceはこれらの人々の議論を活発に行わせるため、ハイテクを活用した。会議の参加者のデータ集計、各議論のテーマなどに対するアンケート実施・集計、議事録の作成・集計などにコンピューターを利用し、各議論のセッションの最後にはコーディネーターが整理集計した議論の内容などを紹介して、場合によっては具体的な説明を各グループから行ってもらうなど、各グループごとに議論をさせ、かつ会場全体の議論も行うという試みであった。
当日全てのセッションが終わり退場する際には、各セッションで行われたアンケート結果と、主要な議論についてのレポートが出口で即日配布された。
市民参加の多様な議論を行い、それを即座にまとめるのは重要であるが、大変難しい。通常は、大規模な市民参加の会議のまとめは、早くても2-3ヶ月後というのがこれまでの認識であった。しかし、計画が同時進行で進められている場合などではこれでは遅すぎるのである。
Civic Allianceは、ハイテクの活用によりこれを克服した。参加者のシステムに対する満足度は97%に達した。このシステムに要した費用75000ドルは、Civic Allianceに参加する多くの財団からの寄付でまかなわれた。
第1回が大成功し、この成果は新聞なども大きく取り上げられた。その意味でのインパクトは大きく、行政側もこれを無視できない状況となっていった。この成功で自信を付けたCivic Allianceはより大規模な第2回を計画していた。こうした中でLMDCと地権者のポートオーソリティはこの機会に市民に議論してもらう必要性を感じていた。両者は第2回Listening to the Cityへの資金提供を行うことを決定し、5000人規模のタウンミーティングが7月20日に開催されることが決定した。
LMDCとポートオーソリティは第2回開催が決まると、それに合わせて7月16日に6つの再開発コンセプトプランを発表した。その直後の7月20日4300人余の参加者を集めて実施された。また、7月22日にも200人規模の追加ワークショップが実施され、オンラインでも意見募集が行われた。
LMDCとポートオーソリティの思惑は、6つの再開発コンセプトについて、どのようなイメージが良いかをこのタウンミーティングである程度方向付けをしてもらうことであったが、実際には全ての案に対し、非常に否定的な評価が下された。
批判の多くはなぜこれほど多くの商業・業務床ボリュームを確保しなければならないのかと言うものであった。いずれの案もWTCの周りを大きなビルが取り囲むようなイメージになってしまっていたのである。これには大きな理由があった。再開発の資金としては保険金が欠かせないが、WTCの保険金支出条項に被害を受けたビル床面積の一定以上の回復が含まれていたからである。それを考慮するとコンセプトプランでは大きなビルをイメージせざるを得なかったのである。
6つのコンセプトプランは、全て名前の最初に「メモリアル」がついており、要は、メモリアルの土地利用形態のイメージを議論してもらいたかったのである。しかし、復旧せざるを得ない床面積のイメージを入れてしまったために、土地利用パターンを議論するところまで行かず、全部否定されてしまった。 結局、LMDCとポートオーソリティは8月にこれらの案を撤回し、新たに国際コンペによってWTC跡地の再開発案を策定することを決定した。
このコンペの主体となっている、LMDCを含む州や市の役所側が実際に主導的に事業を行えるのは、サイトにおけるメモリアルと交通ハブの建設、オープンスペースの構築・維持管理などで、周りのビルについては、土地のリース権を持ち、保険金の支払い対象である民間デベロッパーである。役所側はある程度のガイドラインを提示することはできても、この段階で建物のデザインまで規定することは不可能であった。保険金の支払いも決着していない段階では建築主体の意見を取り入れたコンペを行うこともできない。したがって、行われたコンペは、建物のデザインを規定するものではなく、土地利用のパターンコンペであったのである。
11月の末に9つの計画案が完成し、12月8日に一般公開された。延べ10万人がこの計画案を見て、多くの人々が計画案に対する意見を寄せた。また、オンラインでも意見の受付を行った。
LMDCや役所側、Civic Allianceの動きとは別に、2つの団体がユニークな活動を展開した。一つは、ニューヨーク市芸術協会(Municipal Arts Society : MAS)である。MASはニューヨーク市圏内で、述べ230の地域ワークショップを開催し、延べ3500人の参加者を得て約18500件に及ぶアイデアを集め公表した。また、9つの再建案が公開されると、それに対する市民の意見の集約も行った。
もう一つの団体は、「New York New Vision」という建築家、都市計画家の専門家集団である。この団体は2002年7月に出されたコンセプトプランの評価を独自に行い、その後LMDCに依頼され、国際コンペに向けての資格認定応募案の評価と選定を行った。そして、コンペによって提案された9つのプランに対して専門家としての立場から評価を行い、LMDCやポートオーソリティに提出した。これらの評価がそのまま選定に用いられた。
以上のような様々な議論を得て、最終的には州知事と市長との決断で、周りの建物形状から独立的にメモリアルが計画された案が採用された。この決断理由にはWTC事件被害者の遺族たちの強い意向があった。このように市民や、広く世界の英知を集約していくプロセスには多くの学ぶべき点がある。
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