東京発世界文化

このコーナーでは、東京から世界に向けて新しい文化や創造力を活かし活躍する「ヒト」、「モノ」、「コト」などを紹介してまいります。

今月は、落語界の大御所、三遊亭円楽さんにお話を伺いました。


余命10年の宣告から突然噺家への道へ

 17歳の時に肺をわずらい、医者に余命10年と言われて、気がめいる人生だけは避けようと、寄席を見に通ったのが落語界に入るきっかけとなりました。

 当時は戦後間もなく、東京は焼け野原となり静岡の富士山まで見渡せる程でした。「日本という国はいったいどうなってしまうのだろうか」と呆然としたものです。私も敗戦と病気とで気がめいっていましたが、寄席を見に行き笑っている時は、不思議と病気の事は忘れているんです。「ああ、そうか!世の中にはこういう仕事もあるんだな」とその時初めて“噺家(はなしか)”というものを仕事として認識しました。

 しかし噺家になるすべがわからぬまま3年がすぎました。ちょうど私が21歳の時に、元噺家で当時は寄席の番頭さんだった老人に「君よく来るね。相当落語が好きなんだね。どうだね、噺家になってみないかい」と声を掛けられました。「どうやって手続をしたらいいか・・・」と聞くと、「寄席に出入りしている師匠をつかまえて話し、-この男は!-と師匠が思ったら段取ってくれるよ」と教えてくれ、三遊亭円生師匠に弟子入りすることに決めました。

 ところが、師匠は「50年食えませんよ」というんです。でも私が噺家に成りたい一心で頼み込むと「ご両親がそれだけ長い間君の面倒をみてくれるならいいでしょう」と言ってくれましたが、親父には案の定「出て行け!」と言われましたね。その後お袋が説得してくれてようやく「好きにしろ!」と言われました。すぐにお袋をつれて師匠の所に伺いました。

三遊亭円楽さん

三遊亭円楽(さんゆうてい えんらく)
本名:吉河寛海(ヨシカワ ヒロウミ)
<プロフィール>
1933年   1月3日 台東区浅草生まれ
1955年2月 六代目 三遊亭円生に入門、全生を名乗り初高座
1958年3月 二ツ目昇進
1962年10月 真打昇進で「三遊亭 円楽」を襲名

三遊亭円楽さん

落語には、人生の全てが詰まっている

 講談や漫談もある中で、なぜ噺家を選んだかというと、昭和20年の8月15日以前は、「親には孝、国には忠、仰げば貴し我が師の恩」という事を学ぶ“修身”という科目がありましたが、戦争が終った途端に人のものは拾うし、おねだりまでするといった具合に世の中が変わってしまった。そんな現実を見てきたから大上段にかまえてムキに教え込むというのではなく、もっと柔らかい教えはないかというとそれが落語だったんです。教育目的で落語が生まれた訳ではないのですが、落語にはその教えがちゃんと入っていたのです。メディアの無い時代には寄席が勉強の場で、笑いながら勉強をするというものでした。戦後はまさに無秩序の時代。やわらかく道徳、倫理観を説いて行くというとこれは噺家にまさる職業は無いと思いましたね。

 私は肺をわずらっていましたから、10年の間に一人でも多くの人から「噺を聞いて良かった」と思わせる噺家になろうと、人が1つ噺を覚えたと言えば10覚える、10覚えたと言えば100、と無我夢中で覚えました。また、落語は師匠からそのまま教えてもらうだけでもいけないんです。時代と共に噺は変わりますからね。そういう時代の言葉を大事にしなくてはいけないのも落語なのです。

三遊亭円楽さん

 落語の世界に入り、猪突猛進しているうちに7年が経ち真打になりました。その頃医者に「余命3年所じゃない。まだまだ生きますよ」と言われて、志が変わりましたね。これは未来を目指してもう少しやらなくてはだめだと思いました。

 当時、寄席の経営がみなうまくいかず、メディアで人気者になって寄席に逆輸入しようと考えたんです。しかし、「落語はコマーシャルを入れるものとしては不向きですよ。落ちまで聞かないと面白くないでしょ」って言われてしまうのです。そうして思案の結果、あの大喜利というスタイルができたんです。すると、視聴率がうなぎ上りになり、その後37年も続いている“笑点”につながるのです。当時「氷点」という小説が大ベストセラーになったのを覚えていますか?それにあやかるようにと、笑いのポイントを我々に焦点をあててみて下さいという意味もあって“笑点”という名になりました。どんな商売でもやれば出来るんです。やらないから出来ない。企業努力というのが大事なんです。

三遊亭円楽さん

 江戸だって大阪だって落語に大した差はありません。でも江戸落語でも番頭さんは上方語を喋るんですよ。江戸っ子だったら「そばへ来な」と言うのですが、番頭さんは江戸でも「ねぎより」って言うとかね。なぜかというと近江の人は商売が上手といって、落語では番頭さんは上方語をしゃべります。近江に行ったおりに天丼300円の看板につられて天丼屋さんに入りました。すると店主は、「おやっ円楽師匠こんちおしのびですか?」なんて言うんですよね。“おしのびですか”なんて言われた時には、300円の天丼なんて食べれなくなっちゃっいましたよ。お腹のたしにしようと思っただけなのに、900円のてんぷら定食を頼みました。1000円出して100円の釣りなんてもらえません。「釣りは入らねえよ。土地でも買ってくれ」なんて言って帰ってきましたけどね。そうしたら「毎度ありがとうございます」なんて言うもんですから、「またここに来なくては悪いかな」と思いましたね。今の時代「いらっしゃい」もまともに言えない人が多いにもかかわらず、繁盛している所は違うなと思いましたね。

 そういった人情の機微も教えもひっくるめて落語には全てが入っているんです。だから私は落語っていうのは本当にすごいと思いますね。落語が始まったのは、今から約800年前に宇治大納言が書いた拾遺集がもとになったようです。またおとぎ話(教訓話)をしながら慰めたというものが落語の始まりという説もあります。江戸期になると、江戸と大阪でほぼ同時期に小噺が出てきました。形式が少し違い、江戸では今のような形式でお風呂屋さんや、鳶職の頭の家の二階が若い衆たちの寝床で広くなっており、そこで寄席をやっていたようです。一方大阪は“つじ噺”といって道路に演台をおいて話す形式でした。そして明治になると女性が文明開化で外に出るようになり、そこで女性の表現が絶品な三遊亭円朝が女性の噺をたくさん作ったんです。それで落語が男女を問わず浸透していったのです。私もその時代の真実を伝えてくれるエピソードを大事に演じています。落語だけではありませんが、いくらやっても、これでいいという到達点はありません。自分が教わってきたこのすばらしい文化を次の世代にも渡して行きたいと思っています。


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