1949年、「都議会リポート」の前身である「東京都議会月報」が都議会法制部企画課から発行された。その後、号を重ねること218号、1969年まで休みなく刊行されてきた。
やがて「都議会月報」の編集、発行が広報課に移管されたのを機会に、誌名も「都議会リポート」と改められ、以後30年余、都議会の動きをできるだけ詳しく、わかりやすくPRしてきた。 そして2002年、378号をもって「都議会リポート」は、その印刷媒体としての役割を終えることとなった。さまざまなメディアが急速に発達してきた21世紀、「都議会リポート」も新時代にふさわしいメディアとして、大きな進化を遂げようとしている。 そこで、「都議会リポート」が誕生した1970年以降の30年余、東京は、日本は、そして世界は、どのように時代の移り変りを見せてきたのか、都民の皆様とともに振り返ってみたいと思う。 「都議会リポート」が発刊された1970年といえば、大阪では日本万国博覧会が開かれ、日本は高度成長期の終盤にあった。 この年、杉並区では初の光化学スモッグ警報が発令された。よど号が日本赤軍にハイジャックされ、ウーマンリブ第1回大会が開催された。銀座、渋谷、池袋、浅草には歩行者天国が登場した。 三島由紀夫が割腹自殺を遂げるという衝撃的な事件が起こったのもこの年であった。フランスではドゴール大統領が亡くなった。 東京都知事は、それまで2期を務めた東龍太郎都知事から1967年、革新系で「福祉と対話」を掲げる美濃部亮吉都知事へと変わった。学生運動、政治運動などで揺れた「激動の60年代」から70年代へ、各地で市民運動が盛り上がりをみせ東京は元気だった。1971年には「都民を公害から防衛する計画」が発表され「ごみ戦争」宣言がされた。72年には念願の沖縄返還が実現となった。総理大臣は、佐藤栄作から、「今太閤」ともてはやされ、国民から圧倒的に支持された田中角栄に代わり、日中国交が樹立。上野動物園ではパンダのカンカン、ランランが公開され国民的人気を呼んだ。田中首相の「日本列島改造論」は、一躍大ベストセラーとなった。
アメリカではニクソン再選を策するグループが、民主党本部に侵入し、盗聴装置を仕掛けようとしたウォーターゲート事件が発覚。後に、大統領自身もこの事件に関わっていたことが判明し辞任。
そして73年、オイルショックによりトイレットペーパー買い占め騒動が起こった。当時は、まるでこの世から永遠にトイレットペーパーが無くならんばかりのパニックに人々は襲われたものだった。
74年は、人気TVドラマ「岸辺のアルバム」のテーマともなった台風16号による多摩川堤防決壊により、多くの人が家を失った。
1975年は国際婦人年、イギリスでは性差別禁止法が施行。多くの女性が性差別について意識するようになり、日本でも地域の婦人学級などでは「女性史・女性学」の講座が人気を集めていた。
家庭の主婦たちの間にも「男は仕事、女は家庭」という図式に疑問を抱く人が増え始め、ある食品メーカーの「私作る人、僕食べる人」というコピーが“差別的表現”であるとされ放送中止になった。
同年、1950年代末に始まり、15年もの長きにわたったベトナム戦争が終結。フランスのランブイエでは「先進国首脳会議」が開かれ、日本国民はエリザベス女王の初来日にわいた。
翌76年は、ロッキード事件で田中角栄前首相が逮捕された。77年、東京都稲城市に地震予知観測所が開設。米軍から立川基地が全面返還された。
78年には、都民の長い間の念願であった「隅田川の花火大会」が17年ぶりに開かれ多くの観客を集めた。この花火大会の人気がきっかけになり全国で花火大会ブームが起こったともいわれている。
1979年、3期務めた美濃部亮吉都知事に代わって、鈴木俊一都知事が誕生。東京で、初のタウンミーティングが開かれた。
1980年、アメリカではカーター大統領からレーガン大統領に。
韓国の光州では、学生・市民と警察・戒厳軍が衝突。193名の犠牲者を出した。88年になって韓国政府は、この事件を「民主化のための努力の一環」と認定し、公式に謝罪した。
80年の終わりになって、ジョン・レノンが自宅前で待ち伏せていた熱狂的ファンの凶弾に倒れ、その衝撃は世界中を駆け巡った。日本では、毎年のロングリサイタルが大評判で、多くの女性ファンの心をつかんで離さなかった越路吹雪が56歳の若さで亡くなった。さらに、芸能界では山口百恵が引退し、松田聖子が鮮烈なデビュー。時代は、次々とアイドルを生み、少しづつ新しい表情を見せ始めた。
81年、「マイタウン東京’81-東京都総合実施計画」発表。環境影響評価条例を全面施行、神経科学、精神科学、臨床医学、老人の4総合研究所が法人化された。また、都市計画決定事務などの23項目の区への移管が決定された。82年には、「東京都長期計画」が20年ぶりに策定された。83年、杉並清掃工場が落成。
さらに「男女平等と共同参加へのとうきょうプラン」が策定され、初の外国人とのタウンミーティングも開催。「マイタウン東京’83-東京都総合実施計画」がまとまった。アメリカではエイズが猛威をふるい、日本でもようやくエイズ研究班が発足した。
84年には、「新しい都制度のあり方」が報告され、都の花として、ソメイヨシノに決定することとなった。この年、オーストラリアのニューサウスウェールズ州から寄贈されたコアラを多摩動物園で公開。
85年には、半世紀ぶりに環状7号線が全線開通した。また、三減三増の定数是正後初の都議会選挙が行われた。「東京都庁の位置を定める条例」が公布され、都庁の西新宿への移転が決定となり、筑波科学博覧会も開催された。
翌86年には、上野動物園でパンダの赤ちゃんが誕生して国民的話題となった。大島三原山が12年ぶりに噴火したこの年、東京都には災害対策本部が設置された。
87年には、テニスの殿堂「有明コロシアム」が完成した。また、国鉄が民営化され7つのJR法人が誕生。利根川進博士がノーベル医学・生理学賞を受賞した。
日本でもエイズ汚染が深刻な社会問題となり、危機感を抱いた東京都では「エイズテレフォンサービス」を実施することとなった。
88年には「臨海部副都心開発基本計画」および「豊洲・晴海開発 基本方針」を決定。日本初の屋根付き球場「東京ドーム」が完成した。
89年1月8日からは元号が平成と改まった。
21世紀までの最後の10年となった90年、ソ連ではゴルバチョフ書記長が大統領になり、東西ドイツが統一され、サッチャー英首相が辞任した。日本では礼宮様が成婚、秋篠宮家創設となった。
91年には、新都庁舎開庁、都立大学が八王子に移転した。都営地下鉄12号線・練馬―光が丘間が開業となった。
翌92年、「東京女性白書92-東京都行動計画十年の歩みと今後の展望」を発表。「東京都エイズ対策基本方針」が策定され、都議会が「首都機能移転問題に関する決議」を採択。東京都の廃棄物処理および再利用に関する条例が公布された。
93年、「東京都江戸東京博物館」がオープン。「世界都市博覧会-東京フロンティア-展開計画」が決定。94年には「政治倫理の確立のための東京都知事の資産等の公開に関する条例」が成立した。
95年は、年明け早々に阪神・淡路大震災が発生、死者6430人にもなる大惨事となった。さらに、地下鉄サリン事件が発生、死者11人、被害者5500人という大事件が起こったこの年、東京都知事は、4期務めた鈴木俊一知事から青島幸男都知事となった。青島都知事は、選挙中の公約であった「都市博中止」を決断した。
秋川市と五日市市が合併し「あきる野市」が誕生。臨海都市交通ゆりかもめが開業、東京初の地域テレビ局「MXテレビ」が開局。東京ビッグサイトも完成した。
96年、ごみ減量のための「東京ルール」を考える懇談会が最終報告を発表。首都移転に反対する都内の国会・自治体の議員が都庁に結集し「首都機能移転問題を考える全都大会」を開催した。97年には「子供が輝くまち東京プラン~少子化社会への対応のために」が発表された。98年には「東京都高齢社会対応住宅計画」を策定。循環型社会に対応した都営住宅「エコピア」が完成。99年には、石原慎太郎都知事が誕生した。
電子メールによる「政策提言箱」が開設。「東京都・七都県市総合防災訓練」が実施された。
そして2000年、東京の人口は1200万人を突破、42年ぶりに新額面紙幣2千円札が発行されたが、思惑とは違い市場にはほとんど出回らず、今ではすっかり忘れられた存在となってしまった。新宿都庁舎は環境ISO14001認証を取得した。
この年も少年の凶悪事件は跡を絶たず、デフレと相まって社会不安はますます増大していった。
急死した小渕首相に代わって首相となった森喜朗首相だが、短命に終わり2001年4月、小泉純一郎首相が誕生。87%という驚異的支持率を獲得し「聖域なき構造改革」を宣言。国会中継は、連日高視聴率!ワイドショー内閣とも呼ばれた。
2001年9月11日、ハイジャックされた旅客機4機がNYのツインタワービルなどに激突する同時多発テロが発生。犠牲者は約4000名と発表され、ドルは急落した。アフガニスタンでは、テロの首謀者とされるビンラディン氏捕獲のための空爆が続いた。
日本国内では狂牛病感染牛が発見され、肉骨粉の流出から牛肉離れが全国に広がって、閉店を余儀なくされる焼肉店も続出した。東京都では、懸案であったホテル税が12月に可決された。
輝かしい新世紀を迎えたにもかかわらず、不況と戦争の影響は、世界中に暗い影を落としている。そんな折の12月22日、鹿児島県奄美大島沖で、不審船事件が起こった。
2002年、景気の回復はもちろんだが、何よりも平和な時代の幕開けとなる1年になってくれることを祈るばかりである。